ある死神の戸惑い
そこは病院の集中治療室だった。計器が沢山置かれ、一人の女性がそれに繋がれている。だがもう息をしていない。
男は手にした黒革の手帳に書かれた名前を確認すると、手のひらサイズの小さな鎌を取り出し、彼女の魂を切り離す。ぼやんと浮かび上がった発光体へと細長い筒を向けると、すう、と吸い込まれ、男はそれに蓋をした。
病院を出ると、男は裏手の土手に向かう。待っていたのは一羽のカラスだ。漆黒の翼の毛づくろいをしていた彼は、男が筒を差し出すとそれを咥え、飛び立った。
カラスは魂の運び屋で、男は死神と人間たちから呼ばれていた。
随分と古びた二階建ての木造アパートだった。その二〇四号室の住人がこれから魂を刈り取られる人間らしい。
まだ一時間ほど予定時刻には早かった。インタフォンを押すこともなく、ノックさえしない。ドアをすり抜けてしまうことも可能だったが、入ろうとしたところで女がドアを開け、中から出てきた。
中に入ると物が散乱していた。本や雑誌の山は崩れ、テーブルの上の大皿がひっくり返って食べかけのピザが床のカーペットにこびりついている。缶ビールは転がり、残った液体をフローリングに垂らし、それが微かに泡を吹いていた。
果たして、目的の男性は額から血を流し、横たわっていた。おそらく脇に落ちている灰皿を使ったのだろう。
毎回死因は書かれていない。ただこれはどう見ても殺害現場だった。
時間は早いがこのまま誰にも発見されず死ぬのだろうと思い、死神は鎌を取り出す。
そこに慌ただしく入ってきたのは先程出ていった女とは別の、髪の長い女性だった。
これはやはり時間通りにした方がいいか、と思い直し、死神は一旦アパートを離れた。
一時間して戻ってくると、部屋は綺麗に片付けられ、倒れていた男の姿が消えていた。代わりに女が倒れている。
男の死体が消えてしまった。
そのことは酷く死神を戸惑わせた。
落ち着いて状況を確認し、再度黒革の手帳を見る。そこに書かれた氏名は並木司郎。確かに男性のものだ。時刻も十五時四十七分。間違いない。
しかし倒れているのは女性だった。
魂を刈り取る対象を間違えることは担当の死神としては決してあってはならない。
――これは間違いだ。
ごく稀に神の名簿にもミスがあった。おそらく今回もそうだろうと考え、死神はその場を立ち去った。
その五分後に救急車が到着し、駆けつけた隊員はその男性からウィッグを取り「大丈夫ですか?」と尋ねたのだった。




