第60話:縁側の特等席、木漏れ日とモフモフの永遠
障子を透かして射し込む冬の柔らかな陽光が、飴色に磨き上げられた廊下の木目を、金色の帯となって静かに照らし出していた。
小鳥たちの澄んだ囀りが、静まり返った雑木林の奥からサラサラと風に乗って届く。
庭先に目をやれば、村の大工ガスパールが「俺の魂だ」と豪語して釘一本使わずに組み上げた、あの樹齢五百年の防腐香木のウッドデッキが、初冬の澄んだ大気の中で温かな光沢を放っていた。
素足に厚手のウール靴下を履き、その上を歩いてみても、ギシギシという不快な軋みはただの一度も鳴らない。どこを踏んでも吸い付くように足裏を受け止め、ほのかに立ち上る沈香に似た爽やかな木の香りが、深呼吸をするたびに胸の奥の澱みを綺麗に洗い流してくれる。
土間の大かまどには、朝の煮炊きを終えた炭火が灰の下でじんわりと憩い、台所の棚には、昨日領主館や街の商人たちから届いたあの莫大な「お礼の品」が、マノンの手によって几帳面に仕分けされ、整然と収まっていた。
特級の新米が入った大きな麻袋は、湿気を避けてすのこの上に並べられ、霜降り肉の樽は冷暗所である床下の貯蔵庫へ。
カブや白菜、泥つきの人参といった新鮮な冬野菜は、土間の隅の木箱に藁を敷いて丁寧に寝かせられている。
天井の梁からは、先月マルタおばあちゃんから貰った大根の皮を干したものが、カラカラと心地よい音を立てて揺れていた。
何ひとつ不足のない、満ち足りた冬の台所。
丁寧に掃き清められた土間には、昨晩コトコトと煮込んだ根菜汁の出汁の香りと、干し椎茸の甘やかな匂いが、ほのかな余韻となって漂っていた。
「……ふう。片付け、一段落ね」
マノン・デュランは、白い麻のエプロンで手を拭きながら、小さく息を吐いた。
額にわずかに浮いた汗を手の甲で拭い、土間の勝手口からウッドデッキへと足を踏み出す。
その手には、昨日エティエンヌから木箱いっぱいに届いたあの最高級アールグレイの陶器缶と、熱湯を湛えた素焼きの急須、そして白磁のティーカップが二つ、木製のお盆の上に乗せられていた。
ウッドデッキの端、冬の柔らかい日差しが最も長く留まる日だまりの特等席。
そこには、いつの間にか一人の青年が腰を下ろしていた。
色素の薄い、絹糸のように滑らかな銀髪。
冬枯れの山並みを背景にしてなお際立つ、彫刻のように整った冷徹な美貌。
無地の白い木綿シャツに黒いズボンという飾り気のない出で立ちでありながら、纏う空気はどこまでも気高く、近寄りがたいほどの静謐さを漂わせている。
アル。
マノンの認識では、「タマを拾った直後から、たまにふらりと手伝いに現れる親戚筋の無口な青年」――そしてその真の姿は、この山奥の平屋の筆頭神獣にして、万物を絶対零度で凍結させる古代の災厄『霜狼神フェンリル』の化身であった。
「あら、アル君。来てくれていたのね」
マノンがお盆をウッドデッキの中央に置くと、銀髪の青年――アルは、青氷のように澄み切った瞳をわずかに動かし、無言のまま小さく顎を引いた。
感情を表に出さない、いつもの無口で硬質な横顔。
だが、その視線は、マノンがお盆を置く手元の動きを、寸分の狂いもなくじっと見つめていた。
「ちょうどいいところに来てくれたわ。今ね、王都のあの熱中症の旅の人からいただいた、とってもいい紅茶を淹れようと思っていたところなの。……アル君、少し手伝ってくれる?」
マノンが陶器缶の蓋を開けると、ふわりと、満開の柑橘と高貴な花々を思わせるベルガモットの芳香が、冬の乾いた空気の中へと解き放たれた。
乾燥した上質な茶葉は、黒檀のように艶やかに縮れ、黄金色の花弁の破片が美しく散りばめられている。
アルは無言のまま、長い指先を伸ばした。
骨ばった美しい手が、素焼きの急須と茶匙を迷いのない動作で引き寄せる。
茶匙一杯の茶葉を急須へと落とし、鉄瓶から沸き立つ熱湯を注ぎ入れる。
その瞬間――アルの指先から、肉眼では捉えきれぬほどの微細な白銀の魔力光が、ツゥと急須の陶肌へと滑り込んでいた。
沸騰したての熱湯は、茶葉の繊細な香気成分を破壊しかねない。
アルは自らの体内に宿る絶対零度の神威を、分子レベルの極限まで精密に制御し、急須の内側の湯温を、茶葉が最も芳醇な香りと甘みを抽出できる「厳密な九十五度」へと瞬時に調律したのだ。
さらに、陶器の内部で対流する水流に微細な氷結振動を与え、茶葉の一枚一枚を優しく、傷つけることなく完璧に開かせていく。
神話の時代より世界を氷河期へと叩き落としてきた巨獣の神威が、いま、たった一杯の紅茶を美味しく淹れるためだけに、寸分の狂いもなく注ぎ込まれていた。
――トクトクトク……。
透き通るような紅色の液体が、白磁のカップへと注がれていく。
湯気とともに立ち上ったのは、王都の宮廷料理人ですら生涯に一度出会えるかどうかという、奇跡のように研ぎ澄まされたアールグレイの香気であった。
アルは無表情のまま、そのカップの一つを、マノンの手元へとそっと押し出した。
「わあ……! ありがとう、アル君」
マノンは両手で温かいカップを受け取り、胸の前でふうふうと息を吹きかけた。
そっと唇を寄せ、一口すする。
――スゥッ……。
渋みは微塵もなく、果実の瑞々しい酸味と茶葉本来のまろやかな甘みが、喉の奥を滑らかに潤していく。
鼻腔を突き抜けるベルガモットの清涼感と、身体の芯へと染み渡る柔らかな温もり。
「美味しい……! やっぱり、アル君が淹れてくれるお茶は香りが立って本当に美味しいわね。私が淹れると、なんだか少し渋くなっちゃうのに。……アル君は、手先が器用で本当に助かるわ」
マノンが満面の笑みを浮かべ、心底から感嘆の声を漏らすと――。
ピクッ。
青年の端正な眉がわずかに跳ね、銀色の睫毛が伏せられた。
アルは何も言わず、ふいと顔を横へと背けた。
口元は固く引き結ばれ、相変わらず無愛想そのものの態度を崩さない。
――しかし。
透き通るような白い肌の、その耳の先端だけが、熟れた野イチゴのようにほんのりと赤く染まっていたのを、マノンは見逃さなかった。
(ふふ、本当に照れ屋さんなんだから)
マノンは口元を綻ばせ、何も言わずに自分のお茶を楽しんだ。
無口でぶっきらぼうだが、雨漏りがすれば屋根に登って直してくれ、重い薪があればいつの間にか割って積んでおいてくれる、優しい青年。
都会にいた頃の、他人の足を引っ張り合い、手柄を奪い合っていたギスギスした人間関係が、まるで遠い異国の出来事のように思えるほど、ここにある時間は穏やかで、温かかった。
「……そろそろ、行く」
アルは自らのカップのお茶を静かに飲み干すと、低く澄んだ声で呟き、すっと立ち上がった。
「あら、もう行っちゃうの? お昼ご飯、おじやの残りを温めてあげるのに」
「……いらない。仕事がある」
青年は背を向け、ウッドデッキの階段を音もなく降りていく。
生垣の角を曲がり、その銀髪が雑木林の木陰へと消え去った――まさに、その数秒後のことであった。
ガサガサッ、トコトコトコ……。
「――にゃあ〜ん」
生垣の隙間から、まるで入れ違いのようにして、一匹の大きな白猫がひょっこりと姿を現した。
中型犬ほどもある、丸々と太った立派な体躯。
雪のように純白の毛並みを揺らし、太い尻尾をピンと立てて、短い足でタタタッとウッドデッキへと駆け上がってくる。
タマだ。
タマは、先ほどまでアルが座っていた場所の匂いをフンフンと物珍しそうに嗅ぐふりをすると、何食わぬ顔でマノンの足元へと擦り寄ってきた。
そして、マノンの膝の上に前足をかけ、「撫でて! 早く!」と言わんばかりに、金色の瞳を細めて見上げてきたのだ。
「あらタマ、お散歩から戻ったの? アル君とすれ違わなかった? ……まあいいわ、おいで」
マノンが膝の上のエプロンを整えると、タマは待ってましたとばかりに、ずっしりとした重みを伴ってマノンの太ももの上へと飛び乗ってきた。
ドスン。
大人の腕の中に抱えきれないほどの、圧倒的なモフモフの質量。
タマは器用に体を丸め、前足をマノンの太ももの間に滑り込ませると、重たいあごをマノンの膝頭の上にコテンと乗せた。
そして、早くも喉の奥から「ゴロゴロゴロゴロ……ッ」と、ウッドデッキの板を震わせるほどの重低音の喉鳴らしを響かせ始める。
――と、そこへ。
カサリ、と乾いた音がした。
「ふにゃ」
ウッドデッキの手すりの影から、黒猫のクロが音もなく滑り出てきた。
片耳の先が欠けた、鋭い目つきの黒猫。
だが、その琥珀色の瞳は、タマがマノンの膝の上という「絶対特等席」を独占しているのを見て、ギリッと悔しそうに細められた。
クロは音もなく歩み寄ると、マノンの右側の隙間へと自らの漆黒の頭を強引に割り込ませてきた。
グイグイと頭突きをしてタマを左側へと押しやり、空いたスペースへと器用に滑り込む。
タマが「ウーッ」と低く唸って牽制するが、クロは意に介さず、マノンの膝の上に前足を二本しっかりと揃えて乗せ、タマの白い毛並みと自分の黒い毛並みをぴったりと密着させて丸くなった。
「こらこら、喧嘩しないの。仲良く半分こね」
マノンは笑いながら、両手を伸ばした。
右手でタマの純白の背中を、左手でクロの艶やかな黒い腰を、それぞれ手のひら全体で包み込むようにして撫でる。
二匹の魔獣は、マノンの手のひらから放たれる『波長ゼロの無害気質』に触れた瞬間、反発し合っていた微細な殺気を完全に霧散させ、揃ってトロンと目を細めた。
白と黒の毛並みが、マノンの膝の上で隙間なく重なり合い、ひとつの大きな毛玉のようになる。
タマの前足が、マノンの太ももをリズミカルに「ふみふみ」と揉みほぐし、クロの太い鍵尻尾が、マノンの手首に優しく巻きつく。
二重奏となって響き渡る、至福の喉鳴らし。
ずっしりとした生きている命の重みと、日だまりの温もりを吸い込んだ極上の毛並みの熱が、マノンの下半身を包み込み、冬の寒さなど微塵も感じさせないほどの天然の暖炉となっていた。
パサリ、と頭上で微かな羽音がした。
「ピピッ♪」
柿の木の梢から舞い降りてきた黄色い小鳥――ピピが、マノンの右肩のくぼみへと、滑り込むように着地した。
ピピは細いくちばしでマノンの三つ編みの毛先を器用に整えると、金糸の羽毛をふわりと膨らませ、マノンの首筋に自分の温かい体温を預けて目を細めた。
膝の上には、世界を凍らせる白狼と、国境を更地にした冥府の獣。
肩の上には、天を焦がす不滅の神鳥。
世界を二度滅ぼしかけた三代厄災が、いまや何の脅威も放たず、ただ大好きな娘の体温に寄り添い、幸せそうに微睡んでいる。
マノンは右手をお茶のカップへと伸ばし、温かいアールグレイをもう一口、ゆっくりと喉へと流し込んだ。
鼻腔を抜ける紅茶の芳醇な香りと、膝の上から立ち上るお日様を吸った猫毛の匂い。
庭の端では、昨日干した生成りのシーツが、冬の乾いた風を孕んでサワサワと清らかな音を立てている。
土間の大かまどには、今夜の夕餉のための大根と干し肉が、静かに出汁を吸いながら出番を待っている。
(……本当に、夢みたいね)
マノンは、膝の上の柔らかい毛並みに指先を深く埋めながら、目を細めた。
ほんの半年前まで。
自分は、王都の薄暗い調剤薬舗の調剤室で、山のような処方箋と伝票に埋もれていた。
夜遅くまで粉薬を調合し、理不尽な上司の怒声に怯え、無理難題を押し付ける貴族の使者に頭を下げ続けていたあの日々。
鏡を見るたびに増えていく目の下の隈。
肌は荒れ果て、胃の奥底は常にキリキリと痛み、冷え切ったアパートのベッドに倒れ込むようにして眠るだけだった、すり減った毎日。
あの時、勇気を出して退職届を叩きつけ、全財産を握りしめてこの山奥の古民家を購入した自分を、マノンは心から褒めてあげたかった。
ここには、誰かを蹴落とそうとする人間も、理不尽なノルマも存在しない。
朝起きて、井戸から汲んだ清らかな水で顔を洗い、かまどに火を熾す。
昆布と椎茸で丁寧に出汁をとり、畑から抜いてきた泥つきの大根を煮含める。
陽の光をいっぱいに浴びせて洗濯物を乾かし、風の音を聞きながら縁側でお茶を飲む。
そして――足元には、ご飯をあげれば喉を鳴らして甘えてくれる、愛しい家族たちがいる。
周囲の人々も、驚くほど温かい。
ちょっとシャイで、過剰なくらいに親切な領主代行のローラン様や、武骨だけれど頼もしいギルバート隊長。
毎週のように遊びに来ては、縁側で一緒にお茶を飲んで楽しそうに笑ってくれる、可憐なレオノール様。
胃薬を手放せなかったはずなのに、最近すっかり血色が良くなって愚痴をこぼしに来るセリアさん。
「型落ち品だよ」と笑いながら王室御用達の高級品を破格の値段で譲ってくれる、豪快なヴェロニカさん。
野草の知恵や保存食の漬け方を、縁側でお茶を啜りながら教えてくれる、マルタおばあちゃん。
絶対に軋まない最高のウッドデッキを作ってくれた、腕利きのガスパールさん。
そして、熱中症から回復した記念にと、最高級の茶葉を届けてくれた、律儀な王都のボワイエさん。
誰もが、この山奥の暮らしを温かく見守り、支えてくれている。
マノンにとっては、それらすべてが「温かな田舎の助け合いの文化」であり、日々の慎ましい暮らしに彩りを与えてくれる、かけがえのない宝物であった。
「……ふふ」
マノンの口元から、自然と柔らかな笑みがこぼれ落ちた。
膝の上のタマが、マノンの声に反応して「グルル……」と甘えたように喉を鳴らし、マノンの足の甲の上に自分の太い前足をそっと重ねてきた。
クロがマノンの手首に顎を乗せ、満足そうに目を細める。
肩のピピが、羽毛をふわりと膨らませて、温かな体温をマノンの首筋へと預けてくる。
かつて求めていた、何者にも脅かされず、自分の足で立ち、丁寧に命を営む暮らし。
そのすべてが、いま、この腕の中にあった。
「……やっぱり、ここへ引っ越してきて……本当によかったな」
マノンはもう一口、温かいお茶を喉へと滑り込ませた。
そして、膝の上の二つの丸い背中を、愛おしそうに、ゆっくりと撫でながら。
木漏れ日が降り注ぐ冬の庭の向こう。
どこまでも高く、どこまでも青く、澄み渡るように広がる大空を見上げながら、幸せそうに、静かに目を細めるのであった。




