第7話「魔王軍のスカウトが来たんですが、目的が“パパ”ってどういうこと!?」
東の空から差し込む淡い黄金色の光が、窓枠をすり抜けて木製の食卓に斜めの四角形を描いていた。
レルファリア王国、魔導学都の朝は、本来であれば極めて静かで、穏やかな時間が流れるはずだった。遠くの塔から聞こえる鐘の音、街路樹の葉を揺らす涼やかな風、そして——スパイスと煮込まれた肉の濃厚な香りが充満する一室を除いては。
「すまん、魔王軍からスカウト来た」
一真は、何の変哲もない顔でそう言った。
手にした金属製のスプーンで、大きめに切られたジャガイモと濃度の高いルーを掬い上げ、口へと運ぶ。もぐもぐと咀嚼する顎の動きには、動揺の欠片すら伺えない。まるで「今日、雨が降るらしいぞ」程度の、他愛のない天気予報でも口にするような軽やかさだった。
「…………え?」
対面に座っていた娘のまひるは、咀嚼していたサラダのキャベツを喉に詰まらせそうになり、動作を完全に停止させた。
朝の光を浴びて艶めく黒髪が、硬直した首の動きに合わせて微かに揺れる。
「もう一回……言って? 私、今、聞き間違いした気がする。耳にピヨンの羽でも詰まってるのかな」
「だから、魔王軍のスカウトが来てな」
一真はルーのついたスプーンを皿の縁にカチリと当て、視線だけをまひるに向けた。その瞳はどこまでも無感情で、平穏そのものだ。
「オレを“直属の戦闘幹部に”って言われた。年俸制で、住宅手当も出るらしい」
その瞬間——カチャン、と甲高い金属音が静まり返ったリビングに響き渡った。
まひるの手から力が抜け、握っていたスプーンが磁器の皿に跳ね返り、そのままテーブルクロスの上に転がったのだ。
「なんで、パパがスカウトされるの!?」
まひるは身を乗り出し、両手をテーブルに突いた。皿がカタカタと揺れる。
「どう考えてもおかしいでしょ!? パパはただの一般人で、うちの父親で、魔法すら使えない普通の……ううん、普通じゃないけど! なんで魔王軍なの!?」
「向こうの話だと、先週の《ピヨン召喚バグ事件》での対応を見てな」
一真は気にした風もなく、麦茶の入ったコップを傾け、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干した。
「“あの異常事態において、概念的な魔法バグを物理的な打撃のみで無力化した手腕はただ者ではない。ぜひ我が軍の第一線で振るってほしい”……と、そういうことらしい」
「そりゃまあ、パンチ一発で空間ごと魔法バグを黙らせた人類は、この世界探してもパパくらいしかいないだろうけどさ……! でもスカウトって! 魔王軍って悪の組織でしょ!?」
まひるが頭を抱え、自身の前髪をくしゃくしゃと掻き乱したまさにその時だった。
——コン、コン。
静かな朝の住宅街に、不釣り合いな硬い音が響いた。玄関のドアを叩く音だ。
一真とまひるの視線が、同時に廊下の奥へと向けられる。
——ゴゴゴン……!!
「ん?」
ノックにしては不穏すぎる、地鳴りのような振動。玄関の木枠が軋む悲鳴が聞こえたかと思った次の瞬間——
バキィィィンッ!!!!
凄絶な破砕音が響き渡り、厚みのある高級オーク材の玄関ドアが、まるで乾いたせんべいのように内側へ向かって粉々に砕け散った。
吹き荒れる木の粉塵と破片。朝の光が差し込む玄関口に、ゆっくりと一つの影が浮かび上がる。
「ドア壊したぁぁぁーッ!?」
まひるが悲鳴交じりのツッコミを上げる中、煙の向こうから歩み出てきたのは、黒地に金糸の刺繍が施された豪華なマントを翻す美青年だった。
整った顔立ち、透き通るような白銀の髪。頭部からは小さな黒い角が左右にちょこんと生えているが、全体的な雰囲気は驚くほど人間に近い。何より、その手には漆黒の革製アタッシュケースが握られていた。
「——失礼する。突然の訪問、お許しいただきたい」
青年は、壊れたドアの破片を靴底で踏みしめながら、洗練された動作で深々と一礼した。
「私、“魔王軍スカウト部・現地採用担当”の特務官、リューベルと申します。一真殿、先日のご提示に対するお返事を伺いに参りました」
「なんだその異様に企業っぽい肩書きは……」
まひるは引きつった笑いを浮かべながら、一真の後ろへ半歩隠れる。
「ええ、我が魔王軍は現在、中長期的な組織改革の一環として“戦力の多様化”を強力に推進しておりまして!」
リューベルと名乗った悪魔の青年は、胸を張り、爽やかな笑顔でアタッシュケースを軽く掲げてみせた。
「従来の黒魔法・暗黒剣に依存した戦闘形態では、近年の多様化するヒーロー層に対抗しきれんのです。そこで、貴殿が魅せた“物理で魔法を力任せにねじ伏せる”という規格外の力技に大いなる可能性を見出しました。提示条件として、有給消化率百パーセント、特別危険手当の支給、さらには住宅ローン補助も——」
朗々とスカウト条件を読み上げていたリューベルだったが、ふと、その言葉が途切れた。
一真が、ゆっくりと食卓の椅子から立ち上がったからだ。
ガタリ。
椅子が引かれる静かな音。一真の全身から、凄まじい威圧感が静かに漏れ出し始める。部屋の中の空気が急速に重くなり、気圧が急激に下がったかのような錯覚をリューベルは覚えた。
「悪いが」
一真の低い声が、リビングに重く響く。
「うちの娘に手出しするような組織には、毛頭興味がない」
「……え?」
リューベルは目を丸くした。爽やかな笑顔がわずかに硬直する。
「いや、あの……娘さんですか? いえ、我々はご令嬢に対して危害を加えるつもりなどは一切……というか、採用対象はあくまで貴殿お一人でありまして……」
「うちの子はな」
一真はリューベルの弁明を完全にスルーし、一歩踏み出した。その足が踏みしめた床板が、ミシッと悲鳴を上げる。
「まだ16歳だぞ。高校1年生なんだぞ。育ち盛りの大事な時期なんだ」
「いや! ですから戦闘に巻き込むようなことはいたしませんし! なんなら事務職や後方支援など、福利厚生を最大限に適用したご家族向けの保障プランもご用意して——って、ちょ、ちょっと待ってください! なぜ拳を固めているのですか!?」
リューベルの額から、ダラリと冷や汗が吹き出出した。
一真の右手が、ゆっくりと、しかし確実に握り込まれていく。その拳の周囲の空間が、光の屈折によって歪み始めていた。空気を力任せに圧縮し、物理的な真空状態を作り出しているのだ。
「うちの娘の平穏を脅かす存在は——根こそぎ叩き潰す」
「話を聞いてくださぁぁぁい!?」
——ドカァァァァァンッ!!!!
空気が爆発した。
一真の右拳が一閃した瞬間、打撃の衝撃波が一直線にリューベルの体を捉えた。直接触れてすらいない。ただの拳圧である。
リューベルの体は弾丸のような速度で垂直上方へと打ち上げられ、二階の天井、そして屋根の瓦を粉々に砕き割りながら、遙か上空の青空へと突き抜けて行った。
「我が社は即日撤退いたしまぁぁぁぁぁす……!!」
遥か上空、点となって消えていくリューベルの絶叫が、虚しく空にこだました。
半開きの屋根から、パラパラと瓦の破片と木屑が降り注ぐ。
朝の爽やかな日光が、一真たちのリビングを真上から燦々と照らしていた。一真は突き出した拳を静かに引くと、何事もなかったかのように残りのカレーの皿を持ち上げた。
静寂。
壊れた玄関と、穿たれた天井。惨状と化した家の中で、まひるは呆然と天を仰いでいた。
——数分後。
どこで聞きつけたのか、カラスのような使い魔が落としていった「屋根・玄関修繕費用見積書」の紙片を手に、まひるは深々とため息をついた。
「……はあぁぁぁ。そっちは私が払う。だからパパ、魔王軍の肩書きがついたやつを即効で吹っ飛ばすのはやめようね?」
「……娘の将来を守るためだ」
一真は真顔で言い張り、最後の一粒まで綺麗に平らげたカレー皿をシンクへと運んでいく。
「あのね、パパ。気持ちは嬉しいけど、パパが暴れるたびに我が家の家計が火の車になるの。あと、家は壊さない方向で本気でお願いね?」
まひるは額を押さえながら、ぽつりと呟いた。
この異世界において、魔王軍でも古代の邪神でもなく、一番の脅威——それは、“過剰すぎる火力と見当違いの妄想力を伴った親バカ”という事実なのかもしれない、と。
◇
その夜。
昼間の騒動が嘘のように、魔導学都は深い静寂に包まれていた。
突貫工事で魔導接着剤を使って塞いだ天井の隙間から、わずかに冷たい夜風が入り込んでくる。
一真はベランダに出て、手すりに両肘を預けながら、ゆっくりと夜空を見上げていた。
その背中は、昼間の圧倒的な存在感とは裏腹に、どこか小さく、哀愁を帯びて見えた。
「……俺がいなくなった世界で、お前を一人にしてよかったのか」
ぽつりと、夜の闇に溶け込むような低い声で一真がつぶやいた。
その言葉には、かつて彼が過ごした元の世界——そして、そこで娘を残して先立ってしまったという、決して消えることのない悔恨と痛切な記憶が滲み出ていた。
「まだ……答えは出ないな」
己の選択が正しかったのか。娘を追いかけるようにして異世界に存在するようになった今の状況が、本当にこの子のためになっているのか。一真の胸の中には、物理的な力では決して吹き飛ばすことのできない迷いが、重くわだかまっていた。
サク、と足音が聞こえた。
まひるが薄手のカーディガンを羽織り、そっと一真の隣に並び立った。
肩が触れ合うほどの距離。彼女から伝わってくる小さな体温が、夜風の冷たさを和らげていく。
「じゃあ、ここで一緒に考えていこ」
まひるは夜空を見上げたまま、穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「異世界だし、バグってるし、毎日家は壊されるし……いろいろ大変だけどさ」
まひるは一真の顔を見上げ、いたずらっぽく微笑んだ。
「でも、父娘でなら、どうにかなる気がするでしょ?」
一真は驚いたように目を見開き、やがて、困ったような、しかし愛おしそうな苦笑を浮かべた。
「……そうだな」
二人は並んで、再び空を見上げた。
群青色の夜空には、満月と無数の星々。そしてその間を、先週のバグ事件で発生した光る球体生物たちが、今もふわふわと幻想的な光を放ちながら、あてもなく漂っていた。
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