家
「それは捨てちゃって下さい」
レイコは引越し業者の若いアルバイトが手にしたミニカーセットを見て、笑顔で指示をする。
夫が購入した車庫付きのマイホームのローンはまだ三十三年も残っていたが、離婚したレイコにとってはもうどうでもいいことだった。
リビングからは大型テレビもソファもテーブルも搬出され、随分と広々している。最初はこんな風に何もなかったのだ。それがいつの間にか余計なものが増えて、どんどん狭くなっていった。今度引っ越すワンルームにはなるべく物を置かないでいようとレイコは思っているが、それでもあれやこれやと増えてしまうのだろう。どうせなら何も持たずに生きたい。人間関係すらも捨て去って。
「リビングとキッチンの物は終わりました。あと寝室と書斎ですけど、どうしますか」
眠そうな目をしたぱっとしないバイトの子は、確か野村という名だった。十歳も年の差があるとそれでも可愛く見えるもので、レイコが何も答えずに黙って見つめていると、照れて視線をあちこちに泳がせる。
「全部捨てて下さい。寝室のものも、全部」
それだけ伝え、唖然としている野村を残して部屋を出た。
夫が会社を首になったことを知ったのは、偶然だった。
レイコは何かボロが出ないかとこの半年ばかり、調査会社に夫の動向を調べてもらっていた。中古だが念願の車を手に入れてから、驚くほど家に居ることが減った。最初はそれだけ欲しかった車なのだと思っていたけれど、夕ご飯を車の中に持ち込んで食べる姿を目撃してからは、この人は病気だという理解に至った。
引っ越し業者のトラックが出ていくのを見送り、レイコはボストンバッグを持ち上げた。大通りに出てタクシーを拾おうと思ったその時、元夫の車の音が近づいてくるのが分かった。視線を送ると家の前で停車し、狼狽した様子の矢吹が出てきた。
「あら、おかえりなさい」
「おい、これどういうことなんだ?」
「分からないの? 私たち離婚したのよ。あなたが私よりも車を愛していたから」
と、その刹那、キッチンで爆発音がした。仕掛けておいたガスボンベが予想よりも早く引火してしまったらしい。火の手が上がり、一瞬、矢吹の顔が光った。
「俺はお前を愛していたよ。誰よりも。ただ、車は俺の人生だ。それだけは理解して欲しかった」
「ごめんなさい。あなたの理解者にはなれなかったわ」
家が燃える。
警察に電話を掛ける元夫の姿を黙って見つめながら、レイコは寂しげに笑っていた。




