舌
「ねえルーキー、散歩。散歩だよ?」
そうやって声を掛ければいつも尻尾を振り回して吠えていたルーキーの姿はもうない。夕美が二歳の時にこの家にやってきた子犬も八年を経て、すっかり老犬の貫禄を見せている。
母親から言われ、仕方なくこうして日曜にもかかわらず朝から起きてきたのに。
最後の頼みでグイっとリードを引っ張ると、よろよろと立ち上がり、バウ、と低く吠えた。
「いってきまーす」
大きな門扉脇のドアを開け、そこからルーキーを先に出す。黒塗りの車が一台、正面玄関から出ていくのを見たが、議員に立候補するという父親の関係者がよく出入りしていた。
自分には関係がない。
小さい頃からそういう姿勢でいるのだけれど、周囲はそんな風に夕美を見てくれない。結果的に孤立することも多く、小さい頃からルーキーが一番彼女の話を聞いてくれる友人だったかも知れない。
家を出て交差点を渡り、しばらく住宅街の路地を歩くとやがて堤防が見えてくる。そこの河川敷の散歩道を道なりに進む。公園では夕美とそう違わない歳の子らがキャッチボールを楽しんでいた。それを見るでもなく眺めてルーキーを休ませると、河川敷を離れて住宅街へと戻る。
大通りと交差するところにある駄菓子屋で都こんぶを買って食べるのがルーキーの散歩の楽しみの一つだった。
彼は貰い食いや拾い食いをしないが、夕美が与える都こんぶだけは口にした。
「今日は食べるんだ」
それすら最近は食べなくなっていたのだけれど、この日はほん少しだけ舐めるようにして口に入れた。
最後の交差点を渡ろうとした時だった。不意にリードが重くなる。
見ればルーキーが座ったまま動かない。どっしりと臀部を地面につけ、どこを見るでもなく視線を投げ出している。
「もうなの?」
こうなるとどうしようもなくて、散歩なのに夕美が抱きかかえて帰ることになる。
小さい頃ならまだ軽くて両手でひょいと持てたのに、今や背中に負わなければ彼を夕美一人では運ぶことは難しかった。
「ほら、ついたよ。降りて」
十五分ほど掛けて家に戻り、彼を犬小屋の前で下ろしたのだけれど、彼は立ち上がることもせず、そのまま寝そべって、地面に体を預けてしまっている。口が開き、だらり、と舌が出ていた。
「ルーキー?」
何度も呼びかける。けれど彼は返事をしない。
夕美は彼の口から伸びた舌に触れる。それはすっかり乾いていて、彼の息吹を微塵も感じない。
彼は死んだんだと、夕美の心が伝えていた。




