車
いつもと同じ潮の香りだ。
愛用する黒の86の窓を開け、矢吹達哉はタブレットキャンディを噛み締めながら助手席に遺書を置いた。
中古で百五十万掛けて手に入れた念願の86は、グレードはGだったものの、それでも矢吹の日常生活を盛り上げてくれる大切な存在となった。結婚して三年、家のローンを払いながらも自分の小遣いを節約してようやく掴んだ愛車だった。
矢吹はドアを開け、車から出る。
壊れた柵の前に『自殺禁止』と書かれた看板があった。それで抑止力になるのなら誰もこんな場所を訪れないだろう。柵の側まで行けば切り立った崖から二十五メートル下の波飛沫がよく見える。地面を蹴れば一瞬だが、三十日通ってまだ一度もそれを決行できていない。
矢吹は風の冷たさに一旦車内へと戻る。
あれは三歳の誕生日だった。
父親がミニカーのセットを買ってきてくれて、どれがどういう名前でどういう開発の経緯があるのかと、事細かに説明してくれた。
本当なら車の開発に携わりたかった。
けれど現実は浄水器の営業をやっていて、それも先月末で首になり、今は無職のまま死ぬことを考える毎日だ。
そんなことは知らない妻が作った弁当に、矢吹は箸をつける。妻は細かいところに気が利く良い女性だ、と思っている。卵焼きも甘いのがいいと言うと、自分の好みを曲げて毎日砂糖たっぷりのものを焼いてくれる。うどんのダシは関西風でお好み焼きと一緒にご飯を食べることに文句を言わない。
矢吹の母が関西の出身で、普段から父親と文化の違いで言い合いをしていたのを見ていたから、従順な妻というのは非情にありがたい存在だった。
ただ唯一の欠点は車に理解がないことだけだ。
「あれ?」
と、グローブボックスが僅かに閉まっていないことに気づく。
それを開けると中から出てきたのは折り畳まれた離婚届だった。既に妻の名前が書かれて判子まで押されている。
彼女の口から「離婚」という言葉が出たことは記憶の限り、一度もない。それなのに何故これがここに入れられているのだろうか。
分からない。
それを確かめる為、矢吹はエンジンを掛ける。
心地よい振動を感じながらクラッチを緩め、アクセルを踏み込む。黒の愛車は海岸線の道路を勢い良く走り始めた。
カーラジオからは甘いウェディングソングが流れ、ラジオの女性DJは「おめでとうございます」と声を掛ける。矢吹の隣には、何も乗っていない。半開きのグローブボックスがそんな男をそっと、笑っていた。




