死ぬこと
「先生気をつけて下さいね」
と声を掛けた彼女に力なく手を挙げて応え、並木は喫茶店を出た。いつも締め切りのことばかり口にする担当編集が珍しく心配するほどに顔色も悪く、徹夜明けの視界に午後の日差しは眩し過ぎた。
並木が通りに出たところで対面の歩道を、裸足の女が駆けていた。被っていたナースキャップが突風に飛ばされて舞ったがそれを拾う余裕もないらしく、彼女は一瞬こちらを見ただけでそのまま交差点へと駆けていく。並木は道路に落ちたそのキャップを拾おうかと思ったが、視界を猛スピードのタクシーが遮ってしまい、結局諦めてしまった。
歩道には街路樹の落ち葉で黄色い絨毯が出来ていて、それが道路側にも広がっている。並木はその上を歩き出そうとして一歩、踏み出した。
その時、悲鳴を聞いた。
見ればタクシーが交差点で事故を起こしている。その脇に倒れているのは先程裸足で駆けていたナース服の彼女だ。小さな娘連れの女性が近寄り声を掛けている。
並木は小走りでそちらに向かう。
前がひしゃげたタクシーの中から、額を血で濡らした男が出てきた。運転手が「西園寺様、大丈夫ですか」と声を掛けているが、高そうなスーツを着た男は頭を振るだけで答えない。
タクシーと反対側に飛ばされた車からもスーツの男が二人出てきて、片方は血が滲む額を押さえながら「警察です」と手帳を見せて野次馬を割って近寄ってくる。
「久慈さん、オレ、つい焦って」
「いいんだカゲ。それより、救急車は誰か呼びましたか?」
ぼくが、と手を挙げたのはランドセルを背負った小学生の男子だ。名札に「蒔島」と書かれている。
「ああ、すまない。私だ。議会に間に合わなくなったと、伝えておいてくれ」
タクシーの男は少し離れた場所で電話を掛けている。並木は野次馬の列から一歩前に出て、倒れている彼女を見ようとした。
「すまない……レイコ」
空の方からそんな呟きが降ってきたように感じて、並木は顔を上げる。ほとんど雲のない青空が広がっていたが、そこに一つの黒い点が現れ、見る間に大きくなっていく。
誰かが声を上げた。
けれどそれが何に対してだったのか分からないまま、その黒いものは並木に向かってきた。
人が死ぬ瞬間は、こんなものかも知れない。
「お兄ちゃん!」
意識が遠ざかる中、並木は女の叫びを聞いた、ような気がした。けれどその感覚もすぐに消え失せ、あとは原稿が白紙に戻るように、何もかもが真っ白な世界へと変わってしまった。




