第4話――「盗まれた日付」
翌朝、アントニオは普段より早く身支度を整えた。大きな封筒には特許申請に必要な書類が収められており、前夜まで何度も確認したため、中に入っている紙の順番まで頭に入っている。
「今日は昼までには戻れると思う。申請を済ませたら、その足で製造業者にも寄ってくるよ」
朝食の席でそう話す夫を見ながら、イザベラは昨夜まで金庫にあった図面の1枚をレオナルドの事務所へ持ち出したことを思い出していた。もっとも、図面はすでに元の場所へ戻してあり、アントニオが封筒を確認しても何も不足していない。
「無事に受理されるとよいですね」
「ああ。書類に不備がなければ大丈夫だろう。そこは君にも見てもらったから安心している」
アントニオは珈琲を飲み終えると、椅子に掛けていた上着を着た。
「製造業者との話が長引いたら、帰りも遅くなるかもしれない。その時は夕食を先に済ませていてくれ」
「分かりました。気をつけて行ってらっしゃい」
玄関まで見送ると、アントニオはいつものように妻の頬へ口づけし、封筒を抱えて通りへ出ていった。
イザベラは扉を閉めてから、すぐにはその場を動かなかった。夫が持っていった書類はすべて揃い、図面にも汚れや折り目は残っていない。レオナルドも写しは作っていないと約束したのだから、昨日までのことは誰にも知られずに終わるはずだった。
少なくとも、この朝のイザベラはそう考えることにした。
◇ ◇ ◇
法律事務所へ着くと、レオナルドはすでに執務室で仕事を始めていた。イザベラも外套を掛け、白い手袋を外して自分の机へ向かったが、午前10時を過ぎても呼び鈴は鳴らなかった。
昨日は夫の図面を見せたのだから、何か話があるものと思っていた。しかしレオナルドは来客への対応を続け、イザベラには契約書の清書や帳簿の確認を命じただけで、アントニオの発明には一言も触れない。
昼前になってようやく呼び鈴が鳴り、イザベラは執務室へ入った。
「お呼びでしょうか」
「この手紙を清書してくれ。土地売買の件で依頼人へ出すものだ。午後の便に間に合わせたい」
机の上に置かれた原稿へ目を通しても、夫の発明に関係する記述はなかった。イザベラは書類を受け取ったものの、部屋を出る前に気になっていたことを尋ねた。
「昨日お見せした図面については、もう何もなさらないのですか」
「君が持ち帰った以上、ここにはないだろう」
「そういう意味ではありません。あれをご覧になりたがっていた理由は、もう済んだのかと伺っているのです」
「私には十分だった。アントニオが相変わらず優秀だということも分かったし、君が私のためなら夫の金庫を開けられるところまで来たことも分かった」
イザベラは眉を寄せた。
「あなたのためにしたのではないと申し上げました」
「それなら、誰のためだったのか答えは出たか?」
「その話をするために伺ったのではありません」
レオナルドはそれ以上追及せず、別の書類へ手を伸ばした。
「アントニオは今日、特許を出しに行ったのだろう」
「なぜご存じなのですか」
「昨日、今日中に図面を戻さなければならないと君自身が言った。あれだけ書類が揃っていれば、提出が近いことくらい分かる」
「今朝、出かけました」
「そうか。それなら日付が確定するな」
何気ない言い方だったが、その一言がイザベラの耳に残った。
「日付が確定するとは、どういう意味でしょうか」
「特許に限った話ではない。権利を争う場合、誰が何を考えたかだけではなく、それがいつのことだったかも重要になる。人間の記憶は後からいくらでも食い違うが、日付の入った記録はそう簡単には動かせない」
「夫の発明について、何かするおつもりなのですか」
「今の君に説明する必要はない。それより、その手紙を午後の便に間に合わせてくれ」
イザベラは不安を覚えたが、これ以上問い詰める材料はなかった。原稿を手に執務室を出ると、自分の机へ戻って清書を始めた。
◇ ◇ ◇
その日の夜、アントニオは上機嫌で帰宅した。
「受理されたよ。まだ権利そのものが認められたわけじゃないが、申請は問題なく通った。それから製造業者にも話をして、来週には試作機を工場へ持ち込むことになった」
外套を脱ぐより先に報告する夫の様子を見て、イザベラも自然に笑みを浮かべた。
「おめでとうございます。では、いよいよ製造の話が始まるのですね」
「ああ。最初は向こうへ製造を任せるつもりだが、売れ行き次第では自分で工場を持つことも考えている。設備を揃えるには金がかかるから、すぐというわけにはいかないけどな」
夕食の間も、アントニオは製造方法や費用について楽しそうに話していた。最初から大量生産へ踏み切るのではなく、少数を作って工場や船会社へ売り、評判を確かめたうえで規模を広げるつもりらしい。
イザベラは夫の話を聞きながら、昼間にレオナルドが口にした「日付が確定する」という言葉について考えていた。アントニオの名で正式に申請された以上、今からレオナルドが同じ図面を持ち出したところで遅いのではないか。それなら自分が図面を見せたことも、結局は何の害にもならなかったはずである。
「イザベラ、さっきから聞いているか?」
アントニオに声をかけられ、イザベラは顔を上げた。
「もちろんです。いきなり大きな工場を借りるのではなく、まずは外へ製造を任せて売れ行きを確かめるというお話でしょう」
「聞いていたのか。少しぼんやりしていたから、仕事で疲れたのかと思ったよ」
「少し考え事をしていただけです。心配なさらないでください」
「それならいいが、あまり無理をするなよ」
アントニオはそれ以上聞かなかった。
以前なら、夫から何の疑いもなく信用されることに安心しただろう。今では、その信頼を向けられるたびに胸が痛むことがある。それでも真実を打ち明ける気にはなれなかった。
図面は戻っているうえ、特許も無事に提出された。今さら過ぎたことを告白し、夫婦の生活を壊す方が愚かなのだと考えれば、自分の沈黙にも理由をつけることができた。
◇ ◇ ◇
それから数日間は何も起こらなかった。
アントニオは試作機の改良と製造業者との打ち合わせに忙しくなり、イザベラも事務所で普段通りの仕事を続けた。レオナルドは図面について尋ねることもなく、2人きりになった時でさえ夫の発明には触れなかったため、イザベラも次第に安心するようになった。
その安心が崩れたのは、ある日の午後である。
レオナルドに呼ばれて執務室へ入ると、机の上に革表紙の古い帳面が置かれていた。
「これに見覚えはあるか」
「夫のものではありません。少なくとも、私は見たことがありません」
「中を見てみろ」
イザベラが帳面を開くと、機械の構造や圧力についての計算が何ページにもわたって記されていた。筆跡はアントニオのものではない。さらにめくっていくと、途中に簡単な蒸気弁の図があり、その横に1881年の日付が書かれている。
「これは何の帳面なのですか」
「私が大学時代に使っていたものだ」
「では、この蒸気弁も先生が当時考えたものなのですか」
「いや。そういうことにするために書いた」
あまりにも平然と答えたため、イザベラは意味を取り違えたのかと思った。
「今、何とおっしゃいました?」
「帳面そのものは大学時代に使っていた本物だ。何ページか空白が残っていたから、そこへ必要な図と計算を書き足した。古い紙とインクも用意してある。これを見た者には、私が1881年には同じ発想を持っていたように見えるだろう」
イザベラは帳面から手を離した。
「そんなものを作って、夫より前にあなたが発明していたことにするつもりなのですか」
「正確には、私が基本になる考えを持ち、それをアントニオへ話したことにする。私は機械を作る人間ではないから、実際の試作はあいつに任せた。その後、アントニオが私の了承を得ず、自分の発明として特許を申請したという経緯だ」
「そんな話は全部嘘ではありませんか。夫はあなたから発明を教わってなどいません」
「もちろん嘘だ。しかし裁判になれば、真実だけを叫んでも勝てない。何を証拠として出せるか、相手の主張のどこに矛盾を作れるかが重要になる」
「こんな帳面だけで通用するとは思えません」
「私もそう思っている。だから、これだけでは足りない」
レオナルドは帳面を閉じると、イザベラを見た。
「アントニオが今の調整器をいつから考え、最初の試作をいつ始めたのか知りたい。設計を始めた年と、実験が本格化した時期が分かればいい」
ようやく自分へ話が向けられたのだと分かり、イザベラは身構えた。
「お教えしません。図面の時とは違います。今は、あなたが何をするつもりなのか分かっています」
「それなら実験記録を見せてもらってもいい」
「同じことです。夫の記録をあなたへ渡すつもりはありません」
レオナルドは怒ることも、説得を続けることもしなかった。
「分かった。今日はそれで終わりだ。仕事へ戻っていい」
「こんな話を聞いたあとで、何事もなかったように仕事をしろとおっしゃるのですか」
「嫌なら帰っても構わない」
その落ち着いた態度が、イザベラにはかえって腹立たしかった。
「夫にすべて話します。図面をあなたに見せてしまったことも、今ここで聞いたことも、全部です」
「本当にそれができるのなら、そうすればいい」
「できます」
「では、どこから説明するつもりだ。最初の夜に私から脅されたところまでは話しやすいだろう。しかし、その後も何度も私のもとへ来たことや、自分から執務室の扉を閉めたことまで話すのか。最後には、アントニオが眠っている間に金庫を開け、図面を持ち出して私へ渡したことも説明しなければならない」
イザベラは返事ができなかった。
「それと発明のことは別です」
「君には別でも、アントニオが同じように考えるとは限らない。私に騙された妻として話を始めても、途中から君自身が私との関係を続け、最後には夫の図面まで持ち出したと知れば、話はかなり違って聞こえるだろうな」
「あなたは最初から、それを狙っていたのですか」
「すべてを最初から決めていたわけではない。君がどこまで来るのかを見ていただけだ。最初は受領書だったが、その後は私が何もしなくても君自身が一歩ずつ進んできた」
レオナルドは椅子から立ち上がったが、イザベラへ触れようとはしなかった。
「夫の金庫を開けた夜、私は君の家にはいなかった。図面を取り出し、隠して、翌朝ここまで運んだのも君自身だ。私がそう仕向けたと言いたければ言えばいいが、最後に手を伸ばしたのは君だという事実までは消えない」
そこだけは否定できなかった。
「これ以上は何もしません。今度こそ本気です」
「それなら、そうすればいい。私は待つよ」
「私が気を変えると思っているのですか」
「今の君なら、その可能性はあると思っている」
それだけ言うと、レオナルドは自分の席へ戻った。
責められもせず、引き止められもしなかったことが、イザベラには妙に不安だった。
◇ ◇ ◇
その夜、イザベラは夕食の間も何度か考え込んだ。
アントニオは妻の様子に気づかず、製造業者との打ち合わせについて話している。
「向こうは最初に100台作るなら、1台あたりの値段をかなり下げられると言っている。ただ、売れなければ全部在庫になるからな。俺は20台か30台から始めた方がいいと思っている」
「私もその方が安全だと思います。注文が増えてから生産数を上げても遅くはないでしょう」
「そうだよな。明後日、もう一度その条件で話してくる」
イザベラは夫へ答えながら、昼間に見せられた古い帳面を思い返していた。
1881年という日付が本物の古い帳面に書かれている。アントニオが現在の調整器を考え始めたのは、それより後であるから、事情を知らない第三者が見れば、レオナルドの主張に耳を傾ける可能性はあるだろう。
ただし、古い帳面だけでは足りない。レオナルドがアントニオへ考えを伝え、その後アントニオが試作したという筋書きを作るには、実際の開発時期を知る必要がある。そのために実験記録を欲しがっているのだと、イザベラにも分かっていた。
夫の発明を守るなら、これ以上は何も話さなければよい。
それなのに別の不安も消えなかった。自分が協力を拒み続ければ、レオナルドはどうするのか。もう利用する価値がないと判断し、関係そのものを終わらせるのではないかという考えが浮かんでくる。
そんなことを気にしている場合ではないと分かっていても、気持ちは理屈通りには動かなかった。
「最近、本当に疲れているんじゃないか。顔色がよくないぞ」
アントニオに声をかけられ、イザベラはようやく夫へ目を向けた。
「大丈夫です。裁判関係の仕事が重なっているだけですから」
「少し休んだ方がいいんじゃないか。君が倒れるまで働く必要はないだろう」
「今は私が任されている仕事がありますので、途中で休む方がかえって迷惑になります。もう少し落ち着けば大丈夫です」
「君がそう言うなら止めないけど、本当に無理だけはするなよ」
「ありがとうございます」
夫の優しさに触れれば罪悪感はあった。しかし、その感情はもはや、イザベラをレオナルドから遠ざけるだけの力を持っていなかった。
◇ ◇ ◇
2日後、アントニオから製造業者の手紙を仕事場まで取りに行ってほしいと頼まれた。
イザベラは机の上に置かれた封書を見つけ、すぐ持って戻るつもりだったが、その横に積まれている革表紙の帳面が目に入った。1冊目の背には1885年、2冊目には1886年と記されている。
レオナルドが知りたがっていた時期だった。
帳面を開かなくても、アントニオが現在の調整器について本格的な記録を残し始めた年は分かる。イザベラは手紙を持ったまま、その数字をしばらく見ていた。
見なかったことにすればよい。
ところが、その日の午後、ほかの書記が使いに出て事務所に2人だけになった時、イザベラは自分からレオナルドの執務室へ入った。
「夫の実験記録は、1885年から残っています。帳面の背に年が書かれていました」
レオナルドは手元の書類から顔を上げた。
「そうか。それなら十分だ」
「帳面を持ってくるつもりはありません。中も開いていませんので、それ以上のことは知りません」
「それで構わない。私が1881年に考え、1882年ごろアントニオへ話したことにすれば、あいつが1885年から本格的に実験を始めても時間の流れとして不自然ではなくなる」
「私がお教えしたことを、本当に利用するのですね」
「そのために話したのではないのか?」
「違います。ただ……」
その先を言えなかった。
レオナルドは追及せず、椅子に深く腰を掛けた。
「後悔しているなら帰れ。今ならまだ、これ以上何も話さずに済む」
「あなたは、そう言えば私が帰らないことを知っているのでしょう」
「最近の君についてなら、ある程度はな」
イザベラはレオナルドの視線を避けなかった。
「私は夫を不幸にしたいわけではありませんし、発明をあなたへ奪わせたいわけでもありません。それなのに、どうしてこうして話してしまうのでしょう」
「それは自分で考えることだ。私は君の良心まで代わりに引き受けるつもりはない」
冷たい答えだったが、イザベラは帰らなかった。
その日も2人は関係を持った。
アントニオへの罪悪感は残っている。それでも同時に、レオナルドが自分の持ってきた情報を必要とし、自分を役に立つ女として扱うことに喜びを覚えていた。そう感じること自体が間違っていると理解していても、以前のようにその気持ちを否定し続けることには疲れ始めていた。
◇ ◇ ◇
それから10日ほど過ぎた朝、アントニオのもとへ1通の書状が届いた。
食卓で差出人を見たイザベラは、朝食用のナイフを握る指へ思わず力を入れた。
レオナルド・モレッティ法律事務所からだった。
「レオナルドからだ。珍しいな」
アントニオは気軽な様子で封を切ったが、読み進めるにつれて表情が変わった。最後まで目を通したあと、もう一度最初へ戻り、今度は一文ずつ確かめるように読んでいる。
「どうなさったのですか」
何も知らない妻を装って尋ねると、アントニオは書状を食卓へ置いた。
「レオナルドが、俺の調整器は自分の発案だと言っている。大学時代にあいつが考え、それを俺へ伝えて試作させたのに、俺が勝手に自分の名で特許を出したという主張だ。申請を取り下げろと書いてある」
「先生が、そのようなことを?」
「ああ。しかも1881年に基本構造を考え、1882年には俺へ話したとまで書いてある。それだけじゃない。俺が本格的に実験を始めた時期まで知っているんだ」
イザベラは書状を読む必要がなかった。1885年という年をレオナルドへ教えたのは、自分だからである。
「以前、大学時代に機械の話をなさったことはないのですか」
「機械の話なら何度もしている。しかし、今の調整器を考え始めたのは卒業して何年も経ってからだ。大学時代のレオナルドが知っているはずがない」
アントニオは書状を手にしたまま立ち上がった。
「俺には、あいつがこんな嘘をつく理由が分からない。大学時代から何年も付き合ってきた相手だぞ」
「お金が目的なのではありませんか。今回の発明が大きな利益になると考えたのかもしれません」
「それにしたって、友人の発明を自分のものにするなんて、普通は考えないだろう」
怒りよりも戸惑いの方が大きいらしく、アントニオにはまだレオナルドを悪人として割り切れない様子があった。
「今日、事務所へ行って本人と話してくる」
イザベラは思わず強い口調で止めた。
「それはおやめになった方がよいと思います。すでに正式な書面を送ってきている以上、先生も争う準備をしたうえで動いているのでしょう。感情的に会いに行けば、その時の発言まで利用されかねません」
アントニオは意外そうに妻を見たが、法律事務所で働く彼女の忠告として受け取ったらしい。
「確かに、レオナルドはそういうところの抜け目がない男だな。別の弁護士を探して、まず相談することにするよ」
「その方がよいと思います。書状も原本のまま保管してください」
「分かった。ただ、君の勤め先の先生と争うことになるかもしれない。仕事がやりづらくなったら、いつでも辞めていいんだぞ」
イザベラは返事をする前に、自分の中で何が浮かんだのかを知ってしまった。
レオナルドに会えなくなる。
夫が特許を奪われかけているという話をしている最中でさえ、最初に出てきたのはその考えだった。
「まだ争うと決まったわけではありません。私は今まで通り仕事へ行きます。急に辞めれば、かえって先生に何かあると思われるかもしれませんから」
「それもそうか。無理だけはしなくていい」
「大丈夫です」
アントニオは妻を疑わなかった。
イザベラは食卓に置かれた書状を見た。夫の発明を奪おうとしている男の名が紙の下に記され、その男が主張する1885年という時期を教えたのは自分だった。
◇ ◇ ◇
事務所へ着いたイザベラは普段通り自分の机へ座った。ほかの書記が仕事を始め、午前の来客が途切れるまで待ってから執務室へ向かう。
「夫へ書状を出しましたね」
「ああ。今朝には届いたはずだ」
「本当に、あの発明を奪うつもりなのですね。私は、ここまでしてよいなどと一度も申し上げていません」
「君の許可を求めた覚えもない。私は自分の判断でやっている」
「夫はあなたを友人だと思っていました。何年も前からの友情まで捨てて、それほど発明が欲しいのですか」
「友人でいることより、欲しいものを取る方を選んだだけだ。君だって結婚の誓いより私を選ぶことがある。それと大して変わらないだろう」
イザベラは眉を寄せた。
「同じにしないでください」
「都合が悪くなると、君はいつもそう言うな」
レオナルドは机から1枚の紙を取り上げた。そこにはアントニオの装置について、かなり詳しい説明と時系列が記されている。
「アントニオが特許を取り下げれば、それで終わる。拒めば争うことになる。こちらには1881年の日付がある大学時代の帳面があり、あいつが本格的に実験を始めたのは1885年だ。こちらが先に考えていたという筋書きは、少なくとも書類の上では成立する」
「その帳面は、あなたが後から細工したものではありませんか」
「それを証明できるか?」
最初の夜と同じ言葉を聞き、イザベラは改めて目の前の男の恐ろしさを理解した。
レオナルドは、その場で都合よく嘘をついているのではない。相手が後で何を主張するかまで考え、その主張を潰すための書類や記録を先に用意している。真実そのものより、裁判で何を証明できるかを基準に行動しているのである。
「あなたは、本当に恐ろしい方ですね」
「それは最初の夜に気づいておくべきだったな」
イザベラは怒っていた。自分を利用し、夫を欺き、存在しなかった過去まで作って発明を奪おうとしている。その事実を理解しているにもかかわらず、レオナルドの前から立ち去ることができなかった。
「私はもう、夫のことを何もお教えしません」
「それでも構わない。必要な材料はかなり揃った」
その返事を聞いた瞬間、イザベラは胸の内に別の不安が生まれるのを感じた。
「それなら……私も、もう必要ないのでしょうか」
口にしてから、何を気にしているのか自分でも分かった。
レオナルドも気づいたらしく、わずかに表情を変えた。
「夫の発明を奪おうとしている男の前で、それを心配するのか?」
「違います。そういう意味ではありません」
「なら、帰ればいい。今日は君に頼むことはない」
イザベラは扉へ向かわなかった。
レオナルドが近づき、頬へ触れても身を引かなかった。夫への罪悪感は以前より重くなっている。それでも、その罪悪感とレオナルドを求める気持ちは、もはやどちらか一方がもう一方を消すものではなかった。
イザベラはしばらく彼を見たあと、自分からレオナルドの胸元へ手を置いた。
その夜、アントニオは自宅の仕事場で、レオナルドから届いた書状と自分の実験帳を何度も見比べていた。
書状に記された1885年という年は正しい。今の調整器について本格的な記録を取り始めたのは確かにその年だった。
だが、その時期をレオナルドへ話した記憶は一度もない。
大学を卒業してから数年後に始めた研究について、なぜレオナルドが正確な年を知っているのか。
その疑問を抱いた時、アントニオは初めて、レオナルド以外の誰かが自分の仕事を外へ漏らしている可能性を考えた。




