競合の誘惑
ある日。
蓮は優里のデスク周りをウロウロしている。
いつもどおりの日常。
初見からしてみれば、
話しかけたいのか?用でもあるのか?と、
気になる展開だが、
優里はどうでもよさそうに書類をみていた。
「……ねぇ蓮」
優里が手元の書類からふと顔をあげる。
そのまっすぐな視線が、蓮の心臓を貫いた。
「えっ、な、なに……?」
(きたっ! まさかの告白返し!? いやいや違うだろ、でもこの流れはヤバい! 絶対いい雰囲気だぞ俺たち!)
蓮の過度な期待と妄想が脳内を支配するなか、
優里はまっすぐ蓮の目を見て、さらりと口にした。
「……ハサミ、どこに置いたか知らない?」
「………………は?」
心臓を掴まれていた蓮の感情が、
一瞬で奈落に突き落とされる。
(いや、待て。ハサミ? はさみ?……これ、暗号か!?)
(『私の心を切り裂いて、愛を形にして』って意味!? いや違う!『二人の赤い糸を断ち切らないで』ってメッセージ!? うおおおお! どっちだぁぁぁ!!)
優里の何気ない質問は、
蓮の脳内で二つの壮大なストーリーへと分岐した。
「……なに顔赤くしてんの?」
優里は小首をかしげながら、机の端にあったハサミを手に取る。
「あ、あった」
「…………」
(俺の心のジェットコースター返せぇぇぇ!!!!!)
目の前で平然と仕事に戻る優里を見ながら、
蓮は机の下でそっと天を仰いだ。
優里にとって「ハサミ」はただの文房具であり、
蓮にとって「ハサミ」は一瞬の愛の試練だった。
蓮の壮大なロマンスは、
日常の些細な事務用品によって、
あっけなく幕を閉じたのだった。
優里がハサミを手に取り、
何事もなかったように書類を切り分けていく。
その横顔を見つめながら、蓮は強く拳を握った。
(俺はもう二度と、あの頃の自分には戻らねぇ。優里が笑ってられるように、俺が絶対に守ってやる……!)
不意に、優里の指先が紙の端でかすかに切れた。
「っ……」
「優里!」
蓮は条件反射で駆け寄り、彼女の手をがしっと握りしめた。
「大丈夫か!?血は?痛くねぇか!?くそっ、救急箱!いや、病院だ!すぐに救急車……」
「……あんた、バカ?」
冷たい視線と、呆れきった声。
「紙でちょっと切っただけで救急車呼ぶやついる?」
「…………」
(お、俺の決意が……!御曹司モードが……!秒で粉々に……!!)
「大げさすぎて逆に迷惑。邪魔だからどいて」
がーん!!!
蓮は頭のなかで鐘の音が響くのを感じながら、
しゅるしゅると力が抜けていった。
(まじかよ……!俺はこんなにも本気なのに……!)
優里は絆創膏を自分で取り出して、淡々と指に貼った。
その姿は、俺に「過保護はいらない」と突きつけているようで。
けれど蓮の心は……
ますます「守りたい」でいっぱいになっていく。
(俺の過保護は、優里のクールなガードを破るための唯一の武器だ! 迷惑がられても、俺は止められねぇ!!)
メイン事業が教育系である優里の会社。
今回、自社が高校に提供している
eラーニングサービスの講評を聞くため、
とある進学校を訪れることになった。
当然、優里の運転手兼ボディーガード
(と蓮が勝手に認定している)として、
蓮も同行する。
車窓から見える校舎と、
部活帰りの生徒たちの活気ある姿に、
蓮のテンションは急上昇した。
「青春だねぇ~! マジで眩しい!」
(この、むせ返るような青臭さこそが青春! 優里もこのなかで汗を流していたのか……! 俺と優里の青春時代が、今、時空を超えて交差する!)
校門をくぐると、蓮は自分の高校時代を鮮明に思い出した。
蓮が通っていたのは超名門の付属校。
御曹司という肩書きと整った容姿で、
蓮の周囲には常に他校の女子たちが蝶のように群がっていた。
休み時間になると、他校の女子たちがわざわざ押しかけてきて、
彼の机の周りはいつも人だかりになった。
幼なじみの晴人が「お前、またかよ」と呆れるほど、
女遊びに明け暮れていた日々。
退屈など微塵もなかった。
自分は選ばれる側で、
失うものなんて一つもないと思っていた。
(あの頃の俺は、優里の「本気」なんて一生理解できなかっただろうな……。 優里と出会って、俺の人生はやり直せたんだ)
ノスタルジーに浸りつつ、
蓮は隣を歩く優里にいつもの調子で尋ねた。
「なぁ、優里。優里の高校時代って、どんなだった? やっぱモテまくってたんだろ? 憧れの的だったとか? 告白は一日何回?」
蓮は興味津々で、優里の青春の断片を聞き出そうとする。
優里は手元のファイルから顔を上げず、
心底どうでもよさそうに答えた。
「別になんでもない。部活と勉強。それだけ。あんたみたいに暇じゃなかったから」
「えぇ~! そんなことないだろ!? なんか、運命的な出会いとか、切ない恋の予感とか、あっただろ!?」
優里は立ち止まり、蓮に冷たい視線を向けた。
「うるさい。 仕事に集中して。あんたの妄想を聞きに来たんじゃない」
バッサリと切り捨てられ、蓮の浮かれ気分は一瞬でしぼんだ。
(がーん! 俺のロマンチック青春妄想を返せ! 優里のガードは、高校を訪れても固いのか!)
蓮の心はそっけなくされた痛みと、
優里の過去を絶対に暴いてみせるという新たな決意で、
再びざわつき始めるのだった。
優里の歩みが、わずかに止まる。
振り返った顔には、冷ややかな光が宿っていた。
「あんたに守られるほど落ちぶれてない」
「……え?」
蓮の笑みが一瞬ひきつる。
しかし空気を変えようと、彼は慌てて明るく続けた。
「いや、そういう意味じゃなくてさ! 大変なことがあったなら、俺が力になるっていうか……」
優里は鋭く睨みつける。
「同情してるなら、余計なお世話」
胸の奥に冷水を浴びせられたように、蓮は言葉を失った。
それでもなお、どうにか彼女を励まそうと口を開く。
「……でもさ、もっとちゃんと頑張れば、周りだってわかってくれるよ」
その瞬間、優里の表情から色が消えた。
虚ろな瞳が、過去の闇を見つめるように揺らいでいる。
「頑張った結果が……これだったのに?」
掠れた声には、怒りではなく深い絶望が滲んでいた。
【優里の回想】
優里は制服のまま、病院の白い天井を見上げていた。
手首には真新しい包帯が巻かれている。
優里は必死に勉強し、誰よりも努力した。
しかし、その「頑張り」は妬みと憎しみを呼び、
最後に残ったのは、身体と心に負った深い傷だった。
「頑張れば報われる」という希望が、
彼女の目の前で粉々に砕け散った瞬間だった。
(頑張ったのに……頑張った結果、私は生きる価値がないと、そう思ったのに)
優里の瞳の奥には、
絶望的な過去の光景が一瞬、フラッシュバックした。
蓮は、優里の表情が消えた理由を理解できなかった。
自分の心からの励ましが、
優里の深い傷を鋭い刃となって抉り取ったことなど、知る由もない。
「優里……? どうしたんだよ……?」
蓮は動揺し、優里に手を伸ばそうとする。
だが、優里はその手を鋭く拒絶した。
「二度と、私に勝手なことを言わないで」
蓮は突き放され、動けない。
優里の言葉と無表情が、
蓮の熱い愛情を容赦なく打ち砕いていた。
「……私のこと、本当に何も知らないんだね」
優里の声が現実に戻る。
けれどその響きは、蓮の胸を深くえぐった。
言葉を返せない。
ただ、自分の無邪気な一言が、
彼女の傷を抉ったことだけは痛いほど理解できた。
優里の視界は、ふっと暗転していった。
足元の床が消え、
彼女は時間を巻き戻すように、
かつての高校時代へと引き戻されていく。
あの頃。
優里は、ただ「頑張る」ことだけを信じていた。
誰よりも成績を上げようと、
教科書が擦り切れるまで読み返した。
努力で証明しようと必死だった。
だが結果は、彼女が願った形では返ってこなかった。
どれだけ点数を取っても、陰口は消えない。
「優等生ぶってる」
「真面目すぎて気持ち悪い」
廊下を通ると、背後で小さな笑い声が刺さる。
それでも、笑顔でごまかした。
「大丈夫、気にしてない」
そう言葉にすることで、
心が壊れていくのを先延ばしにしていた。
夜。
自室にこもり、机の上に散らかった教科書の山を見つめる
手は震え、呼吸は浅い。
「こんなはずじゃなかった」
「私は間違っていたの?」
声に出しても、返事はない。
ふと「本当にこれでいいのか」と心が揺れた。
けれど、もう誰にも助けを求める声を出せなかった。
必死に「頑張った」自分を、誰も見てくれなかったから。
「どうして生きているんだろう」
その問いだけが、ずっと胸の奥に沈殿していた。
蓮は愕然とした。
自分が「前向きな励まし」をしたつもりだったのに
優里の顔からは血の気が引き、
瞳の奥は、どこか過去の闇に閉じこもったように遠くを見つめている。
「……優里?」
おそるおそる呼びかけるが、返事はない。
蓮は知らなかった。
彼女が、かつて命を手放すほどに追い詰められていたことを。
「頑張れば報われる」
それは蓮にとって
御曹司として生きてきたなかで安易に信じてきた言葉だ。
けれど、優里にとっては「必死に頑張ったのに、それでも否定され、崩れ落ちた過去」そのものだった。
胸の奥で自己嫌悪が渦巻く。
彼女を守るつもりで口にした言葉が、
逆に彼女の古傷をえぐり、
暗い記憶を呼び覚ましてしまった。
優里は小さく震える指先を握りしめ、顔を伏せた。
「……本当に、何も知らないんだね」
その声は、冷たく、
それでいてどこか壊れそうにかすれていた。
蓮は言葉を失った。
「守りたい」と強く願っていたはずなのに、
自分の無知が、彼女の痛みを再び呼び起こしてしまった。
沈黙が重く張りついた。
蓮は何度も口を開こうとしたが、
優里の硬い横顔を前に、
言葉は喉の奥でからみついて出てこない。
(……俺、ほんとバカだ。守るどころか、逆に傷つけてどうする)
優里は冷たく目を伏せたまま、もう何も言わない。
蓮は手を伸ばしかけて、途中で止めた。
触れていい距離じゃない。
そう痛感させられる空気だった。
蓮が優里の言葉と無表情によって
自らの浅はかさを痛感し、
二人の間に重苦しい沈黙が流れているその時。
会議室のドアが遠慮なく、勢いよく開けられた。
優里は一瞬にして表情を引き締め、
いつものクールな社長の顔に戻る。
入ってきたのは、一人の女性だった。
彼女もまた、教育系IT企業を経営する、
競合他社の若き社長だった。
彼女の名は神崎玲奈。
オーダーメイドの鮮やかなスーツに身を包み、
ヒールの音をカツカツと響かせる。
その身体じゅうからは、抑えきれない自信と、
みなぎる自己顕示欲がオーラとなって発散されていた。
神崎玲奈は優里を一瞥するなり、口元を釣り上げた。
「……あら。噂は本当だったのね」
その佇まいには、
優里にはない自信と押し出しの強さがあった。
まるで舞台のスポットライトを常に浴びているかのように、
周囲の視線を奪っていく。
女は細い目を細め、にやりと笑った。
「へぇ~。優里の会社に御曹司がいるって聞いたけど……本当だったんだ」
挑発的な声音。
蓮は不意を突かれたように瞬きを繰り返す。
優里は小さく眉をひそめただけで、返事をしない。
女は一歩、また一歩と近づきながら、
わざと蓮を値踏みするように視線を上下させた。
「ここに教材をおろそうかと思ったのにね。でも断られちゃったの。“もうほかの会社がいるから”って」
そこで意味ありげに笑い、優里を一瞥する。
「もしかして……って思ったけど、やっぱりあんたの会社だったのね、優里」
その声音には、隠す気のない優越感がにじんでいた。
その言葉は「あんたのせいで、私の成功が邪魔された」と責めているかのようだった。
神崎玲奈の優越感に満ちた笑顔は、
優里の地道な努力を嘲笑っているようにも見えた。
親愛の情など微塵もなく、
格付けをするような、冷たい優越感が滲んでいる。
その目は優里の存在を一瞬で支配し、
優里が最も持っていないもの、
最も拒絶してきたものを全て体現していた。
【優里に欠けているもの】
誰にも媚びない強烈な自信
自分の成功を隠さない自己顕示欲
過去の傷を覆い隠す、厚い陽のオーラ
玲奈は優里が過去に必死で求め、
手に入れられなかったものを、
全て手にした成功者として、優里の目の前に立っていた。
玲奈は優里を嘲笑うかのように華やかに笑った。
その笑顔の強さは、優里の表情を硬くさせる。
蓮は優里の隣で、優里の感情が凍りついていることを感じ取った。
優里の心を抉ったのは、蓮の不用意な言葉だけではなく、
過去の成功者との残酷な対比だったのだと、
蓮は直感的に理解した。
優里は玲奈の顔を数秒間、じっと見つめた後、
まるで初めて会う人間に向けるような、
ビジネスライクな冷徹な声で言い放った。
「…あの、どなたですか?」
ポカンとする優里。
優里の瞳には神崎玲奈という存在が
全く記憶として残っていないことが、
ありありと見て取れた。
社交辞令でも皮肉でもなく、純粋な疑問だった。
玲奈の自信に満ちた表情が、一瞬で凍り付いた。
(うそでしょ、同級生ってわからない)
玲奈は内心、驚愕し、優里の記憶力の無さではなく、
優里の自分に対する無関心という
最強の防御に完全に打ちのめされていた。
蓮は優里の横で、優里の恐るべき防御力に戦慄した。
過去の陰口やいじめ、
そして自殺未遂に至るまでの辛い記憶を、
優里は自ら「無価値な記憶」として切り離し、
自分の世界から排除していたのだ。
玲奈は、優里の無関心によって一瞬凍り付いたが、
すぐに新たな獲物へと視線を移した。
「ところで……あなたがその御曹司さん?」
玲奈は蓮をまっすぐに見つめ、
わざとらしいくらいに口角を上げる。
「ふふ。噂通りのイケメンじゃない」
唐突に向けられた視線に、蓮は思わず肩をすくめた。
優里を守るため、ここで優雅に牽制しなければ。
そう蓮が覚悟を決めた、その瞬間。
「疲れた。 ……先、行ってる」
短く吐き捨てるように言って、優里は背を向けた。
足早に廊下の向こうへ消えていく。
「えっ、おいっ、優里!」
蓮は慌てて呼び止めるが、振り返りもしない。
(……マジかよ。 気まずいまま置いていくなって!)
蓮は優里の突然の離脱に内心パニックに陥る。
優里が玲奈に無関心だったとはいえ、
自分を競合の女社長と二人きりにするなど、
「守る」という使命を全うさせないための拷問に等しかった。
女は蓮を眺めながら、わざと声を張った。
「でもねぇ……優里って昔から、頑張りすぎる子だったのよ」
その声音には、同情とも皮肉ともつかない響きが混ざっている。
その声に、優里は思わず足を止めた。
蓮は眉をひそめた。
嫌な予感が背筋を這い上がる。
「あんまり無理しすぎて、自殺未遂までしちゃったくらいに」
空気が一瞬で変わった。
通りすがりの先生や生徒たちが立ち止まり、ざわめきが広がる。
「え……今なんて?」
「自殺未遂って……」
「あの社長が……?」
優里は振り返った。
その顔は一瞬で蒼白になり、固まる。
蓮の胸が強くざわめいた。
(やっぱり……! けど、こんな言い方……)
玲奈は唇に冷笑を浮かべたまま、
わざとらしく肩をすくめる。
「私、同級生だから全部知ってるのよ。どれだけ必死に頑張って、結果が出なくて潰れちゃったか」
優里の目がかすかに揺れる。
口を開きかけたが、声にならなかった。
蓮はもう堪えられなかった。
一歩前に出て、玲奈の前に立ちはだかる。
「……やめろ」
低く、しかし強い声音だった。
玲奈の笑みが凍りつく。
「俺の大切な人だ。彼女の過去を利用して見世物にするな」
「……っ!」
周囲が息をのむ。
蓮は胸を張り、
まるで舞台に立つ王のような存在感を放っていた。
御曹司として培われたカリスマと迫力が、
今この場に凝縮されていた。
「彼女の過去は、彼女のものだ。他人が勝手に暴く権利なんてない」
その堂々とした言葉に、ざわめきは消え、
廊下は水を打ったように静まり返った。
優里は俯き、唇をかすかに震わせていた。
玲奈は睨み返したが、すぐに視線を逸らす。
「……ふん。さすが御曹司サマ。言うことが違うわね」
次の瞬間、口角をにやりと上げ、
別の色を帯びた視線を蓮に向けてきた。
「ねぇ。あんた……うちに来ない?」
「……は?」
蓮が呆然と聞き返す。
「星野グループの坊ちゃんなら人脈も金もある。今の会社にくすぶってるより、私と組んだ方が絶対に成功できるわよ」
唐突なスカウトの言葉に、蓮は目を丸くした。
(おいおい……優里の過去を利用しておいて、今度は俺を引き抜き? 冗談じゃねぇ)
しかし周囲の視線は、再び蓮へと注がれていた。
選択を迫られるように。
蓮の動揺を見て、勝ち誇ったように笑った。
「考えといてね。御曹司サマの席は、いつでも空けておくから」
神崎玲奈はそれだけ言い残すと、
蓮の返事を待たずに、さっさと廊下の奥へと消えていった。
彼女の自信は、自分には蓮を引き抜く価値があると確信していたからだ。
(あ、危なかった……。ちょっと揺れた自分が怖い。でも俺の居場所は優里の隣にしか――)
そう思いながら足早に優里の元へ戻ると、
彼女はもういつもの無表情に戻っていた。
「優里! 大丈夫か!? あの女の戯言なんて気にするな! 俺は絶対に、優里のそばを離れない!」
蓮は優里の肩を掴み、熱弁を振るう。
優里は顔を上げ、
蓮の熱意を冷めた瞳で見つめた。
「うるさい」
優里は蓮の手を振り払う。
「好きにすれば? あんたの人生でしょ」
蓮の心は再び打ち砕かれる。
優里を守るという熱い決意も、優里の頑なな鎧の前では無力だった。
(くそっ! 俺の愛はこんなにも本物なのに! なんで信じてくれないんだ!)
しかし、蓮の心は折れなかった。
優里の冷たさは彼女の傷の深さの証だ。
蓮は優里の隣にただ立つことを選んだ。
(な、なんでだよ……!俺、心のなかではめっちゃ忠誠誓ってるのに! 妄想と現実の温度差やばすぎだろっ!!)
その夜。
優里は玄関で靴を脱ぐのもそこそこに、
そのまま自室へ戻った。
ドアを閉める音すら重く、
廊下に残る気配はすぐに消えてしまった。
ベッドの縁に腰を落とした瞬間、全身から力が抜けて、
重力に委ねるようにそのまま仰向けに倒れた。
シーツの冷たさが皮膚に触れる。
視界は遠く、音は遠く、
時間だけがゆっくりと引き延ばされる。
「……消えたい」
言葉は囁きになり、喉の奥から滑り落ちた。
独り言にも満たない、
その声は枯れて小さく、部屋の空気に溶けていく。
自分の傷、会社のこと、社員の期待、蓮の慌ただしい顔。
全部が重なり合って、
どれも自分のものではないように思えた。
誰かのために、何かを守るために、
いつのまにか自分は薄れていったのかもしれない。
瞼の裏に浮かぶのは、笑顔の記憶ではなく、
非情な言葉、裏切り、期待に応えられなかった夜のこと。
自分はいつから「笑っていてはいけない人」になったのだろう。
笑うことすら、許されないように感じられる。
だけど、消えるという言葉は簡単に現実にはならない。
思考の奥で、小さな声が、嫌でも冷静に機能する理性が囁いた。
今消えたら、会社の子どもたちはどうなるのか。
スタッフは。
たったひとつのプロジェクトが、
誰かの人生の一部になっているのなら、
自分の欠落はそこで波紋を作る。
そう考えると、胸の奥に小さな痛みが刺さる代わりに、
別の感情が生まれた。
責任。 焦燥。 まだ終わっていないことがあるという感覚。
思い出が薄れていくと、別の記憶がそっと差し込んだ。
保育園で見た子どもの笑い声。
教材の小さな成功報告。
社員から受け取った無邪気な「ありがとう」。
自分が始めた事業が、
誰かの朝を変えてしまうほどの力を持つとは思わなかった。
でも、それは確かに存在している現実だ。
誰かが朝、子どもを送る足取りが少しだけ軽くなるとしたら、
その一部は自分が担っている。
「明日、やらなきゃいけないことがある」
そう自分に言い聞かせる。
叫びたいほどの絶望は消えないけれど、
行動のリストが頭のなかに並ぶ。
資料の修正、保育園のフィードバック、
弁護士との相談、蒼司との出張の詰め。
やることがある。
諦めることは、先延ばしにできない責務の放棄だと感じた。
ベッドの端で身体を丸め直す。
また心が締めつけられる。
誰かに頼ることが弱さではないと、
頭では分かっているのに、口に出すのは難しい。
けれど、偶然でもいい。
誰かが隣にいるという事実が、
どれほど心を軽くするかを今は知っている。
天井を見上げたまま、優里は目を閉じる。
頬に冷たい空気が触れる。
夜は深いが、明日はまた来る。
彼女はその明日を、まだいくらかでも守るために息を整えた。
翌朝。
カーテンの隙間から射し込む朝の光に、
優里はまぶしそうに目を細めた。
シーツから伝わる昨夜の冷たさと、
孤独の重さがまだ身体に残っている。
けれど、やらなければならないことのリストが、
彼女を強引に現実へと引き戻していた。
優里が重い体を起こそうとした、次の瞬間。
スマートフォンが震えた。
画面には「星野 蓮」の名前。
(どうして……)
昨日の感情の爆発も、同級生からの残酷な暴露も、
そして蓮の必死の擁護も、
優里にとっては「いつか自分から離れていく人」の
一過性の行動でしかなかった。
優里は自分の存在など、誰も気づかないで終わると思っていた。
誰もが自分の人生で忙しいのだ。
しかし、今、画面に表示された「蓮」というたった文字が、
昨夜の深い闇にほんの少しだけ救いを差し込んでいた。
優里は深呼吸してから、通話ボタンに指を滑らせた。
受話器を耳に当てる。
声は震えていたが、昨日より確かに前を向いていた。
優里のスマートフォンから聞こえる声は、
いつもの軽口とはまるで違っていた。
「……優里、昨日のこと、もう一度話させてほしい」
低く落ち着いた声。
御曹司らしい威厳がにじむ。
普段の蓮なら茶化したり冗談めかしたりするところだが、
その一切がなかった。
「俺、本気で守りたいんだ。 誰が何を言おうと、優里が過去に何を背負ってきても、全部引き受けたい」
優里の胸は小さくざわめいた。
その真剣さに心を揺さぶられそうになるが、
同時に恐怖も込み上げる。
「……やめて。 私は平気だから」
「平気なわけあるかよ!」
蓮の声が大きくなる。
「昨日、天井見上げて『消えたい』なんて思ったろ!?」
優里は息を呑んだ。
言っていないはずの言葉を、なぜ彼が知っているのか。
「……盗聴でもしてるの?」
「してねぇよ! でも顔見たらわかるんだ。 俺、バカみたいに優里のことばっか考えてるから!」
御曹司モードから一転、溺愛過保護モードが顔を出す。
「もし優里が倒れたら? 救急車? いや、救急車じゃ遅い! 俺の専用車で病院まで直行だ! いや待て、俺が医師団を呼んで優里専用の病棟を建ててもいいかもしれない!」
「……あんた、頭おかしいでしょ」
冷たく突っ込む優里。
しかし蓮は怯まず、さらに妄想を暴走させる。
「仕事で徹夜? 絶対禁止! 俺が横で添い寝してでも寝かせる!」
「……それ、ただのセクハラ」
優里は呆れ半分に切り捨てるが、
その胸の奥でほんの少しだけ、
温かさが芽生えているのを自覚していた。
蓮は真剣な眼差しを崩さずに言う。
「……本気なんだ。 俺が誰よりも優里を守る。 御曹司だろうが何だろうが関係ない。 ただ、ひとりにしないって決めただけだ」
優里は言葉を失った。
過去の傷が疼く一方で、
彼の過剰で不器用な愛情が、確かに心の隙間に入り込んでいた。
優里は受話器の向こうで、冷たく言い放った。
「……だからやめて。 私は誰かに守られるような人間じゃない」
「優里」
蓮が言葉を重ねるのを許さず、
優里はとどめの一言を突きつける。
「同情してるなら、余計なお世話。 昨日のことも、忘れて」
その声音は氷のように冷え切っていて、蓮の胸を突き刺した。
彼の純粋な愛情は、優里の固い防御壁によって弾き返され、
「余計なお世話」という無慈悲なレッテルを貼られた。
蓮は下がらなかった。
むしろ内心で歯を食いしばる。
(いいさ。 突き放されても。 俺は退かない。 絶対に過去の傷を、俺の愛で塗りつぶすまで、この過保護をやめるか! 俺の人生最大のプロジェクトだ)
蓮の心のなかでは、優里の冷たさは試練へと変換された。
彼は御曹司としてのプライドと、
優里への底知れない愛を燃料に、
次の攻勢のタイミングを密かに探り始めていた。
冷たい通話終了音が、蓮の耳の奥でこだましていた。
(これで引くと思ったら大間違いだ、優里)
蓮の目つきが、一瞬で変わる。
突き刺すような拒絶は、彼にとって最大の挑戦状であり、
愛を証明するステージの開演を告げるゴングに他ならなかった。
蓮はベッドから勢いよく飛び起きた。
「ぐずぐずしている暇はない!」
彼は数分でシャワーを浴び、
最高級ブランドのスーツに完璧に身を包んだ。
ヘアスタイルは一糸乱れず、
腕時計は優里の会社にふさわしい格付けのものを選ぶ。
顔には一切の迷いがない。
(優里は「守られるような人間じゃない」と言う。 ならば、俺は彼女の会社を、事業を、未来を、全て守る! 彼女が抗えないほどの絶対的な安心感と庇護で包み込む!)
蓮の胸には、優里への溺愛と、
御曹司としての使命感が融合していた。
(待ってろよ、優里。俺はただの遊び人じゃない。 愛の戦士であり、優里だけの御曹司だ。)
蓮は自宅のドアを勢いよく開け放ち、
優里のいる場所へと向かうべく、その場を後にした。




