三本千円
久慈誠二はスーツ姿で走っていた。駅のホームまで続く長い階段を一段飛ばして軽快に駆け上がっていた。心臓は高鳴り、息は切れそうだが、ここで諦めたら間に合わない。その気持ちだけが彼の手足を動かしていた。
「間に合え!」
最後の一段を蹴り飛ばしてホームに躍り出たが、その彼が目にしたのは駅員に見送られ、スムーズに出発していった特急車両の最後尾だった。
やはり間に合わなかった。
腕時計を見ると十時五分。次の特急は一時間後だ。先輩刑事たちは全員今出た特急に乗車済みだろう。外に出てタクシーを拾おうかとも考えたが、財布を見ると千円札が一枚だけ。あとは小銭が申し訳程度に収まっている。
久慈はベンチに腰を下ろし、荒い息と共に思い切りネクタイを緩めた。
その途端、嫌な音がする。ネクタイが裂けたのだ。上司にどこで買ったんだと言われた濃い緑にオレンジの楕円の水玉が踊っているネクタイは、結び目の一センチ程度下で今にも千切れそうになっている。
どこかの駅地下のワゴンセールで三本千円で母親が買ってきたものだ。小さい頃から彼女のセンスは折り紙付きで悪かった、というよりも安いものなら何でも良かったのだろう。そういう家庭でもあった。
久慈は大きな溜息を一つ落とし、千切れかかったそれをシャツから引き抜くと、ベンチに背中を預け、天を仰いだ。
一体何の為に田舎から出てきたのか。
小さい頃から何の取り柄もなく、周囲からバカにされてばかりだった。それでも何とか試験に合格し警官になれた。けれど失敗続きで先輩どころか同期や後輩にも「お前には向いてない」と言われてしまう。
そんな久慈が刑事を目指すと宣言した時、応援してくれたのは実家の母親だけだった。
その母親が東京のアパートに様子見に出てきた時に買って持ってきてくれたのが、三本千円のネクタイだ。大きく値札とセールのタグが付いたそれをにこにこの笑顔で久慈に渡しながら、母親は言ったものだ。
「もっと立派なもんはあんた自身が出世した時に自分の金出して買えばええ。けどね、安物だろうが粗悪品だろうが、人生で一番役に立つのはこういうものなんよ。破れたら買い換えればええ。そうやっていくつも潰して、あんた自身が立派になればええんよ」
久慈はベンチから立ち上がり、そういえばと、駅構内のコンビニの隣でネクタイのワゴンセールをしていたことを思い出す。携帯電話を手に取り、謝罪の文面を考えつつ、メールの作成ボタンを押した。




