第7話――「妻にだけ話した嘘」
レオナルドがヴィットリオ・セッラへ書簡を送った翌日、ヴィットリオは返事を書く代わりに、受け取った書簡をそのままアントニオの弁護士へ持ち込んだ。
「モレッティ氏は、特許争いに関する事実を確認したいと書いています。セッラ氏が直接会う必要はありませんので、今後の連絡はこちらを通すよう返事を出しておきましょう」
弁護士が書簡を机へ置くと、アントニオは差出人の名を見ながら眉を寄せた。
「それにしても早すぎませんか。俺たちがヴィットリオの帳簿と部品を見つけたばかりなのに、もうあいつが工房へ連絡している。俺が出入りしたところを誰かに見られていたんでしょうか」
「そこまでは分かりません。セッラ氏は長く機械加工をしている方ですし、あなたとの付き合いを知る者もいるでしょう。モレッティ氏が本気で調べれば、名前へたどり着くこと自体は難しくないと思います。ただ、これまでの経緯まで考えると、私も時期がよすぎるとは感じています」
1885年から実験記録が残っていることをレオナルドは知っていた。1886年の構造変更を反撃材料にしようとした時にも、こちらが証拠を出す前に主張を変えている。そのうえ、今度はヴィットリオへ接触してきた。
弁護士はしばらく考えてから尋ねた。
「奥様には、セッラ氏の名前まで話しているのですね」
「はい。工房から帰った夜に話しました。妻は結婚したばかりのころにヴィットリオと会っていますから、名前を出せばすぐ分かります」
「それなら、奥様から情報が出ているのかどうか、一度確かめた方がよいでしょう」
アントニオは顔を上げた。
「妻を問い詰めるのは嫌です。もし何もしていなかったら、俺が疑ったことだけが残るでしょう」
「私も問い詰めることは勧めません。本当に情報を渡している場合は警戒されますし、何もしていない場合はご夫婦の関係を傷つけます。相手が外から知ることのできない情報を1つだけ奥様へ伝え、それにモレッティ氏が反応するかを見る方が確実です」
「つまり、妻に嘘を話すわけですか」
「そうなります。ただし、実際の争いに影響する内容を使ってはいけません。存在しない証拠を1つ作り、その話だけを奥様へ伝えます」
アントニオには抵抗があった。
結婚してから3年、仕事の失敗も収入のことも、新しい発明のことも、イザベラにはほとんど隠さず話してきた。妻が法律事務所で働いているからではなく、自分を裏切るようなことはしないと考えていたからである。
その信頼を確かめるために、今度は自分が妻を騙さなければならない。
「どんな話なら使えますか」
「モレッティ氏が、そのままでは困る内容にしましょう。彼は1882年にあなたへ基本的な考えを伝えたと主張していますから、その時期を崩す証拠が見つかったことにします」
弁護士はレオナルドが提出した書面を開き、該当箇所を示した。
「1882年3月、あなたは1か月ほどナポリを離れ、トリノに滞在していたことにしましょう。父上へ送った手紙が見つかり、そこにはトリノの消印も残っている。したがって、モレッティ氏が主張する時期にナポリで会い、直接発明の説明を受けたことはあり得ないという話です」
「でも、そのころ俺はナポリにいましたよ」
「だから都合がいいのです。実際の証拠として出すことはありませんし、セッラ氏にも私の事務所の者にも知らせません。奥様以外は、あなたと私しか知らない話になります」
アントニオはしばらく黙っていた。
妻を試すこと自体に気が進まない。それでも、疑いを抱えたまま何事もなかったように暮らし続けることも難しかった。
「分かりました。やってみます」
◇ ◇ ◇
その晩、イザベラは夕食の途中で、夫の表情が前日までより明るいことに気づいた。
「今日は何か進展があったのですか」
以前なら、尋ねられる前からアントニオの方が話していただろう。
今回は一度考えてから答えた。
「ああ。古い書類を調べてもらっていたら、父が保管していた手紙の中から使えそうなものが見つかったらしい」
「どのようなお手紙ですか」
「俺が大学を出たころに父へ送ったものだ。レオナルドは1882年3月ごろ、ナポリで俺に蒸気弁の考えを説明したと主張しているだろう。ところが、その時期に俺がトリノに滞在していたことを示す手紙が見つかった。トリノの消印が残っていて、1か月近く向こうにいたことも分かるらしい」
イザベラは料理を取り分けながら聞いていた。
「それが本当なら、先生がナポリであなたへ直接説明したという話とは合いませんね」
「ああ。弁護士も使える証拠になると言っていた。原本は向こうで預かってもらっている。前みたいにこちらの手の内を先に知られたくないから、この話は誰にも言わないでくれ」
「もちろんです。先生の事務所でも口にいたしません」
返事は自然だった。
アントニオは妻の顔を見ながら、自分の方が後ろめたくなった。目の前では、イザベラがいつもと変わらず夕食を整え、秘密を守ると答えている。その妻を試すため、存在しない手紙の話をしている。
「どうかなさいましたか」
「いや。最近、人を疑うことばかり考えている自分が嫌になっていただけだ」
「今は仕方がないと思います。先生が次に何をなさるのか分からないのですから、用心しておいた方がよいでしょう」
「それでも、君まで疑うようにはなりたくないよ」
イザベラは夫の顔を見た。
「私はあなたに隠していることなどありません」
アントニオは問い返せなかった。
「そうだな。悪かった」
食事が終わるまで、もう特許の話はしなかった。
◇ ◇ ◇
翌日、イザベラはいつもの時刻に法律事務所へ出勤した。
レオナルドは午前中から依頼人との打ち合わせが続き、昼を過ぎてもアントニオとの争いには触れなかった。ヴィットリオへ送った書簡についても何も話さない。
午後4時ごろに執務室へ呼ばれた時も、頼まれたのは土地契約に関する書類の確認だった。
「こちらの2か所ですが、金額は同じなのに支払日が違っています。どちらを残せばよろしいでしょうか」
「後ろの日付が正しい。前の記載を直して、今日中に清書してくれ」
「承知しました」
イザベラが書類をまとめて退出しようとすると、レオナルドが尋ねた。
「ご主人の方は、その後何か言っていたか」
「特許争いについてでしょうか」
「ああ。こちらも新しい書面を出している。向こうでも何か動いていると思っただけだ」
昨夜アントニオから聞いたトリノの手紙が頭に浮かんだ。
「私は詳しいことを聞いておりません」
「そうか。それならいい」
レオナルドは追及せず、次の書類へ目を移した。
イザベラは執務室を出た。
机へ戻ってからも、昨夜の話が頭から離れなかった。アントニオは最近、以前のように裁判の内容を何でも話すわけではなくなり、自宅の金庫からも関係書類が消えている。そんな夫が久しぶりに具体的な証拠について話し、誰にも知らせないよう念を押した。
あの手紙が本当に存在するなら、レオナルドの立場はさらに悪くなる。
偽造した帳面や手紙まで明らかになれば、発明の権利を得られないだけでは済まず、弁護士としての立場まで危うくなる。そのことはレオナルド本人から聞いていた。
それでも、今度の証拠まで知らせるつもりはなかった。
夫から秘密にしてほしいと頼まれたばかりである。これ以上アントニオを不利にしたくないという気持ちも本当だった。
◇ ◇ ◇
午後6時を過ぎて若い書記が帰ったあとも、イザベラは翌日へ回せる帳簿の整理を続けていた。
しばらくして執務室から出てきたレオナルドが、その姿を見て足を止めた。
「その帳簿は明日でも構わないはずだ。まだ帰らないのか」
「今日中に済ませておきたいのです」
「前にも同じことを言っていたな。仕事を理由に残っているだけなら、無理をする必要はないぞ」
「帰れとおっしゃるなら帰ります」
「私はどちらでも構わない」
レオナルドが執務室へ戻ろうとしたため、イザベラは呼び止めた。
「先生は、もし今回の争いに負けたら、どうなるのですか。発明を手に入れられないだけで済むのでしょうか」
「普通に負けるだけなら、それで終わる。ただ、帳面や手紙の偽造まで証明されれば、弁護士として無事では済まないだろう」
「仕事を続けられなくなる可能性もあるのですね」
「あるだろうな。それでも、今のところ引くつもりはない」
イザベラは机の上へ視線を落とした。
ここで帰ればよい。
アントニオから聞いたことを黙っていれば、夫が有利になる可能性は高い。それでも、レオナルドが何も知らないまま偽造を暴かれ、これまで築いてきたものを失うかもしれないと考えると、そのまま帰ることができなかった。
「夫の弁護士が、新しい証拠を見つけたそうです」
レオナルドが足を止めた。
「どんな証拠だ」
「1882年3月、夫がナポリにいなかったことを示す手紙が残っていると聞きました」
レオナルドは執務室へ戻らず、イザベラへ向き直った。
「詳しく聞かせてくれ」
「そのころ夫は1か月ほどトリノへ滞在し、父親へ手紙を送っていたそうです。トリノの消印も残っているので、先生が主張している時期にナポリで直接会っていたことはあり得ないと、弁護士の先生は考えているようです」
「君は、その手紙を見たのか」
「いいえ。夫から聞いただけです。原本は弁護士の先生が預かっていて、私にも見せていません」
「アントニオからは、この話を誰にもするなと言われたのだろう」
イザベラはすぐには答えなかった。
「先生が偽造で破滅するところを見たいわけではありません。だからお話ししただけです」
「アントニオを勝たせたいのなら、黙っている方がいいことくらいは君にも分かっているはずだ」
「分かっています。夫に負けてほしいわけでもありません。これ以上は聞かないでください」
自分でも矛盾していることは分かっていた。
イザベラはそれ以上話さず、その日は執務室にも残らないまま帰宅した。
◇ ◇ ◇
翌朝、レオナルドは大学時代の書簡と、これまで相手側へ出した文書を机へ並べた。
1882年3月にナポリでアントニオへ直接説明したという部分を残しておく必要はない。基本的な着想を伝えた時期を1881年末へ移し、その後も書簡や直接の会話で何度か内容を伝えたという形にすれば、トリノにいたという話とは衝突しない。
午後には修正した書面の下書きができた。
レオナルドは内容を確認してからイザベラを執務室へ呼び、清書を命じた。
受け取ったイザベラは途中まで読んだところで、前の書面との違いに気づいた。
「夫へ考えを伝えた時期を1881年末へ変えたのですね。直接会った時期についても、以前ほど限定していません」
「その方が事実関係を広く主張できるからな」
「昨日、私がお話ししたことを使ったのでしょう」
「それを避けるために教えてくれたのではないのか。君が何も言わなければ、私は前の内容のまま進めていた」
イザベラは反論せず、書類を持って自分の机へ戻った。
アントニオとの約束を破ったことへの罪悪感はあった。それでも、レオナルドが危険を避けられたことに安堵しているのも事実だった。
以前なら、その2つを同時に抱えている自分を認めようとはしなかった。
今はもう、どちらか一方だけが本心なのだとは考えていなかった。
◇ ◇ ◇
修正された書面がアントニオ側の弁護士へ届いたのは、その2日後だった。
呼び出されたアントニオが内容を確認すると、レオナルドの主張は前のものから変わっていた。1882年3月にナポリで直接説明したという記述はなくなり、1881年末から書簡などで基本的な考えを伝えていたという内容になっている。
「俺たちが作ったトリノの話を避けていますね」
「そのように見えます。奥様へ話した内容を知らなければ、この時期にわざわざ主張を変える理由は乏しいでしょう」
弁護士は新旧の書面を机へ並べた。
「念のため確認します。トリノの手紙が見つかったという話は、奥様以外にはしていませんね」
「はい。そもそも存在しない手紙です。ここで先生と俺が決めた話ですから、ヴィットリオにも話していません」
「私も事務所の者には伝えていません」
アントニオは新しい書面を見たまま、なかなか口を開かなかった。
「昨日の夜も、妻はいつも通りだったんです。夕食を作って、俺の仕事のことを気にして、今朝も帰る時刻を聞いていました。あれまで全部嘘だったとは思えない」
「全部が嘘である必要はありません。奥様があなたを大切に思っていることと、モレッティ氏へ情報を渡していることは、同時に起こり得ます」
「愛情があるのに、俺の発明を奪おうとしている男へ情報を渡すんですか」
「そこは理由を確かめなければ分かりません。ご本人の意思で協力しているのか、何か弱みを握られているのか、それとも別の事情があるのか、今の材料だけでは判断できません」
アントニオはしばらく考えた。
「直接聞きます。妻しか知らない嘘に、レオナルドが反応したんでしょう。これ以上、何を確かめる必要があるんです」
「情報を渡していることは、かなり確かになりました。しかし、理由までは分かっていません。モレッティ氏が奥様を脅している可能性もあります。今ここで問い詰めれば、奥様が正直に話すとは限りませんし、モレッティ氏にもこちらが気づいたと伝わるでしょう」
脅されている可能性を指摘されると、アントニオもすぐには動けなかった。
妻が自分の意思でレオナルドへ協力しているとは、まだ考えたくなかった。何か事情があり、言えないまま従わされているのなら、責める前にそれを知る必要がある。
「分かりました。しばらく何も知らないふりをします。ただ、もう裁判の話を妻へ伝えることはできません」
「それでよいでしょう。今後は、奥様へ話した内容が相手へ伝わる可能性を考えておいてください」
結婚してから初めて、アントニオは妻を、守るべき家族であると同時に、裁判の情報を話せない相手として考えなければならなくなった。
◇ ◇ ◇
その日の夜、イザベラは普段より少し遅く帰宅した。
「ただいま戻りました」
「お帰り。夕食はまだだから、着替えたら一緒に食べよう」
「お待たせして申し訳ありません。今日は仕事が少し長引きました」
イザベラは外套を脱ぎ、いつものように白い手袋を外した。そのまま食卓の準備をしながら夫へ尋ねる。
「今日は弁護士の先生のところへ行かれたのですか。例の件で何か進展はございましたか」
「ああ、少し話してきた。ただ、まだ結論が出るような段階ではないそうだ。しばらく時間がかかると思う」
アントニオは、レオナルドがトリノの話を避けるよう主張を変えたことも、その結果としてイザベラから情報が漏れていると分かったことも話さなかった。
「そうですか。それなら焦っても仕方がありませんね」
「俺もそう思っている。今は発明の仕事を止めないことの方が大事だ」
食卓についたあとも、2人は普段と変わらない会話を続けた。イザベラは夫の皿が空けば料理を取り分け、アントニオは翌日午前中に工房へ行くことだけを伝えた。
「夕方にはお戻りになりますか」
「ああ。そのつもりだ」
「分かりました。それなら、いつもの時刻に夕食を用意しておきます」
「頼むよ」
以前なら何でもない会話だった。
今のアントニオは、妻が仕事や裁判について尋ねるたび、どこまで答えてよいのかを考えてから口を開いていた。態度を変えて気づかれることも避けなければならない。
夜になって寝室へ入っても、イザベラを問い詰めることはしなかった。
隣で眠る妻が、なぜ自分の情報をレオナルドへ渡しているのかは分からない。脅されているのか、自分の意思で協力しているのか。それを確かめないまま怒りをぶつけても、真相には届かない。
だが、妻にだけ話した存在しない手紙の内容がレオナルドへ渡り、その直後に相手の主張が変わった事実は残った。
翌朝、白い手袋をはめて法律事務所へ向かうイザベラを、アントニオは玄関まで見送った。
「行ってまいります」
「ああ。気をつけて」
いつもと同じ言葉を交わし、扉が閉じるまで見送った。
その日からアントニオは、何も疑っていない夫としてイザベラに接しながら、妻とレオナルドの間で何が起きているのかを確かめることにした。




