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すべてを奪われた発明家、異世界で成り上がる  作者: ひまえび
第一章――「奪われる幸福」

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第5話――「疑われない妻」

 レオナルドから書状が届いた翌朝、アントニオはいつもより早く仕事場へ入った。昨夜は遅くまで実験帳を調べていたものの、1885年から本格的な試作を始めたという記録が確認できただけで、なぜレオナルドがその年を正確に知っているのかという疑問には答えが出なかった。


 仕事机には1885年以降の実験帳が4冊並んでいた。試作機を作る過程では旋盤工や鋳物工へ部品を頼んだこともあるが、職人へ渡したのはそれぞれが加工する部品の寸法だけで、装置全体の仕組みや開発を始めた時期まで話した覚えはない。製造業者へ詳しい構造を示したのも特許を申請してからである。そうなると、自宅の仕事場に置いてある実験帳を見たことのある者についても考えなければならなかった。


 その時、背後で扉が開いた。


「朝食の支度ができました。今日は召し上がらないのですか」


 振り返ると、イザベラが入口に立っている。


「ああ、今行くよ」


 返事をしたものの、アントニオはすぐには帳面を閉じなかった。妻の姿を見ているうちに、昨夜から胸に引っかかっていた疑問を、この機会に確かめておこうと思ったのである。


「イザベラ、少し聞いてもいいか。この実験帳を見たことはあるよな」


「ございます。以前、あなたに頼まれて記録を整理した時にも拝見しましたし、先日は製造業者からのお手紙を取りに来た時にも、机の上に置かれていました」


「それなら、レオナルドにこの中のことを話したことはないか」


 イザベラはわずかに息を止めたが、アントニオは帳面へ目を落としていたため、その変化には気づかなかった。


「先生に、ですか」


「ああ。責めているわけじゃない。君はあいつの事務所で働いているし、レオナルドも昔から俺のことを知っている。何かの折に、俺がどんな仕事をしているのか話題になったとしても不思議じゃないと思ってな」


 イザベラは夫の顔を見た。


 今ここで本当のことを話せば、まだ引き返せるのかもしれない。図面を持ち出したことも、1885年という年をレオナルドへ教えたことも、最初は脅されて始まった関係が今ではそうではなくなっていることも、すべて告白すればよい。アントニオは怒るだろうし、今までと同じ夫婦ではいられないかもしれないが、少なくともレオナルドが何をしているのかは伝えられる。


 しかし、その先にあるものを思うと口は動かなかった。真実を話せば、今の家も、妻としての立場も、法律事務所の仕事も失う可能性があり、何よりレオナルドとの関係は終わる。自分が守ろうとしているものの中に、夫だけではなく自分の欲しいものまで含まれていることを理解しながら、イザベラは静かに答えた。


「夫が発明の仕事をしているという程度なら、先生も昔からご存じです。新しい装置を作っていることも、以前の会話で少し触れたことはあったと思います。ただ、実験を始めた年までお話しした記憶はありません」


 完全な嘘ではないというわずかな逃げ道を残したせいか、思っていたより自然に言えた。


「そうか。変なことを聞いて悪かった。君が仕事の話を漏らすとは思っていないんだ。ただ、1885年という年まで正確に知られているのが、どうにも気になってな」


「私も不思議です。先生がどこで知ったのでしょう」


「大学時代の誰かから聞いたという話でもないしな。まあ、まずは弁護士に相談してみるよ」


 アントニオはようやく実験帳を閉じた。


「朝食にしよう。せっかく用意してくれたのに冷めてしまう」


「はい」


 イザベラは夫より先に仕事場を出た。庭を横切る間、背中へ視線を向けられているような気がして一度だけ振り返ったが、アントニオは金庫へ実験帳を戻しているだけだった。


 疑われなかったことには安堵したものの、その安堵と同じくらい胸には痛みが残った。少しくらい疑われた方が、まだ自分を責めやすかったかもしれない。夫が何のためらいもなく自分を信じたことが、かえって重かった。


 ◇ ◇ ◇


 アントニオが相談したのは、ナポリで商工関係の争いを多く扱っている弁護士だった。


 レオナルドから届いた書状、特許申請書の控え、1885年以降の実験帳を持参すると、弁護士は一通り目を通したうえで、相手が先に着想したと主張しているだけなら、それだけで特許を取り下げる理由にはならないと説明した。


「問題は、モレッティ氏がその主張を裏づけるものをどれだけ持っているかです。あなたの側には実際に装置を作り、改良を重ねてきた記録がありますから、材料を購入した時の記録や、部品を作らせた職人の証言も集めてください」


「大学時代の帳面があるらしいんです。1881年には基本的な考えを持っていたと書状にありました」


「その帳面の実物はご覧になりましたか」


「いいえ。しかし俺が今の装置を考え始めたのは、ずっと後です。レオナルドから教わったことも一度もありません」


「でしたら、その事実を裏づける材料を揃えましょう。法廷では、事実であることと、それを証明できることを分けて考えなければなりません」


 レオナルドと同じようなことを言われ、アントニオは思わず苦い顔をした。


「弁護士というのは、みんな同じことを言うんですね」


「記憶より記録の方が扱いやすい、というだけです。ただし、古い帳面が出てきたからといって、そこに書かれたことが自動的に真実になるわけでもありません。紙やインク、内容の不自然さ、ほかの記録との整合性など、調べるべき点はいくらでもあります」


 その説明を聞いて、アントニオは少しだけ気持ちを落ち着かせた。


「それなら争います。俺が作ったものを、あいつに渡すつもりはありません」


「分かりました。今後モレッティ氏から書面が届いたら、直接返事をせず私へ持ってきてください。腹を立てて本人に会いに行くことも避けた方がいいでしょう」


「妻にも同じことを言われました」


「賢明な奥様ですね」


「法律事務所で働いていますから、俺よりこういうことには詳しいんです」


 アントニオはそう言って笑った。


 その妻が勤めている法律事務所こそ、自分の発明を奪おうとしている相手の本拠であり、しかも妻自身がすでに争いの一部になっていることを、この時の彼は知らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 同じ日の午後、イザベラはレオナルドから執務室へ呼ばれた。


 机には数枚の書類が広げられていたが、イザベラは座る前に今朝の出来事を話した。


「夫から尋ねられました。1885年という年を、私が先生へ話したことはないかと聞かれたのです。先生がどうしてそこまで正確に知っているのか、ようやく疑い始めています」


 レオナルドはペンを置いた。


「君は何と答えた?」


「新しい装置を作っていることなら少し話したかもしれないが、実験を始めた年までは話した記憶がないと申し上げました」


「つまり、嘘をついたのか」


「そうするしかなかったでしょう。私が本当のことを話せば、困るのはあなたではありませんか」


「困りはするだろう。しかし、今朝の君に何を言うべきか、私は指示していない。夫へ嘘をつくと決めたのは君だ」


 その言い方にイザベラは腹を立てた。


「あなたはいつもそうですね。私をここまで連れてきておきながら、最後の一歩だけは私が選んだことだとおっしゃる」


「少なくとも今回は、私が何も言わないうちに君が嘘をついた。それまで私のせいにされても困る」


 言い返そうとしたが、できなかった。今朝のアントニオとの会話については、確かにレオナルドから何も命じられていない。


 イザベラは視線をそらし、机の中央に置かれている古い便箋へ目を向けた。


「これは何ですか」


「大学時代にアントニオからもらった手紙だ。本物だよ。あいつは時々、工房で作っているものや講義の愚痴を書いて送ってきた。捨てずに何通か残してある」


 便箋の下にはアントニオの署名があり、現在より少し若々しい筆跡ではあるものの、確かに夫の字だった。


「これをどうなさるのですか」


「私とアントニオが大学時代に機械の話をしていたこと自体は、こうした手紙で証明できる。ただし、それだけでは今の調整器には結びつかない。そこで、もう1通あったことにする」


 レオナルドが隣の便箋を差し出したが、イザベラは手を伸ばさなかった。


「また偽造するのですか」


「必要な証拠がないのなら、作るしかないだろう」


「必要なら、ではありません。もう書いてあるではありませんか」


 そこには、レオナルドから聞いた蒸気弁の考えに興味を持ったこと、自分でも試してみたいこと、形になれば知らせることなどが、アントニオからの手紙という形で記されていた。最後には夫の名まで書かれている。


「こんな手紙を夫は書いていません」


「だから今作っている。君には、文章として不自然なところがないかを見てもらいたい」


「お断りします。夫の名を使った偽物を、本物らしくする手伝いなどできません」


「そうか。それなら別の者に頼むだけだ。大学時代の知人を何人か探せば、当時のアントニオの書き方を覚えている者もいるだろう」


 レオナルドがあっさり引いたため、イザベラはかえって困った。


 そのまま放っておけば、誰か別の者が文章を見ることになる。それで不自然な手紙が出来上がれば、アントニオに見破られやすくなるのだから、夫にとっては好都合なはずだった。


 そう考えたにもかかわらず、イザベラの目は便箋の一文から離れなかった。


「夫は『君の考案した機構』などという書き方はしません。大学時代の手紙なら、もっと簡単に書きますし、機械については『機構』のような曖昧な言葉より、具体的な部品の名を出すことの方が多かったと思います」


 口にしてから、自分が何をしたのか気づいた。


 レオナルドは何も言わず、便箋の該当箇所へ線を引いた。


「今のは忘れてください。私は手伝うとは申し上げていません」


「もう聞いてしまった。それに、今の一言だけでもかなり助かる」


「違います。あまりにも夫らしくない文章だったから申し上げただけです」


「理由は何でもいい。それでは、アントニオならどう書く?」


「知りません」


「無理に聞くつもりはない。大学時代の知人にも相談できる」


 そこで黙っていればよかった。


 ところが、夫の名が付いた文章が夫らしくないことに、イザベラは妙な苛立ちを覚えた。偽物なら偽物らしく粗雑であればよいはずなのに、自分の知っているアントニオと違う文章で夫を装われることが気になったのである。


「『あなたから聞いた蒸気弁の考え』という書き方もしないと思います。夫なら、何の弁なのか、その働きまで書くでしょう。興味を持った機械について話す時は、昔から曖昧な表現を嫌いますから」


「例えば?」


「負荷が変わった時に蒸気量を調節する仕組みなら、そのままそう書くはずです。『蒸気弁の考え』だけでは、夫の文章としては不自然です」


 レオナルドは返事をせず、指摘された箇所を書き直した。


 そこでようやく、イザベラは自分がしていることを正面から理解した。


 最初の文章のままなら、アントニオ本人が読んだ時に違和感を覚えただろう。しかし、夫の言葉遣いを最もよく知る自分が手を入れたことで、偽の手紙は少しずつアントニオのものへ近づいている。


「もうやめてください。今申し上げたことを使わないでください」


「君が夫の文章をよく知っているのは当然だ。3年間、一緒に暮らしているのだから」


「そういう意味ではありません」


「では、どういう意味なのか説明してみろ」


 説明できなかった。


 レオナルドはしばらくイザベラを見たあと、ペンを置いた。


「もういい。これ以上は聞かない」


「この手紙を本当に使うのですか」


「必要になれば使う。アントニオが引けば出す必要もないが、今日別の弁護士へ相談した以上、おそらく争うだろう」


 イザベラは驚いて顔を上げた。


「夫が弁護士へ相談したことまで、もうご存じなのですか」


「裁判所も法律家の世界も、君の家の中ほど閉じてはいない。誰が誰へ相談したかくらい、知ろうと思えば耳に入る。それに、アントニオが素直に特許を諦めるとは最初から思っていない。あいつは金を失うことより、自分が作ったものを他人の発明だと言われることの方に耐えられない男だからな」


「夫のことを本当によくご存じなのですね」


「大学時代から見ている。君より長い」


 その言葉に、イザベラは自分でも理由の分からない不快感を覚えた。


「それでは、私より夫のことをご存じなのではありませんか」


「機械を作っている時のアントニオなら、そうかもしれない。夫としてのあいつについては君の方が詳しいし、今はその知識が私の役に立っている」


 イザベラは返事をせず、執務室を出た。


 ◇ ◇ ◇


 夕方になり、ほかの者が帰り支度を始めても、イザベラはすぐには席を立たなかった。清書した書簡をもう一度確認するふりをしながら、昼間、自分がレオナルドに教えたことを考えていた。


 図面を持ち出した時には、見るだけなら夫から何も失われないと言い聞かせた。1885年という年を教えた時にも、ただ年代を口にしただけだと思おうとした。


 しかし、今日は違う。


 存在しない手紙を、夫が本当に書いたような文章へ近づける手助けをした。それも、レオナルドから強く求められた結果ではなく、夫らしくない文章が気になって自分から口を出したのである。


 その事実を認めるほど胸が重くなったが、イザベラは帰宅するのではなく、再びレオナルドの執務室へ向かった。


「先ほどの手紙を、もう一度見せてください」


 扉を閉めながら言うと、レオナルドは机の上に残してあった便箋を差し出した。


「なぜだ?」


「いいから見せてください」


 イザベラは最初から最後まで読み直した。昼間よりはアントニオの文章に近くなっていたが、最後の一文にまだ違和感がある。


「ここも違います。夫なら『いずれ結果を知らせる』とは書かないでしょう。試すと決めた機械なら、もっと簡単に『動いたら見せる』と書くと思います」


「それは、手伝っているということでいいのか?」


「違います」


「では、なぜ直す?」


 イザベラはすぐには答えられなかった。


「私にも分かりません。ただ、夫の名前が書かれているのに、夫ではない人間の文章がそこにあるのが嫌なのです」


「本物らしくなれば、アントニオを追い詰めることになるぞ」


「分かっています」


「それでも直すのか」


 しばらく沈黙したあと、イザベラは別のことを尋ねた。


「夫に偽造だと見破られれば、あなたは負けるのでしょう」


「可能性は高くなる。偽造まで証明されれば、発明を取れないだけでは済まない。弁護士としての立場も危うくなるだろうな」


「それなら、なぜここまでなさるのです。発明がそれほど欲しいのですか」


「欲しいのは確かだ。ただ、それだけならもっと簡単な方法もある」


「では、ほかに何が欲しいのですか」


 レオナルドは答えを急がなかった。


「君は分かっているだろう」


 イザベラには、それ以上尋ねられなかった。


 自分がその答えの一部であることを、すでに知っていたからである。


 夫を守るだけなら、今ここで便箋を破り捨て、家へ帰ってすべてを話せばよい。そうすればアントニオは傷つくとしても、少なくともレオナルドの計画を止めることはできるかもしれない。


 しかし、それをすればレオナルドも失う。


 そのことを、夫への罪悪感と同じほど恐れている自分を、イザベラはもう否定できなかった。


「最後の一文を、『動いたら見せる』に直してください。その方が夫の書き方に近いです」


 レオナルドは黙って書き直した。


「ほかには?」


 イザベラはもう一度全体を読み、しばらく考えてから便箋を机へ戻した。


「少なくとも私には、夫の手紙として不自然には見えません」


「そうか」


「礼は言わないでください」


「分かった」


 以前なら、その素っ気ない返事に腹を立てただろう。今も腹立たしさはあったが、イザベラは帰ろうとはしなかった。


 最初の夜は脅されて始まった関係だったが、今のイザベラは自分の意思でレオナルドのもとに残っていた。夫を裏切っているという罪悪感は消えておらず、今日のようにアントニオを陥れる手助けまでしてしまえば、なおさら胸は痛んだ。


 それでも、そのためにレオナルドとの関係を断とうとは思えない。むしろ彼に拒まれ、自分だけが罪を抱えたまま取り残されることの方が怖くなっていた。自分を求めてほしいという気持ちがいつからこれほど強くなったのか、イザベラ自身にも分からなかったが、少なくとも今は、夫への罪悪感だけではこの男から離れられなくなっていた。


 レオナルドが椅子から立ち上がると、イザベラは自分から一歩近づいた。


 彼の胸へ頬を寄せている間だけは、自分が何を選び、何を捨てようとしているのかを考えずに済んだ。


 ◇ ◇ ◇


 3日後、アントニオのもとへ新たな書類が届けられた。


 今度はレオナルド個人からの書状ではなく、特許をめぐる異議を正式に申し立てるためのものである。アントニオは仕事場へ弁護士を招き、内容を1つずつ確認していった。


 レオナルド側の主張は明確だった。1881年に蒸気弁の自動調整について基本的な着想を得て、翌1882年にアントニオへ案を伝え、実際の試作を任せたというのである。その裏づけとして、大学時代の帳面、当時の知人による証言、そしてアントニオ自身から届いた手紙を提出する予定だと記されていた。


「俺からの手紙まであるのか」


 アントニオは書類を読み返した。


「レオナルドに手紙を書いたこと自体はあります。大学時代には何通も送りました。ただ、あいつから発明を教わったとか、それを俺が試すとか、そんなことを書いた覚えはありません」


「まずは実物を確認しましょう。古い手紙が何通も残っているのなら、別の内容を利用している可能性もありますし、偽造である可能性も捨てる必要はありません」


「そんなことで俺の発明を取られてたまるか」


「ですから、焦らないことです。こちらには実験帳も試作機もあり、部品を作った職人もいる。相手の出してくる証拠を1つずつ確認すればいいのです」


 アントニオは頷いたが、胸の中ではいくつもの事実が結びつき始めていた。


 レオナルドが持っているという大学時代の記録、なぜか正確に知られていた1885年という開発時期、そして自分が特許を申請する直前になって突然始まった権利の主張。どれも単独なら説明できるかもしれないが、すべてが偶然に重なったとは考えにくかった。


 その晩、アントニオは食卓でイザベラにも異議申立てのことを話した。


「レオナルドは本気で争うつもりらしい。大学時代に俺からもらった手紙まで証拠にすると言っている。俺が、あいつの考えた装置を試してみると書いた手紙らしいんだ」


 イザベラは料理を取り分けていた手を止めそうになったが、そのまま皿へ盛った。


「そのようなお手紙を書いた覚えはあるのですか」


「ない。ただ、あのころレオナルドへ何通も手紙を送ったのは事実だから、全部の内容まで覚えているわけじゃないんだ。弁護士は実物を見てから判断しろと言っている」


「それなら、その方がよいでしょう。相手の主張だけで昔の記憶まで疑う必要はありません」


 アントニオはしばらく黙ったあと、妻を見た。


「イザベラ、もし何か思い出したことがあったら、どんな小さなことでも教えてくれないか。レオナルドが俺の発明について誰かと話していたとか、君に詳しく尋ねてきたとか、それだけでもいい」


 イザベラは夫の目を見た。


 何も知らないと言えば、少なくとも今夜はこれまで通りの夫婦でいられる。夫の食卓も、家も、妻としての自分も失わずに済む。


「分かりました。何か思い出したら必ずお話しします」


「ありがとう。君まで巻き込んで悪いな」


「夫婦なのですから、そのようなことをおっしゃらないでください」


 以前の自分なら、何のためらいもなく言えた言葉だった。アントニオは安心したように頷き、それ以上妻を疑うこともなく食事へ戻った。


 その夜、夫が眠ったあとも、イザベラはなかなか眠れなかった。


 今ならまだ話せるのではないかと思った。明日の朝でもよい。アントニオを起こして、レオナルドとの関係も図面のことも、偽造された手紙に自分が手を加えたこともすべて告白すれば、少なくとも夫は自分が何と戦っているのかを知ることができる。


 だが、その場合、レオナルドは偽造を見破られ、追い詰められることになる。そして自分は二度と彼のもとへ行くことができないだろう。


 そこまで考えると、イザベラは夫を起こすことができなかった。


 翌朝も、何も言わずに白い手袋をはめ、いつものように法律事務所へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、レオナルド側から証拠の一部が提示された。


 アントニオの弁護士を通じて届いた写しの中には、問題の手紙も含まれていた。日付は1882年3月で、若いころのアントニオが使っていた便箋とよく似た紙に、負荷に応じて蒸気量を変えるというレオナルドの考えを試してみること、うまく動けば実物を見せることが書かれ、最後にはアントニオ・ベルナールディという署名まで入っている。


 アントニオは長い間、その写しを見ていた。


「字は俺の字に見えます」


「署名だけ本物の手紙から移した可能性もありますし、本文まで筆跡を真似た可能性もあります。原本を見ないうちに結論を出さないでください」


 弁護士にそう言われても、アントニオには別の不気味さがあった。


「でも、文章まで俺が書きそうなんです。機械のことを曖昧に書かず、どう動くのかまで書いているし、最後の『動いたら見せる』という言い方も、昔の俺なら使ったと思う」


「だからといって、ご自分の記憶より偽の証拠を信用してはいけません」


「分かっています。こんな手紙を出したはずはない。今の調整器を考えたのは、この日付より何年も後なんです」


「それなら、その事実を崩さずにいきましょう」


 アントニオは手紙を机へ置いた。


 その夜、家へ戻ると、写しをイザベラにも見せた。


「これがレオナルドの出してきた手紙だ。君はどう思う?」


 イザベラは受け取ったが、内容を読む必要はなかった。


 自分が直した文章である。


「あなたの筆跡には、よく似ています」


「やっぱりそう見えるか」


「ただ、昔のお手紙でしたら、私には本物かどうかまでは分かりません。筆跡が似ているというだけで、本物とは限らないでしょう」


「そうなんだが、文章まで俺らしいんだ。書いた覚えは絶対にないはずなのに、読んでいると自分の記憶の方がおかしいんじゃないかと思えてくる」


 アントニオは苦しそうに笑った。


「変な話だろう。自分の手紙なのに、自分が一番分からなくなっている」


 イザベラは便箋へ目を落とした。


 夫が混乱するのは当然だった。レオナルドが最初に書いた手紙なら、アントニオはもっと早く違和感を覚えたはずである。それを夫らしい文章へ近づけたのは、誰よりも近くでアントニオを見てきた妻自身だった。


「大丈夫です。あなたが書いていないのであれば、調べていけばいつか分かります」


 イザベラは手紙を夫へ返した。


「そうだな。俺まで自分を疑ったら、あいつの思うつぼだ」


「はい。今は、ご自分の記録を信じてください」


 アントニオは妻の言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。


 発明を奪おうとしているのは大学時代からの友人であり、証拠の中には自分の筆跡を真似た手紙まで現れた。それでも、アントニオにはまだ1人だけ、疑う必要がないと思っている相手がいた。


 その相手こそ、手紙を本物らしく整えたイザベラだった。

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