コーヒーブレイク
珈琲豆を挽く音だけが沈黙を破っていた。
私はじっとコーヒーとクラブハウスサンドがやってくるのを待つ。店内には自分以外の客はおらず、相変わらずどうやって営業を続けているのかと疑問を覚えてしまう。
「先生! すみません! 遅れました!」
コーヒーよりも先に担当編集の仲邑絵美がやってきてしまった。彼女は耳の上でくるんとカーブしている赤みがかかった髪を揺らし、忙しなく私の前までやってくると、肩から吊り下げていた大きなバッグを足元に下ろした。
「いつものをホットで」
「かしこまりました」
いつの間に側までやってきたのだろう。マスターはおしぼりと水を音もなくテーブルの上に準備すると軽く頭を下げ、足音一つさせずにカウンターに戻ってしまう。
「先生、やっと半分まできましたね。編集部の方でもなかなかの評判で、期待されてますよ」
今まで評判が良かったことなどないので話半分に受け止めたが、苦労が少し報われたような心持ちもあり、自然と頬が緩んでしまう。
「それで今後の方向性なんですが」
彼女は鞄からプリントアウトを取り出し、幾つか提案をしてくる。
「ところで仲邑さん。ちょっと相談があるんですよ」
この百物語の企画を書くようになってから私の周辺で奇妙なことが起こっていた。
「睡眠不足やストレス性の疲労からくる幻聴や幻覚、とお医者さんには言われたんですよね? ……あ、どうも」
彼女の前にはホットココアが置かれ、テーブルには甘い香りが漂う。
「でもですね、以前はこんなことなかったんですよ。前も原稿が行き詰まると寝ていてもずっと考えていてそのまま夢の中で原稿を書いたりもしてました。けどその時ですらこんなことなかったんです。急に道が消えたり隣の人が入れ替わったり、本棚の本に穴が開いていたり、覚えのない身体の傷があったりするもんなんですか?」
「それくらいありますよ、誰でも」
絵美は気軽にそう言ってココアを飲む。
「あの、クラブハウスサンドまだでしょうか」
「クラブハウスサンドのご注文ですか」
「そうじゃなくて、さっき頼んだんですよ。ほら、新しく入った女性の店員さん、いたでしょ?」
マスターは怪訝な顔をしながら私たちのテーブルまでやってくると、声を潜めてこう言った。
「すみませんがうちは誰一人として店員を雇っていません。私一人でずっと店をやっています」
私は店内をぐるりと見回し、自分たち以外誰もいないことを確認すると、彼女に言った。
「僕はどうかしてる」




