2話 赤い飛沫
「もう一度言おう。エリーゼ、君には心底愛想が尽きた。この場をもって、婚約破棄をさせてもらう。人を貶め侮辱した罪を悔い改めるがいい!!」
黒板を引っ掻くような嫌な声が高らかに響き渡る。
どよめくダンスホール。
ズキン―――
「ぐっ!」
また脈打つような激痛がこめかみを襲う。
思わず崩れ落ちる体を無理やりに両脇の騎士たちが私を起こした。
痛みの波がゆっくりと引いていくと同時に……知らないはずの記憶まで溢れるように流れてくる。
物心ついた頃から淑女教育、婚約者のモラハラ、社交界にお茶会。
心優しき男爵令嬢、エリーゼという少女の儚き記憶。
初めて会った日に、緊張のし過ぎで紅茶を零し、火傷した彼女にこの目の前のピーナッツがハンカチを手渡した。
たったそれだけ。
それだけの事で彼女はとても感動し、人生で初めての恋をした。
このピーナッツを心から慕い、何を言われても穏やかに微笑み傷付けられても笑顔を崩さないよう生きてきた。
幼少期に婚約者となった10年前からずっと。
彼好みの女になるために家庭教師に扱かれ、慣れない刺繍で指を刺し、それでも彼を想い、指折り結婚式の日を待ち侘びていた。
何故か……ものすごく寂しくて、胸が締め付けられ……涙が頬を濡らす。
幼き恋心の残り香に触れた私は、周さんとの出会いを思い出し共感してしまって……歳のせいか涙が止まらない。
そして……気付いてしまった。
(私がこの身体にいるという事は……この子はもう―――)
繊細で蝶と鈴蘭が好きで。
スコーンに甘いジャムを塗って食べる事が何よりの楽しみだったエリーゼ。
手紙一つ綴るのに5時間もかけて一人読み返しては赤面していた可愛い娘。
こんな……優しい子にこの男は。
目の前で豊満バディの男爵令嬢の腰に手を当てたまま、仁王立ちして私を断罪するピーナッツ。
子爵令息のスチュアートという男。
根も葉もない噂を信じ、私がその豊満ちゃんを虐めたと咎め、それを理由に婚約破棄をしようとしている。
正直私としては
"はい、そうですか。おめでとさん"
で帰っていいと思う。
証拠もないのにそれがまかり通る世界というのも信じられないし、この子の記憶によればこの世界は男尊女卑らしいから、私が今何を言ってもう無駄だろう。
長考していると、したり顔のピーナッツが鼻を鳴らし笑う。
(つくづくいけ好かない男だな。……自由になる前に、エリーゼへの手向けとして……仕方ない一矢報いてやるか)
騎士たちに捕まった腕をポンポンと軽く叩く。
一瞬緩んだ隙に、私は腕を回して肩を鳴らす。
……エリーゼよ。
お前はアホだな。
こんなクソみたいな男のために、このどこも痛くない若い体を手放して心を殺すなど。
まだ未来は明るかっただろうに。
当たり前に生きる日々と、健康な身体というものは何よりの宝だと、若い君はまだ知らなかったようだな。
とめどなく頬に流れるエリーゼの残渣を全て拭き取り、鋭く目の前のピーナッツを睨みつけた。
「泣くほど悲しいか。はは、自業自得だエリーゼ。君には失望したよ。だがこの婚約破棄は君のせいだ、この美しいご令嬢を社交の場で『売女』だと罵ったのだから」
「スチュアートさまぁ……ありがとうございます……うう」
むに♡
奴の腕に押し付けるたわわな脂肪。
ニヤニヤとピーナッツが鼻の穴を広げる。
気持ち悪い。
それに記憶の中でエリーゼは彼女を認識すらしていない。
つまり面識もないと言う事。
言いがかりを付けて、有利な立場で婚約破棄しようとする目の前の愚かな男に口を開いた。
「……で? 婚約破棄するなら婚約を交わした際の誓約書は? 内容に君の不貞行為があった場合の有責比率は書いてあったのか?」
「んな!? っくっ……口を慎めエリーゼぇぇぇ!!! 貴族から爵位を買った男爵の……ゴミ女の分際でぇぇ」
騎士がもう一度私を力ずくで床に押し付けた。
苦しい。
だが、こんな痛みなんてことない。
それよりこのピーナッツ野郎は救いようのないクズだな。
ついでにこの豊満ちゃんも女の敵だ。
私ならこんなピーナッツは要らんが、人の男に手を出してるんじゃない! 馬鹿者が。
床に押さえつけられた状態で、それでも私は口を開いた。
「女の分際だと? 君は男から生まれてきたのか? 女が居ないと、この世に生まれ落ちることすら出来ない身の分際で、生意気なのはどっちだ。そしてそこのご令嬢、勝ち誇っている所悪いが、明日は我が身だと言うことを理解しているのかな? ああ、頭が悪いから無理か」
「なっなんですって!?」
「つ……つまみ出せぇぇぇ!!! この場で血祭りに上げなかっただけ有難いと思え、エリーゼぇぇぇぇ!!!」
耳が痛くなるほどの金切り声に、微かに耳鳴りがした。
「ぶへぇ!」
騎士二人から門の外に叩き出された。
汚れた体を払いながら立ち上がる。
目の前に視線をやると、既に待機していた我が家の馬車があった。
家に帰れば父親はカンカンになって怒るだろう。
エリーゼの記憶によると、この父親は基本、地位と名誉と家門の事しか考えてない。
上手くやれなかった私を、勘当するに違いない。
それでもどこか楽観的に考えていた。私も一度は思春期の息子と娘を育てた親だ。親の気持ちはわかるつもり。
きっと何だかんだ、自由になる事くらい許してくれるだろうと。
なぜなら私に非はないのだから。
大丈夫、私には86年の日本での人生経験がある。
外の世界に行けば……なんとでもなる。
今思えば耳鳴りはしないし、視界良好! 腰も痛くないし、毎日血圧の薬も飲まなくていい! 味のしない減塩ご飯も食べなくていい!!
体力は有り余ってる!
だから私は――
「お嬢様……」
私の思考を遮るように、御者のベンが真っ青な顔で口を開く。
「……ほ、本当にお屋敷に向かって宜しいので?」
「いいんじゃないか? 婚約破棄されたことは伝えねばならんだろうし。勘当されるかもしれないけどね、あはははは」
「……」
もう、御者は何も言わなかった。
ゆっくりと蹄が地面を蹴る音が鳴り、ガタガタと馬車が動き始めた。
もしかしたら、周さんも……私と同じようにこの世界に転生しているかもしれない。
また、二人で人生を歩めるかもしれない。
意気揚々と、この人生を賭けた旅に出る決意を固めていた。
……だが、人生はそんなに甘くない。
父親を激怒させた私は、申し送りをした途端、ドレスのまま外に放り出された。
泣き叫ぶ母親は騎士たちに取り押さえられ、私は戻って来れないように家を離れるまで監視された。
母の泣き顔を思うと胸が痛む。
一人、誰もいない夜道を歩く。
春とはいえまだ寒さの厳しい中、肩が出た重いドレス。
ピンヒールのせいで足元は血豆だらけ。
裸足になったが激痛でまともに前に進めない。
顎が鳴り、手は氷のように冷たい。
キツく締め上げたままのコルセットが苦しくて。
昼前から何も食べていない。
空腹、痛み、無一文。
それでも私は希望を捨ててなかった。
(大丈夫、修道院にさえ行けば……)
ここから歩いて30分ほどの所にあるはず。
記憶を辿り……歩き続ける。
だがいつまで経っても修道院にはたどり着けない。
この世界にはスマホなんてない。
地図も。
街灯もない暗闇の中、迷ったかもしれないという不安を胸に、痛みを堪え歯を食いしばって歩き続けた。
その時。
ドン!!
誰かが後ろからぶつかってきた。
背中から離れない人影。
何か……違和感を感じる。
背中が……熱い。
ゆっくりと離れる誰かと共に体内から何かが抜けていく。
手を背中に当てると生暖かいヌメリを感じた。
鉄の混ざる甘い匂いが充満していく。
体を滴る何かと共に力が抜け、膝を付く。
(こ……これは……)
暗闇からマントを羽織った男が音もなく数人現れ、私を囲む。
「悪いな、旦那が下手なスキャンダルは困るんだとよ」
そう言ってもう一度、今度は胸を貫かれた。
遠のく意識の中、私は思う。
エリーゼの人生は一体何だったのだろうと。
(そうか……だから絶望して君は死んでしまったのか―――)
これで自由になって、やっと周さんを探しに行けると思ったのに。
エリーゼを思い、彼を想った……
赤い飛沫を吹き上げて、私はゆっくりと地に崩れ落ちた。




