第6話――「夫の反撃」
レオナルドが提出した手紙の写しを受け取ってから3日後、アントニオは弁護士とともにナポリ東部の機械工房を訪れた。
通りに面した建物の奥では旋盤が回り、金属を削る音が絶えず響いていた。大型の蒸気機関を製造できるほどの規模ではないが、船舶やポンプの修理、機械部品の加工を広く請け負っており、アントニオも独立したころから何度も世話になっている。
工房の奥から姿を現したヴィットリオ・セッラは58歳で、20年以上機械工として働いてきた男だった。白髪は増えたが腕は衰えておらず、アントニオも図面だけでは加工方法を決められない時には相談していた。
「久しぶりだな。今日は何を壊した?」
「修理を頼みに来たんじゃない。昔の仕事について確かめたいことがあるんだ。1885年ごろ、俺が小さな蒸気調整器の部品を何度も作ってもらったのを覚えているか」
ヴィットリオは作業台の布で手を拭きながら考えた。
「覚えているよ。同じような調整棒を何本も削らされたからな。最初のものは重すぎて戻りが遅く、次は細くしすぎて曲がった。お前が寸法を変えるたびに、こっちはまたかと思っていた」
アントニオは隣の弁護士と顔を見合わせた。こちらから詳しい事情を話す前にそこまで覚えているなら、証言として使える可能性がある。
「当時の注文記録は残っているだろうか。できれば、失敗した部品や俺が渡した図面も確認したい」
「帳簿は残している。税金のことで役人に突かれたくないから、注文は捨てないことにしているんだ。ただ、古い部品まで残っているかは分からん。何か揉め事でも起きたのか?」
アントニオは、大学時代の友人だったレオナルドが発明の権利を主張し始めたことを簡単に説明した。ヴィットリオは途中から仕事の手を止め、話を聞き終えると若い職人へ工房を任せて倉庫へ向かった。
20分ほどして戻ってきた時には、埃をかぶった帳簿と木箱を抱えていた。
「帳簿はすぐ見つかった。箱の方は捨てたと思っていたが、失敗した部品をまとめて残してあったらしい」
木箱の中には、錆の浮いた金属棒、小さな弁、歪んだばねなどが入っていた。アントニオにはどれも見覚えがある。現在の調整器へたどり着く前、試作と失敗を繰り返していたころの部品だった。
ヴィットリオが帳簿を開くと、1885年6月の欄にアントニオの名があり、真鍮製の弁、調整棒、軸受けの加工代が記されていた。その後も数か月おきに注文が続いており、1886年4月になると加工内容が大きく変わっている。
「この時に構造を変えたんだ」
アントニオは木箱から形の違う調整棒を2本取り出し、作業台へ並べた。
「最初は1本の棒で弁を直接動かそうとしていたが、負荷が急に変わると反応が安定しなかった。それで途中に支点を置いて動きを分けた。今の調整器につながる形になったのは、この変更をしてからだ」
「その日は俺も覚えている。朝からここへ居座って穴の位置を変えては組み直していたせいで、俺の昼飯まで冷たくなった」
ヴィットリオが笑うと、弁護士は帳簿の日付と2本の部品を順に確かめた。
「この記録は使えそうです。モレッティ氏が1881年に現在と同じ構造を考えていたと主張し、その帳面にも完成後の仕組みまで描かれているのであれば、説明のつかない部分が出てきます。ベルナールディさんが1886年になって試行錯誤の末に作った構造を、1881年のモレッティ氏が先に知っていたことになりますから」
そこでアントニオも、レオナルドが作った古い記録に弱点がある可能性を理解した。
「もしあいつが俺の完成図を見てから1881年の帳面を作ったのなら、その時には存在していなかった構造まで描いてしまったかもしれないということですね」
「その可能性があります。ただし、原本を確認するまでは何も知らせない方がいいでしょう。こちらがどこを問題にするつもりなのか分かれば、相手に説明を作る時間を与えてしまいます」
弁護士はヴィットリオにも、帳簿と部品を当面そのまま保管し、レオナルド側から問い合わせが来ても直接答えないよう頼んだ。ヴィットリオは面倒そうに顔をしかめたが、本当のことを証言するのなら構わないと引き受けた。
工房を出たころには、アントニオの気持ちはかなり軽くなっていた。これまでレオナルド側から偽の証拠を突きつけられるばかりだったが、初めてこちらから崩せる材料が見つかったからだ。
「これなら勝てるでしょうか」
「まだそこまでは言えません。ただ、相手の帳面に現在の構造が詳しく描かれているほど、こちらには有利です。このことは原本を見るまで伏せておきましょう」
アントニオは了承したあと、少し迷ってから妻にも話さない方がよいのかと尋ねた。
「奥様を疑っておられるのですか」
「まさか。そういう意味じゃありません」
「でしたら、家庭のことまで私が口を出す必要はないでしょう。ただ、裁判で使う方針については、知る人間が少ない方が安全です」
アントニオはその助言にも納得した。
しかし、その夜、食卓でイザベラの顔を見ると、黙っているという判断は簡単に崩れた。
◇ ◇ ◇
「今日は少し顔つきが明るくなりましたね。何かよいことがあったのですか」
夕食を終えるころ、イザベラの方から尋ねた。
「ああ。久しぶりにヴィットリオの工房へ行ってきた」
「セッラさんのところへ? 結婚したばかりのころ、銅の鍋をくださった方ですね」
「覚えていたか。あの人が、昔の帳簿だけじゃなく失敗した部品まで残していたんだ」
アントニオは、1885年から繰り返した試作の記録と、1886年に構造を変更した時の部品が見つかったことを説明した。弁護士から情報を広げないよう言われたことは覚えていたものの、妻までその対象に含める必要はないと考えていた。
「レオナルドは、自分が1881年には今の発明を考えていたと主張しているだろう。ところが俺は1886年になってから、試行錯誤の末に今の構造へ変えている。その時の部品と帳簿が残っていた」
「それなら、先生の帳面に現在と同じ構造が描かれていれば、年代が合わなくなるのですね」
「そういうことだ。まだ相手の原本を見ていないから断定はできないけど、あいつが今の図面を参考に古い記録を作ったのなら、かなり危ないところを突けると思う」
アントニオの声には、ここ数日なかった明るさが戻っていた。
イザベラは夫の話を聞きながら、自分がレオナルドへ持ち出した図面を思い出していた。あの図面には、アントニオが1886年になって完成させた構造も当然描かれている。レオナルドがそれを参考に1881年の帳面を作ったのであれば、夫の弁護士が考えた通りの矛盾が生じる。
「このことを知っている方は多いのですか」
「弁護士とヴィットリオ、それから俺と君だけだ。向こうには知られないようにしておけと言われている」
「でしたら、私にもお話しにならない方がよかったのではありませんか」
アントニオは不思議そうな顔をした。
「君にまで隠す必要はないだろう。最近は誰が情報を漏らしているのか分からなくて嫌になることもあるけど、それで君まで疑うようになったら、レオナルドの思うつぼじゃないか」
その言葉に、イザベラは返事をするまで少し時間がかかった。
「そうですね。私まで疑っていては、落ち着いて暮らすこともできませんものね」
「そういうことだ。だから、この件が片づくまでは君にも迷惑をかけると思うが、もう少し付き合ってくれ」
「もちろんです」
アントニオは安心したように食事へ戻った。
その夜、夫の上着を片づけながら、イザベラは聞いたばかりの話を何度も考えた。ヴィットリオの工房には1885年からの帳簿があり、1886年に構造を変更した証拠となる古い部品も残っているうえ、本人が当時のことを証言できる。レオナルドの帳面に完成後の構造が描かれていれば、偽造を疑われる可能性は高い。
夫を守るのなら、この話を聞かなかったことにすればよい。レオナルドへ知らせなければ、アントニオ側が初めて相手の用意していないところから攻められる。
ところが、偽造が明らかになり、レオナルドが弁護士としての立場まで失うかもしれないと考えると、そのまま黙っていることにも迷いが生じた。
アントニオに勝ってほしくないわけではない。それでも、レオナルドが破滅するところを望んでいるわけでもなかった。
夫と愛人のどちらを選ぶかという単純な話にしてしまえば、答えは出せなくなる。イザベラはその夜も結論を出さないまま眠った。
◇ ◇ ◇
翌日、レオナルドは午前中を裁判所で過ごし、午後1時を過ぎてから事務所へ戻ってきた。
イザベラには昨日届いた商会の契約書を持ってくるよう命じただけで、アントニオとの争いについては何も尋ねない。契約書の2か所を修正するよう指示すると、そのまま午後の来客に備えて別の書類を読み始めた。
「ほかにご用はございますか」
「今はない。午後3時までに清書しておいてくれ」
イザベラは書類を抱えたまま少し待ったが、レオナルドは顔を上げなかった。
「夫の件については、何もお尋ねにならないのですか」
「こちらから出すものは出した。次はアントニオ側が何を持ってくるかを見る番だ。君から何か聞いてほしいことがあるのなら別だが」
「そのような意味ではありません。ただ、争っている最中なのに随分落ち着いていらっしゃるので、気になっただけです」
「焦ったところで証拠は増えない。仕事へ戻ってくれ」
それ以上話す理由を失い、イザベラは執務室を出た。
午後の仕事を進めながらも、前夜アントニオから聞いた話が頭から離れなかった。夫の発明を守りたいのであれば黙っていればよく、自分からレオナルドへ教える理由などどこにもない。
それでも、レオナルドが何も知らないまま帳面を提出し、そこで偽造を疑われる場面を考えると、気持ちは落ち着かなかった。
午後6時を過ぎて若い書記が帰ったあとも、イザベラは明日に回してよい帳簿の整理を続けていた。やがて執務室から出てきたレオナルドが、その姿を見て足を止める。
「その帳簿は急ぎではないだろう。まだ帰らないのか」
「もう少しで終わります」
「仕事が理由ではなさそうだな。私に話したいことがあるなら、そう言えばいい」
イザベラは帳簿を閉じた。
「夫の弁護士が、あなたの帳面を崩せる材料を見つけたようです。昔から夫の部品を作っていた機械工のところに、1885年と1886年の加工記録が残っていました。失敗した部品も捨てずに保管されているそうです」
レオナルドの表情から余裕が消えた。
「どのような部品だ」
「詳しいことまでは分かりません。ただ、夫は1886年に調整器の構造を大きく変え、その時に今の仕組みの一部ができたと話していました。調整棒の動きを途中で分けるため、支点を追加したそうです」
レオナルドはその説明を聞くと、書棚から大学時代のものとして用意した革表紙の帳面を取り出した。
問題のページを開けば、そこにはイザベラから見せられた完成図を参考に描いた調整器がある。中央には、今聞いたばかりの支点も含まれていた。
「君が持ってきた図面には、この部分があったな」
「ありました。先生は、それを1881年の図として描いてしまったのですね」
「ああ。このまま原本を出し、相手が1886年の部品と加工記録を示せば、帳面が後から書かれたものではないかと疑われる。そこから手紙まで調べられれば、かなり面倒になる」
イザベラは帳面を見ながら、夫の弁護士が正しいところを突いていたのだと分かった。
「それなら、もうおやめになってはいかがですか。夫には本当の記録が残っています。これ以上続ければ、いつか偽造まで明らかになります」
「今回の弱点が分かったのなら、それに合わせて主張を変えればいい。1881年に完成した構造を考えていたと言う必要はない。基本となる考えだけを私が先に持ち、具体的な仕組みはアントニオが後から改良したことにすれば、1886年の部品とも矛盾しない」
「また話を作り替えるのですか」
「もともと作った話だ。どこまで主張するかを変えるだけだよ」
レオナルドは帳面を閉じた。
「その機械工が誰なのか教えてくれ。相手が何を持っているのか、先に確かめておきたい」
「そこまでは申し上げません。夫が私を信用して話してくれたことを、もう十分あなたへ漏らしてしまいました」
「今の話だけでも、アントニオ側がどこを狙っているのかは分かった。名前まで言いたくないのなら、無理に聞くつもりはない」
レオナルドがあっさり引いたため、イザベラはかえってその真意を測りかねた。
「名前が分からなくてもよいのですか」
「今の情報だけでも対応はできる。相手が1886年の構造変更を使うつもりなら、こちらはそこを争点にしなければいい」
イザベラはしばらく黙っていたが、どうしても確かめておきたいことがあった。
「もし私が今のことを何もお話ししなかったら、先生はどうなっていましたか」
「帳面を今の形で出しただろうな。相手が本当に矛盾を見つけていたなら、こちらはかなり不利になったはずだ。偽造まで証明されれば、弁護士としての立場も危うくなっただろう」
その答えを聞くと、イザベラは自分が何をしたのかを理解した。
アントニオは妻だからと信用し、弁護士から止められた情報まで家で話した。その結果、初めて見つけた有力な反撃材料が、相手へ届いてしまったのである。
「私は、あなたがすべてを失うところを見たくなかっただけです」
「そのために、アントニオの切り札を私へ教えたのか」
「夫に負けてほしいと思っているわけではありません。そんなふうに言わないでください」
「なら、君自身にも整理できていないのだろう。今日はもう帰った方がいい」
レオナルドはそれ以上責めず、帳面をしまった。
イザベラもその日は残ろうとしなかった。自宅へ向かう馬車の中では、夫が嬉しそうにヴィットリオの帳簿について話していた時の顔を何度も思い出した。
◇ ◇ ◇
レオナルドは翌日、アントニオへの主張を組み直した。
1881年に現在の調整器を完成させていたという説明ではなく、負荷の変化に応じて蒸気量を自動で調節する基本的な考えを当時から持っており、その考えをアントニオへ伝えたという形へ範囲を狭めた。具体的な構造や1886年以降の改良はアントニオが行ったと認めても、発明の出発点はこちらにあったと主張することはできる。
数日後、その内容を整理した書面がアントニオ側の弁護士へ届いた。
「話が変わっていますね」
書面を読み終えたアントニオが言うと、弁護士も同じ箇所を確認した。
「モレッティ氏は、最終的な構造まで自分が考えたという主張を引っ込めています。1881年には基本原理だけを思いつき、具体的な機構はあなたが後から完成させたという話に変えています。これでは、1886年に構造を変更した部品を出しても、それ自体は相手の主張と矛盾しません」
「こちらがそこを突こうとしていたことを知って、先に逃げたようにしか見えません」
「私も気にはなります。前の書面より、明らかにヴィットリオさんの記録と衝突しにくい内容になっていますから」
アントニオは机の上に置かれた書面を読み返した。
「この話を知っていたのは、先生と俺とヴィットリオだけですよね」
「ここではその3人です」
弁護士が答えると、アントニオは少し迷ってから付け加えた。
「妻にも話しました。工房から帰った夜に、見つかったものを全部話しています」
弁護士はすぐにイザベラを疑わなかった。
「私の事務所から情報が出た可能性もありますし、セッラ氏の工房で誰かが聞いていた可能性もあります。奥様だけに疑いを向けるのは早すぎます。ただ、1885年の時期が相手へ伝わった件もありますから、情報がどこから漏れているのかは確かめた方がよいでしょう」
アントニオにも、前回と同じ偶然だと片づけることはできなくなっていた。
1885年から実験記録が残っていることを知っていた者の中にイザベラがいた。そして今回も、1886年に構造を変えたことを話した直後に、レオナルドはその部分と衝突しない主張へ変えてきた。
だからといって妻が情報を渡しているとは考えたくなかった。最初に発明のことを他人へ話さないよう注意し、図面を金庫へ入れるよう勧めたのもイザベラである。レオナルドから最初の書状が届いた時にも、本人へ怒鳴り込まず弁護士へ相談するよう止めてくれた。
疑う理由と、信じる理由が同じ家の中に並んでいた。
「しばらくの間、裁判の方針はご家族にも詳しく話さない方がよいでしょう。奥様を犯人と決めつけるためではありません。次の情報が漏れるかどうかを見るためです」
弁護士の提案に、アントニオも今回は反対しなかった。
「分かりました。次に何か見つかっても、しばらく妻には話さないようにします」
結婚してから3年、仕事上の秘密であってもイザベラだけには話してきた。その習慣を変えることに抵抗はあったが、何もしないままでは同じことが続く。
◇ ◇ ◇
その日の夕食では、イザベラの方から争いの進み具合を尋ねた。
「今日は弁護士の先生とお会いになったのでしょう。ヴィットリオさんの記録について、何か分かりましたか」
「ああ。ただ、まだ相手の帳面の原本を見ていないから、今の段階では大きく動けないそうだ。しばらく待つことになった」
「先生側から新しい書面が届いたのではありませんか」
アントニオはパンを切っていた手を止めずに答えた。
「届いたよ。ただ、弁護士が確認しているところだから、まだ話せるほどのことはないんだ」
これまでなら、内容を聞かれればその場で説明していた。イザベラにも違いは分かったらしく、夫の顔を見たまま少し間を置いた。
「そうですか。では、先生の判断を待つしかありませんね」
「ああ。俺も余計なことをせず、今は本来の仕事を進めるよ」
アントニオはそれ以上話さなかった。
イザベラも問い重ねず、夫の皿が空けば料理を取り分けた。アントニオは水差しを妻の方へ寄せ、翌日の帰宅時刻について話した。食卓の様子だけを見れば、これまでと変わらない夫婦だった。
ただし、その日からアントニオは裁判に関する重要な書類を自宅へ持ち帰らず、弁護士の事務所へ預けるようになった。妻が裏切っていると決めたわけではなく、情報が漏れている経路を確かめるために、自宅へ入れる情報そのものを減らすことにしたのだ。
同じころ、レオナルドは執務室でナポリ市内の機械工房について調べていた。
イザベラは最後まで職人の名を教えなかったが、アントニオが独立したころから付き合いがあり、1885年と1886年に調整器の試作部品を加工した工房という条件が分かっている。過去の取引先や大学時代の知人をたどれば、候補はそれほど多くなかった。
数日もかからず、ヴィットリオ・セッラの名へたどり着いた。
レオナルドは特許争いに関する事実を確認したいという内容の書簡を作り、翌朝の郵便に回した。
イザベラが夫から聞いた秘密をすべて話したわけではなかった。
しかし、レオナルドにとっては、残りを自分で探すだけの手掛かりがあれば十分だった。




