挑戦
ここは、巨大な繁華街の1番外れにある地元の人以外からは忘れられて久しい古びた飲み屋横丁。
そんな場所に少しだけ不釣り合いな男の二人組が足を踏み入れた。男たちはカッチリとした、それなりに腕の良いテーラーでオーダーメイドして作らせたであろう、スリーピースのスーツを身に纏っていた。
「なぁ藤田。疑う訳じゃないがこんな場所にそんなすごい店があるのか?」
二人組の内の上司だと思われる男が、連れているもう一人の男に向かい問いかけた。
「本当にあるんですって本部長!まぁ騙されたと思い付いてきて下さいよ。」
どこにでもあるような上司と部下の会話をしながら二人組の男達はやがて目的の店の前に立った。
古材の美しい木目調の壁に見るからに重そうなドア。そのドアの重さを物語っているかのようにドアに取り付けられている、長くしっかりとした作りの取っ手。
上司と呼ばれている男は、心の中で「へぇまぁ藤田の紹介の割には赴きが良い店のツラかまえだな。」
そう思うと、藤田と言う名を持つ部下が率先して店の重たいドアの取っ手に手を掛けて引き開けた。
店内は決して広いとは言い難い。ハッキリと言えば極小の店と言っても過言では無い。木で作られたまっすぐのカウンターに並んで座ればなにかの拍子に隣に座る人の体に触れかねない程の間隔で丸い椅子が5脚だけある、小さな小さなBARだった。
店内には静かに耳に心地の良いクラシックジャズの音色が流れ、楽しく騒いでお酒を楽しむようなお店ではありません。そう、店の方から来店する客に向けてのメッセージを訴えかけているかのように感じた。
二人組の男達は、並んでカウンターの真ん中程の椅子に隣り合わせて座る。そうすると直ぐに藤田と上司から呼ばれている男は、カウンターに置いてあるガラス製の灰皿を1つ手に取り自分の手元に引き寄せると、スーツの内ポケットから電子タバコを取り出すとカートリッジの入った箱から1本取り出し、電子タバコ本体にセットする。その様子を見ていた上司は、少しだけ慌てた様に。
「おい藤田、煙草は……」
そう昨今はどこのお店でも全面禁煙または良くて分煙を謳い文句にしている健康ブームの真っ盛りである。当然、今来ている店も禁煙か分煙だと思った上司が、部下の藤田の行動に注意をしようとした時に。
二人組の男達の座るカウンター席の眼の前に、この店のマスターらしき男性が立っていて。
「いらっしゃいませ。藤田様お久しぶりですね。お客様は初めましてですね。当店のマスターをしております。当店は喫煙が出来る店なので、お気遣い無くお煙草を楽しんでください。」
「いや……私は今は煙草を吸わないので」
そう言ってマスターに言うと、その言葉を聞いた藤田から。
「あれ?本部長、まだ禁煙続いてるんですね。もう4年〜5年ほど経ちません?」
「藤田も早く禁煙外来に受診する事を俺は強くおすすめするよ」
そんな二人組のやり取りに、マスターも混ざり少し笑い合う。その次の瞬間にマスターは、この店のマスターとしての顔に戻り二人組の内の藤田と呼ばれている部下の男に向けて声を掛けた。
「藤田様は最初はいつもの生ビールでよろしかったですか?」
「うん。マスターそれで」
「かしこまりました。銘柄はヱビスでよろしかったですよね?」
そんな当たり前の注文のやり取りを横で聞いていた上司の男は今、座っている席のカウンターの向こう側に綺麗に整頓され、酒のラベル(エチケット)が正面を向き整然と並べられているのを見ると、ほうっと1つ感嘆の息を漏らす。
そして藤田から上司と呼ばれている男は1つのある小さなイタズラを思い付き、マスターへと声を掛ける。
「マスター私は、あればで構わないのだが、ビットブルガーを1杯貰えないだろうか?」
そう伝えるとそれを聞き届けたマスターが、少しだけ驚きの顔をこちらに向けて微笑みながら、問い返して来た。
「はい、ビットブルガーでございますね。セラーでお出しすればよろしかったでしょうか?」
このマスターの答えを聞き、上司の男は「うん、やっぱり置いてたかと思い、そして温度に関してのマスターからの問い掛けに。100%の回答だな」
そう思い、もうこの店の事が少し好きになり初めていた。
キンキンになるまで冷やされた藤田の前に置かれた、ヱビスの生ビールが注がれたグラス。
13度程度まで冷やされたドイツの有名なビールであるビットブルガーを注いであるグラス。
その2つのグラスをそれぞれが手に持ち。静かにグラスをキンと言う音と共に合わせる。
二人組の男達は軽くグラスを重ねて乾杯をした後に、それぞれが頼んだ物を飲みながら仕事の話であろうか何やらと話し始める。
マスターはそんな二人組を残し自分は、カウンターの中からカウンターの外へと出ていける人が1人通れる程のスキマ付近のいつもの定位置に立ち。二人組の話し合いの内容はなるべく耳には入れぬように努めながら、布巾を使いカクテルグラスを磨く。
しばらく経つと、飲んでいたビールが無くなったのであろう。藤田と呼ばれる男からマスターに向けて。
「マスター。ソルティドッグを1つ。」
そんなオーダーが飛んできた。マスターはそれを聞き届けてから。酒瓶が並んでいる棚の中からスミノフと言う名前の付けられたウォッカの瓶を取り出し、いつもカクテルを作るため使用している、カウンターよりも一段低くなったステンレス製のテーブルの上に置く。しっかりとマスターの手で磨き上げられた8オンスのロックグラスを1つ手に取り、グラスの縁に小さな櫛形に切られているレモンの果肉の部分を、スーっと1回しグラスの縁を撫でた後、小さな平らのトレーの中に入っている、白い粉をレモン果汁で濡らしたグラスの縁に付けた。そして軽くグラス自体を、指でキンッと弾いて、余分な粉を落とす。
そうしてロックグラスのフチに塩の粒を付けた後に、冷蔵庫の中から生のグレープフルーツを1つ取り出すと、テーブルの上に置かれたまな板の上に乗せ、ペティナイフを使い、グレープフルーツを半分に切り用意をしておく。次に塩を付けたロックグラスの中に今度は冷凍庫の中から、マスターが予め開店前に出刃包丁とアイスピックを匠に使い、丸く削り出した氷をグラスの中へと静かに落とした。氷はまるで計ったかの様に寸分違わずにグラスの内側に触れながら静かにグラスの底に向かい滑り落ちていく。
飲み口の縁に塩の粒を付けられ丸く削り出した氷が入ったロックグラスの中に、先ほど酒瓶の並んだ棚から取り出しておいた、スミノフのフタを開けたマスターは、メジャーカップを使いウォッカを45ml計りグラスの中に静かに注ぎ入れる。グラスと氷のスキマが限り無く狭い事により、注がれた液体はコポリコポリと小さな泡を立てながら、グラスの底に流れ落ちる。
そして最後にマスターはハンドジューサーを取り出すと半分に切っておいたグレープフルーツを搾り器の中へと入れ、ハンドルを力を込めて握り締めて果汁を絞り出した物を、ロックグラスの中へと適量注ぎ、注ぎ終えたロックグラスの中のウォッカとグレープフルーツ果汁を、バースプーンを丸い氷の上に当て、氷をクルクルとグラスの中で回転させて中身の液体を混ぜ合わせた。そしてオーダーされた「ソルティドッグ」を完成させる。
マスターの手により完成された、ソルティドッグは、マスター自身の手により藤田と呼ばれる男の座る席のテーブルの上に、コースターと共に置かれた。
そして、自分が頼んだ物を手に取り飲もうとした時に、何気なしに横に座る上司の方を見ると、頼んでいた聞いた事すらない変わったビールの入っていたグラスが空になっている事に気づくと、手に持つグラスを1度コースターの上へと戻し、上司に声を掛ける。
「あれ?本部長グラス空ですね、次は何飲みます?あっ!これメニュー表ですねどうぞ」
そう言ってカウンターのテーブルの隅に置かれたメニュー表を1冊取り、上司に渡そうとすると上司からは。
「あ〜メニュー表は必要無いよ。次に頼む物は決まっているから。」
そう言って部下の顔をイタズラっ子のような笑顔で見て答えた。
「マスター。すまないがチェイサーを貰えるかな?あ〜ミネラルウォーターで構わないよ。氷も必要無いからね。そして出来たら硬水でお願いしたい。」
上司の男からそう声を掛けられたマスターは、表情には出さずに、心の中でほんの少しだけ冷や汗をかいた。きっと自分はこれから試されるのであろう。その事をチェイサーを頼んできた、たったそれだけの事で悟ったからである。
10オンスのタンブラーの中に客からのリクエスト通り、常温のままのevianを注ぎ、上司の男の正面よりもほんの少しだけ男から見て右側にコースターと共に置き。上司の男から直ぐにオーダーが来る事を理解しているマスターは、男の前から動かずに居た。
「それじゃマスター先ずはマティーニでも貰おうかな」
そう上司の男はカウンターを挟み目の前に立つマスターの顔を少しだけ微笑みながら、オーダーをする。
マスターは畏まり上司の男から言われたオーダーを繰り返す。
「マティーニでございますね。」
そう言った後にいつものオーダーされたカクテルを作る為の位置に戻りながら、心の中で「ほらな、だと思った」そう呟いた。
冷凍庫の中でマティーニと言う名のカクテルがオーダーされた時の為だけにキンキンになるまで凍り付く程に冷やされた、ドライ・ジンとドライベルモットの瓶を取り出すと、氷を詰めたミキシンググラスを用意して、メジャーカップを使い先ずはドライ・ジンを45ml計りミキシンググラスの中に注ぎ、次にドライベルモットを15ml計りこちらも同じようにミキシンググラスに注いだ。そしてバースプーンを手に持ち、素早く混ぜ合わせると言う摩擦で起きる溶けた氷が、1滴でも少なくなるように、そしてしっかりと2つの材料が混ぜ合わされるように、かき混ぜた後。
カクテルグラスにストレーナーを通して静かに注ぎ入れ、プラスチック製のピンに刺したグリーンオリーブの実をそっとグラスに沈めて、最後にオレンジの皮をグラスから少し離した位置から皮の汁をほんの少し香る程度に搾った。
こうして完成したカクテル「マティーニ」をカクテルグラスの脚を持ち上司の男の前にコースターを最初に置き、次にカクテルグラスを置いた。
「お待たせいたしました。マティーニでございます。」
そう言うとマスターはいつもであれば、いつもの場所へと戻るはずが、何故か上司の男の正面に立ったままだった。
上司の男は目の前に出されたカクテルのグラスの脚を持ち、自分の目の高さまで持ってくると、グラスの中の液体の色合いを見て楽しんだ後に、今度は自分の鼻に近付け。
「うん。オレンジピールの良い香りだね。」
そう一言だけ呟くと、カクテルグラスにそっと口を付けて一口カクテルを飲み干す。そしてプラスチック製のピンに刺さってカクテルの中に沈められている、オリーブの実を、ピンを手に持ち口の中へと放りこんだ。そうして、オリーブの実の味を楽しんだ後に、もう一度だけカクテルを一口飲み干すと。自分の右側に置かれている、常温のミネラルウォーターの入ったタンブラーを手にして、中の水を一口だけ口に含み、口の中に残る香り等を洗い流すかのようにして飲み込んだ。
そうして、たったの2口しか口を付けてないカクテル「マティーニ」をそっとコースターごと自分の前にカウンターの上を滑らせ、目の前に立つマスターの方へと動かした。
上司の男は隣に座る部下の藤田が先程頼んだ「ソルティドッグ」を飲み終えていた事から、そっと藤田にだけ聞こえるように呟く。
「藤田、またソルティドッグを頼んでみろ。そしてマスターにこう言うんだ…………分かったな?」
そう囁かれた藤田は、上司に言われた通りにマスターに向けてオーダーを通す。
「マスター。もう1杯同じ物を今度はピンクグレープフルーツで頼めるかな?後ブルドッグでお願いね」
マスターはそのオーダーを聞いた時に、普段の藤田と言う男が店に来た時に、そんな事は頼んだ事が無い事を感じ取り、瞬時に隣に座る上司からの入れ知恵だろう事を察しながらも。オーダーはオーダーであるとして。
「はい。ピンクグレープフルーツでブルドッグでございますね」
そう復唱して立っていた上司の目の前から、自分の目の前へと先程差し出された、2口しか口を付けてないカクテルグラスを持ち、いつものカクテルを作る場所へと移動した。
先程のソルティドッグ同様に、ロックグラスに丸く削った氷を入れ、先程と同じ分量のウォッカを注ぎ、冷蔵庫の中から先程とは違う、果肉がピンク色のピンクグレープフルーツを取り出し、半分に切りハンドジューサーで果汁を注ぎ入れ、バースプーンで先程と同じく氷をグラスの中で回して液体をしっかりと混ぜ合わせた後、先程とは違いグラスの縁に塩を付けずにそのままにしておき。藤田と呼ばれる男の目の前に、コースターに乗せて出来上がったカクテルを差し出した。
「ピンクグレープフルーツのブルドッグでございます」
出来上がりを初めて見た藤田は隣に座る上司に向かい。
「へぇこんな色あいになるんですね。後、ブルドッグってグラスの縁に塩を付けないって意味だったんですね」
そう言っていつもとまた違った味のカクテルを楽しんでいる。
上司の男は、藤田の顔を見て少し笑顔浮かべてから次に自分が頼むカクテルの名前をマスター目掛けて投げかける。上司の男の中では、藤田が2番目に頼んだ「ソルティドッグ」の作り方を見て、自分の頼むべきカクテルは既に決まっていた。
「マスター。次はマンハッタンをお願い出来るかな?」
そう上司からの注文に。マスターは「でしょうね。そうだと思っていましたよ。」と心の中で呟いた後に。
「はい。マンハッタンでございますね。」
そう言って、上司の男から注文されたカクテルの製作に掛かる。整然と並べられた酒瓶の中から、ワイルドターキーの瓶を取り出すと。上司の男から声が掛けられた。
「マスター悪いけどI.Wハーパーでお願い出来るかな?後レモンピールは要らないから」
そう言われたマスターは、ワイルドターキーの瓶を元にもどしてその直ぐ横に並んでいたリクエストされたI.Wハーパーの瓶を取りして、次にスイートベルモットの瓶も取り出した。
先程提供したマティーニのように、こちらもミキシンググラスに氷を入れて、アメリカンウイスキーを45mlにスイートベルモットを15ml注ぎ、最後にアロマティックビターズを1ダッシュ入れ、バースプーンでよくかき混ぜる。そうして混ざり冷やされた物を、ストレーナーを通してカクテルグラスに注ぎ最後に、赤く染色されたチェリーのシロップ漬けを1粒カクテルグラスの中に沈めてカクテル「マンハッタン」を完成させた。
上司の男の前にコースターを置き静かな声で。
「マンハッタンでございます」
それだけを告げると先程の様に上司の男の前からうごかないマスター。上司の男は先程と同じくカクテルグラスの脚を摘み持ち上げて、カクテルの色を先ず楽しむ。そして匂いを嗅ぎ一口カクテルを飲むと、そっとカクテルグラスをコースターの上に置いた後、マスターに向けてコースターごとカクテルを滑らせ。またしても頼んだチェイサーのタンブラーに手を伸ばして、一口水を口に含み今しがた飲んだカクテルを口の中から洗い流した。
「マスター洗面所をお借り出来るかな?」
そう上司の男から声を掛けられたマスターは。
「あちらでございます」
そう言って1つの扉を指し示した。
上司の男は座っていた椅子から静かに立ち上がると、洗面所に向かった。洗面所の中で男は普段から数枚はスーツの内ポケットに入れている。白地で青緑の縁取りがされているエンボス加工で【The Aegean】と書かれている小さな封筒の中に自分の財布から、一万円札を3枚取り出してその封筒に入れスーツのポケットに忍ばせた。
席に戻った上司はマスターに最後の注文をする。
「マスター。次は……ラモス・ジン……」
頼もうとしていたカクテルの名前を全て言い切る前にすかさずマスターから。
「お客様。大変申し訳ございません。そのカクテルの名前を言う事を当店では厳禁とさせていただいております。どうか、ご配慮をお願いいたします。」
そう言って注文を途中で強制的に中止にされた。
上司の男は心の中で「流石にマスターでも15分〜20分近くひたすらシェイカーを振る必要があるカクテルは作ってくれないか」そう思い、笑顔でマスターに店で禁止とされている言葉を発しようとした事を素直に詫びた。
「藤田。俺今日は嫁さんがメシ作ってくれてるから、早めに帰らないといけないから先に帰るからな。後これで楽しんでこい」
そう言って先程、洗面所にて仕込んでおいた封筒を藤田の座る席のカウンターテーブルの上に差し出した。
「あっ!ユキさんの手料理ですか?羨ましい」
そんな藤田からの言葉に少し照れ笑いを浮かべた上司の男は、自分の着ているスーツのポケットから、シルバーに輝く名刺入れを取りだすと。その中から1枚だけ名刺を取り出してマスターに手渡した。
「マスターごちそうさまでした。どのカクテルも美味しかったですよ。久しぶりに本物の味が楽しめました。また機会があれば寄らせていただきますね。」
そう言葉を残して、まだまだ飲む気の部下の藤田を置いて、重厚なドアを押し開けてドアの向う側へと消えていった。
マスターが手渡された名刺には。
【株式会社ArcadiaGroup】【取締役本部長】【木村太郎】そして名刺の隅に、メールアドレスとスマホの番号が印刷されていた。
「え!今の人アルカディアグループの役員の人なの?え?それじゃ藤田さんも同じ会社の人なの!?」
そう言って驚いてるマスターに少し赤ら顔の藤田は。
「あれ?俺、マスターに言ってなかったっけ?あの人は俺の上司で本部長。俺は部長なんだよ。」
この街のと言うかこの県でも1.2を争う程の巨大な風俗複合会社の人間であった事に、今日いち驚きながら目の前に座る男の顔をマジマジと見つめるマスター。
今回のゲストは自身の初めての長期連載作品
【立身出世物語。俺は風俗店で今日も頑張っています。】
より、主人公の木村太郎本部長さん
木村太郎さんの懐刀でもある藤田部長さん
でした。




