雫
ぽた、ぽたり。
そんな音を聞いた気がして、久慈は自分の足元を見やった。土で汚れたままのスニーカーに、右側のズボンの裾は破れている。スーツの上着は投げ捨てたまま、どこにあるかも分からない。額を拭うと腕が血で濡れている気がしてそこを見たが、ただの汗だった。
警察が周囲にいないことを確認し、久慈は滑り込むように雑居ビルの一つに入る。
三階まで上がり、がらんとした空きテナントに入る。誰もいないし、物一つ置かれていない。窓ガラスは全部割れていた。
久慈はガラス片を靴底で押しやって注意深く坐り、ゴミ箱から漁ってきたパンの食べ残しと歪んだペットボトルに入れた水道水で空腹を癒やす。
冷えた焼きそばパンの残りを無理やり水道水で飲み込むと、涙が滲んだ。
サムライ事件。それは妖刀による連続殺人事件だった。妻の体を突き刺したあの刀は警察に回収されたと、ニュースで聞いた。どうやらそれ以降、日本刀による通り魔事件は起こっていない。
あの時妻の体を貫いたのが事件を終焉に向かわせたことは、刑事として間違った行動だったとは今でも思っていない。ただその代償として妻殺しの容疑者となり久慈は警察から追われ続けることになった。
時々思う。何故逃げ出してしまったのか。大人しく妻殺しとして逮捕されれば良かったのだ。
だが思い返せば元々久慈は不器用な人間だった。
周囲からよく刑事になれたと言われるくらいで、始末書の書き方なら久慈に教われと新人に言われるほど、よく失敗もしていたし物も壊すし、関係者に迷惑も掛けてきた。それでも妙に粘り強く頑張ることだけは苦手ではなかった。しがみついて離さなければ最終的には何とかなる。そうやって結婚も手に入れたものだ。
けれど家庭というものはそれではやっていけなかった。
久慈は刑事という仕事柄もあったが、周囲で聞く以上に家庭を妻に放り投げていた。娘が中学になり荒れてよその家を泊まり歩くようになっても相談にすら乗らず、事件解決の為と警察署に寝泊まりを繰り返した。それはある意味で家庭から逃げていたと取られても仕方ない。
だからあの日、妖刀を手にした妻の殺意は久慈に向いたのだ。
と、ぽたり、何かが久慈から落ちる。
また、ぽたり、ぽたりと。
それはずっと久慈から落ちていたものだった。
足元を見れば床一面、真っ黒な液体で満たされていた。
その漆黒の海に、久慈は吸い込まれるようにして落ちていく。まるで自分自身が雫になったかのように。




