カオスなオフィス
一方。
優里は蓮からの電話を切った後も、
スマートフォンの冷たい画面を見つめていた。
蓮の過剰なまでの熱意は、一瞬の救いになったが、
彼の通話の直後に押し寄せてきたのは、
昨日、神崎玲奈に抉られた過去の痛みだった。
優里が昨日家で感じた「消えたい」という感覚は、
まだ体内に冷たい澱として残っていた。
あの高校の廊下で、
神崎玲奈に過去の全てを暴かれた瞬間の羞恥と絶望が、
朝の光のなかでも消えない。
(私は、誰かに守られるような人間じゃない)
その言葉は、蓮への拒絶であると同時に、
自分自身への強固な言い聞かせだった。
誰かに頼ることは、再び裏切られ、傷つけられるリスクを負うこと。
優里はそのリスクを二度と負いたくなかった。
優里は鏡の前に立った。
そこに映るのは、まだ疲弊の色が残る顔だ。
彼女は躊躇なく、その疲労を塗り隠していく。
薄いファンデーション、引かれたアイライン、
そして意志の強さを示すような薄い口紅。
彼女の化粧は、美しさのためではなく、
防御のための「鎧」だった。
(泣いたって、誰にも見せない。 弱みは、どこにも晒さない)
優里は自らに課したルールを再確認しながら、
無駄のない動きで身支度を整えた。
全ての準備を終え、優里は静かに玄関へ向かった。
靴を履く瞬間、優里の瞳に一瞬、不安がよぎる。
外に出れば、また競合との戦いがあり、蓮の過剰な愛情があり、
そして人々の悪意があるかもしれない。
優里は深呼吸し、ドアノブに手をかけた。
蓮が「ひとりにしない」と言ったその熱意を、
優里は今はただの雑音として押し殺す。
彼女は自分の力だけで、
この日を乗り越えなければならないと決意していた。
優里はドアを開けた。
そして、その一歩を踏み出した。
そこには、昨日までの傷を隠し、
冷静という名の鎧を纏った、冷徹な社長の姿があった。
優里が冷静という名の鎧を纏い、
マンションのエントランスに出た瞬間。
「おはようございます、社長!」
そこには、いつもより整えられたスーツ姿で、
やけに爽やかに笑う蓮が立っていた。
朝日を浴びたその姿は、
漫画から飛び出してきた御曹司そのものだ。
ピカピカに磨き上げられた高級車の横で、
蓮はドアを開けて恭しく待っている。
「さ、どうぞ。本日の送迎は私、星野蓮が担当させていただきます」
「……は?」
優里は絶句した。
「安心してください。安全運転で参ります。 社長の大切なお身体に、万が一のことがあっては困りますので」
にこやかに胸に手を当てる蓮。
御曹司らしい丁寧な言葉遣いなのに、溺愛モード全開だ。
「……いらない」
冷たく突っぱねようとする優里。
だが蓮は怯まない。
「いらない? 何をおっしゃいますか。 優里社長が無事に出勤なさることこそ、社員一同の願いなんです」
「……社員っていうか、あんた一人でしょ」
「いえ、俺は百人分の気持ちで支えますから!」
優里は額を押さえ、ため息をついた。
「……バカじゃないの」
「バカでもいいです! 俺は優里専属の運転手兼、ボディーガード兼、未来の旦那候補ですから!」
その最後の一言に、優里は一瞬足を止めた。
振り返った彼女の表情は、
怒りとも呆れともつかない複雑な色を帯びている。
「……あんた、本当にどうかしてる」
「どうかしてるくらいがちょうどいいんですよ。優里のためなら」
にっこりと笑って差し出された車のドア。
拒否するべきだと頭ではわかっているのに、
優里の胸にはなぜか小さなざわめきが残っていた。
昨日突きつけられた孤独が、蓮の過剰すぎる熱意によって、
わずかに溶解させられようとしていたのだ。
「今日くらい、俺に送らせて」
優里は疲れたように目を細めた。
「……また勝手に」
ため息をつきながらも、優里は歩みを止めてしまう。
「拒んでるのに、どうして諦めないの」
蓮はきっぱりと告げて、助手席のドアを開ける。
その強い瞳には、微塵も揺らぎがない。
「諦める? 俺が君を愛している限り、その選択肢はない」
優里の心はざわめきながらも、
結局その場に立ち尽くすしかなく、流れ込むように車内へ。
彼女の冷たい鎧は、蓮の熱量に押されていた。
「……ったく」
蓮は優里がシートに収まるのを見て、
満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、優里。 君が隣にいるだけで、一日の始まりが救われる」
彼の過保護は、結局どんな拒絶さえも包み込んでしまう。
優里はその事実を自覚し、
諦めと、ほんの少しの安堵を感じながら、シートに深く身を沈めた。
優里が蓮の運転する高級車で会社のエントランスに到着し、
何事もなかったかのように自分の席に座ると、
蓮も彼女の隣の席に当然のように滑り込んだ。
蓮は、優里の昨日の冷たい拒絶と、
今朝の穏やかな同行とのギャップに内心高揚していた。
しかし、御曹司の使命は終わっていない。
優里がパソコンを立ち上げ、仕事に取り掛かろうとした瞬間、
蓮は思い立ったように優里に尋ねた。
「そういえば、あの時のほほの傷、どうなった?」
優里の指がキーボードの上で止まる。
蓮はその瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
(あの傷……俺の目の前で治ってないままなんて、許せねぇ……)
蓮は傷の状態を確認するという「守護の使命」を即座に発動させた。
「見せてくれ。 ちゃんと治ってるか、俺が確認する」
蓮は身を乗り出し、優里の顔に近づいた。
優里は驚きと警戒心で顔を上げ、蓮と目が合う。
その瞬間、蓮の理性は完全に吹き飛んだ。
優里の端正な顔立ち、鋭い視線。
蓮の視界には優里の顔しか映らなくなった。
(傷……そう、傷! 心の傷は俺が治す! そのために俺はいるんだ! まずは、俺の愛を刻む!)
(もし今、手を伸ばしたら…この傷に触れて…いや、触れるだけじゃ済まない!)
(吸い寄せられるようにキスしてしまったら、きっと、いや絶対に、優里の心も俺の心も壊れちまう…)
思考が暴走する。
「いや、これは……確認するだけ、確認するだけだから……!」
蓮は自分に言い聞かせながらも、
無意識に優里の頬に手を伸ばす。
優里の目が一瞬だけ見開かれる。
「……何してるの?」
蓮は焦り、心臓が破裂しそうな勢いで言葉が詰まる。
「そ、そうじゃなくて……ほ、ほら、傷の……確認……だけ……」
優里は小さくため息をつき、淡々と手を避ける。
「……また妄想してるんでしょ」
「ち、違う!これは妄想じゃない!本気で守りたいだけだ!」
だが現実は、優里の頬にわずかに残った傷をそっと確認するだけで、
蓮の胸は苦しく、同時に甘く疼いた。
(……やっぱり、俺は…俺は……!)
思わず口元が動きかけるも、優里の冷たい目線に打ち砕かれ、
溺愛過保護モードは寸止めで終了。
蓮は心のなかで、再び「妄想と現実の狭間」に突入する。
(ああ、俺の欲望と愛情はいつになったら折り合いがつくんだ……)
蓮の顔が吸い寄せられるように優里に近づき、
オフィスという絶対的な公の場でキスが実現しようとした瞬間、
反射的にデスクに置いてあった分厚いプレゼン資料を手に取った。
蓮は優里の唇にあと数ミリというところで、
無意識に首を傾けてしまった。
(キスへの優雅な準備だったのかもしれない)。
蓮は優里の頬を確認しようと無意識に首を傾け、
心のなかで「あと少しで……!」と妄想を膨らませていた。
(もう…このまま吸い寄せられたら…いや、そんなことは…!)
その僅かな隙を逃さず、優里は振りかぶった資料を、
その傾けられた蓮の頭に渾身の力で叩きつけた!
……ドスッ!
静まり返っていたオフィスに響き渡った。
蓮の妄想は一瞬で停止し、
熱に浮かされていた瞳は現実の痛みで大きく見開かれた。
「い、いでぇ……!」
優里のあまりに鮮やかな制裁と、蓮の情けない声に、
周囲で作業をしていた社員たちが一斉に立ち上がった。
社員たちは、優里と蓮の間の緊張感と、
キス寸前のロマンティックな状況を最初から最後まで見届けていたのだ。
「きゃー!蓮さん、優里さんにやられた!」
「なんなのあの距離感!」
「ドキドキする~!!」
蓮は真っ赤になりながら、資料を手に頭を押さえる。
「違う…これは違うんだ……ただ傷を……確認……しただけ……!」
優里は冷たい目で蓮を見つめながらも、
どこか呆れ顔でため息をつく。
「もう、何やってるの。ほんと、妄想癖ひどいんだから」
「妄想してない!本気で守ろうとしてただけなんだ!!でも社員たちには…完全に誤解されてる!!」
その場は社員たちのキャーキャー声でさらに騒がしくなり、
蓮はもはや現実と妄想の境界線がわからなくなってしまった。
(これが…俺の日常か…。優里を守りたいのに、こんなコメディ展開になっちまうなんて……!)
優里は資料を整えながら、
無言で蓮の横をすり抜け、冷静に自席に戻る。
蓮は追いかけたい気持ちを押さえ、頭を抱えてうずくまる。
(いや、追うな…追ったらもっと妄想コメディが暴走する……!)
(もうダメだ…… このバカは、私の制御できる範囲を超えている……!)
オフィスは、優里の怒りと、蓮の懲りない溺愛、
そして社員たちの興奮が渦巻く、カオスな愛の戦場と化したのだった。
蓮が頭を押さえてうずくまっていると、
社員たちの声がさらにヒートアップした。
「いやー、蓮さん、優里さんに頭叩かれて赤くなってる~!」
「まさか、妄想が現実になったりして!?」
蓮は思わず耳をふさぎ、心のなかで焦り叫ぶ。
(ち、違う!これは違うんだ…!でも…でも、もしかして…優里、俺のこと…脈あり…!?)
その瞬間、妄想スイッチが入った。
(いやいや、ほら見ろ!あの微妙な視線の動き!あの小さな仕草!完璧に俺を意識してる!俺の御曹司モード炸裂で守るべきだ…!)
蓮の心は高鳴り、妄想は加速する。
頭のなかで「ここでキス!?いや抱きしめ!?いや…もう全部やるしかない…!」と大暴走。
しかし、現実は容赦なかった。
「おい、蓮」
振り返ると、そこに蒼司が立っていた。
颯爽とした足取りで優里の横に近づき、にこやかに手を差し伸べる。
「じゃあ、そろそろ行こうか、優里」
優里は軽くうなずき、
蒼司の手を取ってスタスタと去っていく。
蓮は唖然とし、心臓が破裂しそうになった。
(な、なんでだよ…!?俺の妄想の相手が…俺じゃない!?いや、まさか…俺が守るはずだった優里を…!?)
社員たちの茶化す声が耳に届く。
「ほらー、蓮さん、負けたー!」
「妄想だけで満足しときなさい!」
「キャー!嫉妬してるー!」
蓮は怒りと焦りで顔を真っ赤にし、拳を握りしめる。
蒼司が優里を連れてオフィスを後にした瞬間、
蓮の心臓が爆発しそうになった。
(待て待て待てぇぇぇぇぇッ!!!)
気づけば蓮は社員たちの視線も忘れ、立ち上がってダッシュしていた。
「お、おい蓮さん!?どこ行くんすか!」
「ストーカー!?追跡劇!?w」
「いや、リアル三角関係すぎて怖いんだけど!」
背後で社員たちのざわめきが爆発する。
だが蓮の耳にはもう届かない。
(俺の優里を…蒼司になんて渡すもんかぁぁぁ!!)
廊下を全力疾走し、エントランスを抜け、エレベーターへ。
だが、蒼司と優里はすでに乗り込んで扉が閉まる瞬間だった。
「待てぇぇぇぇっ!!!」
ドンッと手を伸ばすが、扉は無情にも閉まる。
(チッ…!)
蓮はその場で歯ぎしりした。
次の瞬間、蓮の脳内では妄想劇場が始まる。
《妄想》
エレベーターの中で蒼司が優里に壁ドン。
「優里、俺に任せろ。お前の全部を俺が守る」
「蒼司さん…」
甘く見つめ合う二人。
(あぁぁぁぁぁぁぁ!!!俺の優里がぁぁぁ!!!)
現実に戻る蓮。
「クソッ!やってられるか!」
次のエレベーターに飛び込み、下の階へ。
一階ロビーに着くと、
ちょうど蒼司と優里が談笑しながら歩いている姿が見えた。
しかも周囲の社員や客たちが「お似合いね」とひそひそ囁いている。
(ぐわぁぁぁぁ!!現実のほうが妄想より辛ぇぇ!!)
蓮は思わず柱の陰に隠れ、
スマホを取り出して小声で自分に実況を始める。
「はい、こちら潜入中の御曹司、ターゲットは蒼司に連行されています。現在、二人の距離は……近いっ!近いぞコラ!!」
近くを通ったOL二人組に
「なにあれw」「やば、盗撮?」と白い目で見られ、
蓮は慌ててスマホをしまいこむ。
その時、蒼司が振り返った。
「蓮?」
ギクリ。
「な、ななななんで俺の名前を…!」
「さっきから視線が痛いんだよ。そんなに俺と優里が仲良く見えるか?」
挑発的に笑う蒼司。
優里は「あんたたち、ほんと子どもみたい…」とため息をつき、
先に歩いていく。
蓮は拳を握りしめ、内心で絶叫する。
(ふざけんな!子どもじゃねぇ!俺は…俺は…御曹司だ!!そして優里の運命の人なんだぁぁ!!)
周囲からはまた
「え、蓮さんマジでやばくない?」「完全に修羅場じゃん」とひそひそ声。
蓮はその視線すら気づかないほど
妄想と現実に飲まれていた。
蓮は社内で名の知れた“俺様ナルシスト”だった。
自分のことを「この会社の至宝」と平気で言い放ち、
鏡を見ては「今日も完璧」とうっとりする。
会議の冒頭では必ず「俺の発言で場が締まるだろう」と言い切り、
雑談でも「俺ほど器の大きい人間はいない」と豪語する。
けれど、それはあくまで“表の顔”だ。
蓮の言葉は確かに鼻につくが、
なぜか不思議と誰も本気で嫌っていない。
なぜなら、彼は常に全員に平等だからだ。
新入社員にもベテランにも同じように冗談を飛ばし、
困っている人には口では
「俺が助けてやる栄誉を授けよう」などと大げさに言いつつ、
実際には最初に手を貸すのは彼だった。
そのため社内では「ナルシストだけど根はいい人」と評され、
周囲は半ば呆れながらも彼を受け入れている。
だが……。
優里の前だけは、別の姿が現れる。
心のなかでは犬がしっぽを振るように大喜びしながら、
外見だけは涼しい顔を装う。
優里に「ありがとうございます」と笑顔で言われただけで、
耳まで真っ赤になる。
全力で俺様を貫こうとするのに、どこか必死さが滲んでしまう。
その不器用な一途さは、
優里から見ればただの“よくいる気さくで誰にでも平等に接する御曹司”にしか見えない。
彼の過剰な俺様発言も、
「ああ、あの人らしい」と軽く受け流されてしまう。
つまり、蓮にとっては渾身のアピールも、
優里にとっては“社内の風物詩”。
そこに、彼の報われない一途さと滑稽さが同居していた。
だが、本人は必死だ。
(優里の前だけは、俺様じゃない! イヌだ! いや違う、俺様でありつつも、イヌなんだ! 俺は彼女の忠犬で、唯一無二の王様でもある!)
そんな矛盾を抱え込んだまま、
蓮は今日も優里の一挙一動に振り回され、
俺様でいようとしながらも、
結局はイヌのように尻尾を振ってしまうのだった。
しかし、優里の目に映る蓮の姿は、
蓮自身の認識とは大きくかけ離れていた。
優里の過去のトラウマと自己評価の低さは、
蓮の真意を正確に認識することを阻んでいた。
優里にとって、蓮の執着は「自分個人に向けられた愛」ではなく、
「御曹司としての気まぐれ」か、
「誰に対しても発揮される優しさ」として処理される。
(御曹司だから、優里は特別なんてこと、あるはずない)
蓮が蒼司に嫉妬を燃やして廊下を走り抜けた後、
ゼェゼェと息切れしながら戻ってきた時、
優里はこう解釈していた。
(あんなに走って、優雅な生活しかしてないんだね。 案外、社員思いの情熱家なんだろう)
そして、蓮が社員に頭を叩かれても笑い、
誰に対しても優しげな態度(に見える余裕)を見せると、優里は確信した。
(彼は誰にでも平等に優しい。 御曹司なのに驕らない、出来た人間だ)
蓮の「優里だけを特別扱いしたい」という溺愛のオーラは、
優里の強固な防御壁と「私は特別ではない」という
自己否定フィルターを通ることで、
「超絶俺様だけど、誰にでも平等に親切な、人格者」という、
都合の良いイメージへと変換されていたのだ。
「優里! 俺は優里のために命を懸けているんだ!」
「……はいはい。蓮くんは、本当に誰にでも親切なんだね」
この残酷な対比こそが、
蓮の愛の物語を永遠に終わらせない原動力となっていた。
優里がその真実に気づく日が来るまで、
御曹司のイヌ系男子はナルシストの仮面の下で、
孤独に忠誠を誓い続けるのだった。
優里が蒼司との打ち合わせからオフィスに戻ると、
社員が待ち構えていたように資料の束を差し出した。
「優里さん、この前のイベント準備の役割分担、まとめておきました!」
優里は「ありがとう」と受け取り、すぐに机に広げた。
手際よく名前と役割を読み上げていく。
資料は見やすく整理されていて、
各社員の得意分野に合わせて分担が割り振られていた。
「えっと……会場設営は佐藤さん、受付は木村さん、撮影担当は川崎さん……」
社員たちがうなずきながらメモを取り、
現場の雰囲気はスムーズに進んでいく。
……ただ一人、蓮を除いて。
(……なに? 俺の名前が……ない?)
資料を覗き込みながら、蓮の目が泳ぐ。
読み上げられる役割に、どこにも“蓮”の文字が出てこない。
あまりにも自然にスルーされてしまい、
社内の至宝(自称)としては耐えがたい屈辱だった。
「えっと……ほかに現地に行きたい人います?」
優里が軽く問いかけると、
蓮は考える間もなく椅子から跳ね上がる勢いで手を挙げた。
「俺様が行く!」
唐突すぎる声に、
周囲の社員が「出たよ」と小さくざわめく。
けれど優里は特に驚いた様子もなく、いつもの調子で微笑んだ。
「わかりました。じゃあ星野さん、好きにしてください」
その一言に、蓮の胸は爆発寸前だった。
(す、好きに……!? お、俺に“好きにして”って言った!?)
耳の奥で勝手に「告白シーン用BGM」が流れ始め、
脳内には“優里から自由を許された俺”という壮大な妄想映像が展開する。
だが、現実はあくまで「余った枠に名前を書き込まれただけ」である。
社員のひとりが苦笑いしながら、
「ほんとに自由にしちゃいそうだから見張ったほうがいいかもね」と小声でつぶやいた。
しかし蓮はそんな周囲の空気を一切感じていなかった。
(よし! これはもう、俺と優里の二人三脚イベントだ! 運命共同体! ああ、現場に行くのが待ちきれねぇ!!)
ナルシストの王様と忠犬のイヌが、同じ身体で同時に全力疾走している。
そのアンバランスさこそが、蓮という存在の滑稽さであり、一途さでもあった。
蓮は思わず胸に手を当て、
ゆっくりと優里に向かって立ち上がる。
「優里……俺は、俺は、君のためなら……」
「いやいやいや」
近くで資料をまとめていた社員が、すかさず冷静につっこんだ。
「それ、“イベントに行くかどうか”の話ですから。誤解しないでください」
「そ、そうそう」
「“好きにして”っていうの、完全に自由行動の意味だから。蓮さんの妄想じゃないですから」
「……」
社員たちが口々に現実を指摘するが、
蓮の耳にはほとんど届いていなかった。
彼は「俺に自由を託す優里」という解釈を固く胸に刻み込み、
勝手に“恋愛フラグ成立”の鐘を鳴らし続けていた。
「……完全に誤解してるよな」
「うん。目がもう、別の世界行っちゃってる」
「誰か止める?」
「いや、ああなったらもう止まらないよ」
社員たちはあきれ顔で肩をすくめるしかなかった。
優里はというと、書類の整理に戻ってしまい、
蓮が背後で“運命を勝ち取った男のポーズ”を
取っていることに気づきもしない。
「ふっ……この役目、命に代えても果たそう」
誰にともなく誓いを立てる蓮。
イベント準備の単なる“現地調整係”に任命されただけなのに。
イベント当日。
イベント会場は熱気でむんむんしており、
各ブースの展示やプレゼンでごった返していた。
優里は腕に抱えた資料を持ち直しながら、
視線を巡らせる。
「ふぅ……これ、思った以上に人が多いな」
そこへ外国人の視察担当者らしき人物が、
にこやかに近づいてきた。
「Excuse me. Are you the CEO of Zero Start Company?」
「……えっ」
突然の英語。
優里は固まる。
「え、えっと……、あの……Yes……」
ぎこちなく返すものの、その後が続かない。
焦りで目を泳がせる優里の横に、すっと影が差した。
「She is the CEO, Yūri Sakuraba.」
蓮の低く落ち着いた声が響いた。
流暢な英語で自己紹介を代わりに行い、
スマートに相手と握手を交わす。
御曹司として叩き込まれた語学力と立ち居振る舞いは、完璧だった。
その優雅な所作に、周囲の高校生たちも思わずざわついた。
高校生A「…カッコいい……」
高校生B「なんか映画のワンシーンみたいじゃない?」
高校生C「え、あれって優里さんの会社の人?」
耳に入ってくる囁き声。
だが蓮は気にも留めず、完璧な笑顔でその場を仕切っていく。
「We are providing educational contents specialized for high school students. Please take a look at our materials.」
優里に手渡された資料を自然に広げ、
専門的な内容を淀みなく相手に説明していく蓮。
優里は隣で、ただ呆然と見つめるしかなかった。
「………so, please feel free to contact us later.」
蓮が締めくくり、相手が満足げに去っていくと、
会場の空気がふっと和らいだ。
「……助かった……」
優里は小さく呟く。
蓮は得意げに胸を張り、片目をウィンクさせた。
「優里。君が困っているとき、俺は必ず駆けつける。 ……それが御曹司モードの俺だからな」
「……御曹司モードって何」
思わず冷たくつっこむ優里。
「さっきの人、超イケメンじゃない!?」
「しかも英語ペラペラ!映画の王子様みたい!」
「え、あれがゼロ・スタート社の社員?入社試験どんなレベルよ!」
体育館の一角で、キャーキャーと黄色い悲鳴が上がる。
視線の先はもちろん、堂々と立つ蓮。
(おおお!? き、来たぞこの流れ!俺ってば今、めっちゃモテてない!?)
蓮の脳内では、女子高生たちが自分に花束を投げ、
きらびやかな照明の下で「蓮様ー!」と叫んでいる
大妄想劇場が開幕していた。
(……いや待て、優里がいるんだ。 ここで俺の株爆上げ!そして優里も「やっぱり蓮ってすごい」ってなる!間違いない!)
蓮は期待に満ちた瞳で、すぐ横の優里を振り返る。
……だが。
「……で、次のブース行くよ」
優里は、完全にどうでもよさそうな顔。
キャーキャー騒ぎも英語対応も、
まるで風が吹いた程度の出来事のようにスルーしていた。
「えっ……!? ちょ、ちょっと待って!? 今、俺めっちゃカッコよかったよね!? ねぇ、聞いてる!?」
「はいはい」
冷たく資料を抱えて歩き出す優里。
取り残された蓮は、
背後で女子高生たちの「キャー!」を浴びながら、
内心で頭を抱える。
(ど、どういうことだ!? 他の女子は俺にメロメロなのに……優里だけが微動だにしない!? まさか……俺、優里の中では“翻訳アプリ”扱い……!?)
頭のなかでガーンと効果音が鳴り響く。
その顔は、御曹司というより
完全に飼い主にかまってもらえない大型犬だった。
「……恥さらし」
ズバッと切り捨てられた。
(し、死んだ……俺のプライドが死んだ……!でも!優里の一言が欲しいだけなんだよぉぉ!)
妄想と現実のギャップに打ちのめされる蓮は、
結局また優里だけに冷たくされる立ち位置に戻っていた。
優里が「恥さらし」と切り捨てて次のブースへ向かった後も、
蓮は体育館の真ん中で
女子高生たちの黄色い悲鳴を背中に浴びながら立ち尽くしていた。
(くそっ、くそっ、くそっ! なんで俺の最高にクールな姿が、優里には届かないんだ!)
飼い主にかまってもらえない大型犬のようにしょんぼりしていた蓮だが、
数秒後には彼の脳内のポジティブ回路が強制的に繋がる。
(いや待て! 逆だ! これは完璧な脈ありの証拠だ! 他の女どもと一緒にするな、という意味合いだ! 優里は俺を特別視している! 照れているんだ、きっと!)
「翻訳アプリ扱い」という屈辱的な事実は、
一瞬で「特別扱い」という極上の妄想へと書き換えられた。
蓮の表情は再び自信に満ち溢れ、優里の背中を追おうとした。
その時。
場違いなほど華やかなスーツが、
蓮の視界に飛び込んできた。
神崎玲奈が、視線を蓮に向け、ニヤリと笑った。
「星野さん、話の続きをしましょうよ」
蓮は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
(このタイミングで神崎玲奈!? )
優里の近くで、優里の耳に入る場所で、
神崎玲奈と二人きりになるなど、
愛の戦士(自称)としてあってはならない事態だ。
蓮は必死に神崎玲奈を遠ざけようとしたが、
玲奈は優里が資料を広げているテーブルのすぐ近くまで
ズカズカと踏み込んできた。
玲奈は優里の冷たい視線を楽しむように受け止め、
蓮に向かってわざとらしい甘い声で言った。
「あの、前にお話しした、うちの会社に来る件、そろそろお返事いただけませんか? あなたの席はもう空けてあるんです、御曹司サマ」
スカウトの催促という爆弾発言は、
静かなブースの一角に大きく響き渡った。
優里は蓮の言葉を無視して仕事に集中しようとしていたが、
この言葉だけは見逃せなかった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、蓮の顔を見た。
その視線は、昨日の廊下と同じ、
氷のように冷たい無関心を帯びていた。
蓮は優里の視線と、玲奈の挑発的な笑顔の板挟みで、
完全にパニックに陥った。
(ギャーーーーッ! 優里!違うんだ、優里! 俺は今、運命共同体イベントを妄想していただけなんだ! この女の誘いになんて乗るわけねぇだろ!)
蓮の言葉はしどろもどろになり、
御曹司の威厳は粉々に砕け散った。
玲奈はその様子を嘲笑うかのように、
優里に聞こえるように囁いた。
「ほら、優里。 星野さんは迷ってるのよ。 貴女の小さな会社と、私との大きな成功、どちらを選ぶかって」
蓮の顔は真っ青になり、額の汗が筋となって流れ落ちた。
彼の愛の試練は、優里の目の前で、最悪の形で展開していた。
「スカウト……?」
「お、おおおおい!? ちょ、ちょっと待て!俺は別に、えっと、その……」
蓮は両手をブンブン振って必死に否定するが、
玲奈はにっこり笑って畳みかける。
「だって本人が考えてみるって言ったものねぇ?まさか嘘ついたわけじゃないでしょ?」
「う、嘘じゃねぇ!けど今ここで言う話じゃ……!」
「じゃあ“YES”ってことでいいのね?」
「なっ……!!」
優里の視線が冷たく突き刺さる。
その無言の目線に、蓮は背筋を凍らせた。
(お、俺終わった!?まさか浮気未遂扱い!?いやいやいやいや俺は優里一筋だって!!)
必死に弁解しようとするが、
口から出るのはしどろもどろの言葉ばかり。
蓮は、優里の前で誤解を解こうと必死になっていた。
「ち、違うんだ! あれは全然そんな話じゃなくて……!」
慌てて両手を振り回しながら説明するが、
言葉は空回りし、むしろ見苦しく聞こえてしまう。
優里は静かに蓮を見つめたまま、ぽつりと冷たく言い放つ。
「……もういい。好きにすれば?」
その声音は冷水のようで、蓮の胸を直撃する。
(俺を突き放すな! 俺を無視するな!)
ショックを受けた蓮は言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。
玲奈が挑発的に笑う。
「やっぱりね。自分の社員一人まともに管理できないようじゃ、経営者としても失格なんじゃない?」
一瞬で場の空気が凍りつく。
優里の顔から表情が消え、暗い影が落ちる。
蓮は優里の心が深く傷つけられたことを察し、
自分の無力さに歯噛みした。
「優里、違う! 俺はただの社員だ! あんな女の誘いに乗るわけないだろ! 俺の忠誠心は……!」
優里は蓮を遮ることすらせず、ただ遠い目をしていた。
その瞳に、蓮の必死な焦燥や熱烈な愛は一切映っていない。
「もういいって言ったでしょ。 早く戻るよ」
優里は、その場を立ち去った。
蓮は優里の背中を追いかけながら、
終始弁明を続けた。
「あれは一種の営業妨害だ! 裏切るわけないだろ! 優里の会社が成功すれば俺もハッピーなんだから!」
優里は終始無言で、
蓮の言葉を「どうでもいい雑音」として処理しているようだった。
蓮は必死に訴えるが、優里は一切立ち止まらない。
「聞いてる? 俺だって、俺だって……!」
「仕事の話なら聞く」
優里は蓮の顔を見ることもなく歩いて行ってしまった。
その場に置いて行かれた蓮は、
行き場のない無力感に苛まれるのだった。




