第4話「パパ、娘が絡まれると戦闘力が爆上がりします」
学都の最高研究棟「白亜の塔」第三講義室には、古びた羊皮紙の乾いた匂いと、精製された羊毛インクのツンと鼻を突く芳香、そして何十人もの人間が発する熱気が充満していた。
黒板の代わりに据えられた巨大な黒石板には、白い白亜でびっしりと数式と魔導記号が殴り書きされている。
「まひるさん、この構造式の解釈、もう一度教えていただけませんか!?」
声を張り上げたのは、白髪交じりのヒゲを蓄えた初老の術式学者だった。普段なら若い研究者を怒鳴りつけているような権威ある老教授が、いまや目を血走らせ、小さなノートの切れ端とペンを握りしめて女子高生にしがみついている。
「あ、はい。ここはですね、魔術の展開速度を上げるために、条件分岐の処理を事前にルックアップテーブル化してるんです。えっと、つまり……」
まひるは疲れで軽くかすんだ目を擦りながら、膝の上に広げた黒い薄型の板――ノートパソコンの液晶画面を指差した。画面には、彼女が自作した魔導変換エミュレータプログラムのソースコードが青白い光を放っている。
「このループ処理、魔素圧縮演算に応用できるかも!」
隣から身を乗り出してきた若手研究者が、跳ね上がるような声を上げた。彼の持つ羊皮紙には、これまで彼らが何十年もかけて構築してきた「呪文詠唱の長さによる魔素調整」の理論が書かれていたが、まひるの示したアルゴリズムを使えば、その九割が無駄な冗長コードであったことが一瞬で証明されてしまったのだ。
「魔法を論理的に処理する……感覚や血統ではなく、純粋な演算とロジックとして整理する……! 天才だ、いや、これは魔術体系そのものの革命だぞ!」
朝から晩まで、まひるはひっきりなしに押し寄せる学者たちに引っ張りだこだった。
異世界の研究者たちにとって、彼女が提示する“謎の知識”は天地がひっくり返るほどの衝撃だった。彼らにとって魔法とは「祈り」や「体感」で紡ぐ曖昧な技術であったが、現代の基礎情報処理と数学の概念を持ち込んだまひるの解説は、霧に包まれていた世界に一本の澄み切った光を挿し込むようなものだったのだ。
だが――陽が傾き、回廊に長い影が伸び始めた頃、不穏な空気が忍び寄っていた。
「……おい、見たか? あの異国の娘」
「ああ、なんでも“魔導装置を一瞬で動かした”らしいぞ」
「それだけじゃない。使ったのは金属の板状装置……“のーとぱこん”とかいう名の未知の魔具らしい」
講義室を後にしたまひるが石造りの廊下を歩いていると、すれ違ったアーチ状の柱の裏側から、ひそひそとした潜み声が耳に滑り込んできた。
チラリと視線を向けると、陰に隠れているのは暗い色調のローブを纏った男たちだ。胸元には学都の紋章が刻まれているが、先ほどまでまひるに純粋な探求心で質問をぶつけてきた学者たちとは異なり、その瞳にはどろりとした野心と貪欲さが揺らめいていた。
(……なんかヤバそうな視線。早くパパのところに戻ろ)
まひるは背中に小さな冷や汗が伝うのを感じながら、大切なノートパソコンをぎゅっと抱え直し、足早に待ち合わせ場所へと向かった。
そしてその日の夕刻。
まひるが一人で中庭の噴水に向かっていたとき、事件は起こった。
中央に配された古代様式の噴水が、茜色から群青色へと移り変わる黄昏の空の下で静かに水を吐き出している。まひるは一人、噴水のフチに腰を下ろし、一息つこうとした。冷えた水滴が微風に乗って頬を撫でる。一真との待ち合わせ時間まであと数分。緊張がほぐれ、ほうっと息を吐き出したその瞬間――。
「おや、君が“パコンの乙女”かな?」
重々しくも慇懃無礼な声が、頭上から降ってきた。
まひるが顔を上げると、そこには派手な金糸の刺繍が施された鮮やかな黄色の高級ローブを纏った中年男が立っていた。細い目、丁寧に整えられた髭、そして指にはいくつもの魔石付きリング。胸元には確かに学都最高峰である魔導院の紋章が輝いているが、醸し出す雰囲気はただの研究者ではない。
「……誰がパコンや。って、あなた誰?」
まひるは警戒感を露わにし、ノートパソコンを抱える腕にぐっと力を込めた。
「失礼。私は〈黄の塔〉の魔導技術部門を統括する、クレアム教授。君の所持しているその珍しい装置と、そこに収められた異世界の知識に大変興味があってね。少し、我が研究塔まで来てもらえないかな? じっくりと調べさせてもらいたい」
粘りつくような笑みを浮かべるクレアム。その視線はまひる本人ではなく、彼女の腕の中にある黒い筐体に注がれている。
「パパと一緒のときならいいですけど、今は――」
「……強情だな。だが、それでは困るのだよ」
クレアムの笑みが消え、冷酷な光がその瞳に宿った。彼が乾いた音で指を鳴らす。
パチン、という音が中庭に響いた直後、噴水の影から潜んでいた二人の男が飛び出した。
「!?」
まひるが反応する間もなく、鉄の万力のような力で両腕を後ろへと強引に締め上げられる。
「痛っ……! なにするのよ!」
「無礼を承知で言おう。あの“パコン”と君の頭脳は、国家技術として我が〈黄の塔〉に取り込む。それが学都の将来のためであり、ひいては我が塔の方針でもあるのだ」
「無理やり持ってくとか、ただの強盗でしょ! 独裁国家か!」
まひるは必死に足をバタつかせ、抵抗しようとするが、鍛え上げられた暴漢たちの力には抗えない。クレアムは蔑むような笑みを浮かべ、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
「知識とは国家の礎。我が塔はそれを正しく管理しているだけさ。さあ、大人しく――」
クレアムの指先やまひるのノートパソコンに触れようとした、まさにその瞬間――。
ズドォォォォォォン!!!!
大気を揺るがす凄まじい地鳴りと共に、中庭を囲んでいた厚さ五十センチ以上の重厚なレンガの塀が、内側から巨大な砲弾でも叩き込まれたかのように爆破・砕散した。
「ヒギャッ!?」
「な、なんだ!?」
飛散する大量の赤レンガの破片と、視界を覆い尽くす激しい土煙。衝撃波が噴水の水を派手に跳ね上げ、クレアムたちは目と耳を押さえてうずくまった。
その朦朧とした煙の渦の奥から、地獄の底から響くような重低音の叫びが轟いた。
「娘を返せぇぇぇぇぇぇえええ!!」
土煙を切り裂いて姿を現したのは、全身から血のような殺気を撒き散らす男――東雲一真だった。
元自衛隊陸上総隊直轄・第1空挺団所属。
現在の怒りゲージは、完全に限界突破(MAX)状態である。
「え、ちょ、パパ!? え!? なんで壁ぶち抜いて来てるの!?」
拘束されたまま、まひるは目を丸くして叫んだ。あまりの光景に恐怖も吹き飛んでいる。
一真は鬼のような形相で、足元に砕けたレンガの粉塵を蹴散らしながら一直線に歩み寄ってくる。
「娘が五分戻らなかったら突入するって言ったろ!!」
「そんな物騒なタイマーつけてたの!?」
「娘の安全確認は一秒の遅れも許されない!!」
まひるが頭を抱えて混乱している間にも、一真の足は止まらない。クレアム教授に向かって、一直線に突っ込んだ。
「おい、異世界のインテリ。娘を離せ」
「な、なんだ貴様は……っ、不審者だ! 警備隊を呼――ぐわあっ!!」
言い終わるより早く、クレアムの手に握られていた高級な魔導杖が、木端微塵に吹き飛んだ。
一真が歩きながら足元から拾い上げた親指大の小石。それを空挺レンジャー仕込みの異常な指の筋力と手首のスナップで弾き飛ばしたのだ。音速に近い速度で放たれた石ころは、ピンポイントでクレアムの杖の核である魔石を正確に粉砕していた。
「こ、この……魔力も魔術の予兆も一切感じられぬ者が、なぜ……っ!」
手に強い痺れを感じて腰を抜かしかけるクレアムに、一真は冷徹な眼光を突きつける。
「“魔力なし”の自衛官なめんなよ」
次の瞬間、まひるの腕を掴んでいた二人の取り巻きが、クレアムの危機を感じて一真へと襲いかかった。一人は腰の短剣を抜き、もう一人は低く姿勢を落としてタックルを仕掛ける。
そこから先はまるで、高度な近接格闘(CQB)の訓練映像の再生だった。
一真が一歩踏み込む。
タックルしてきた一人目の勢いを滑らかに受け流しつつ、正面からの掌底を相手の顎下へと垂直に突き上げる。視界を揺さぶられた男は、声もなく脳揺れを起こして白目を剥き崩れ落ちた。
間髪入れず、短剣を振りかざした二人目の懐へ滑り込む。相手の肘関節を内側から払い、そのまま軸足の膝裏へ容赦のない蹴りを叩き込む。関節を外されたように崩れ落ちる男の首筋へ、正確な手刀が一閃。
わずか二秒。二人の暴漢は地面に転がっていた。
「ひぃっ……!?」
残されたクレアムに至っては、尻餅をついたまま後ろへ下がろうとした瞬間、すでに眼前へ肉薄していた一真の拳を見舞われていた。
風を切る音と共に、顔面すれすれ数ミリ手前でピタリと止まった巨大な拳。発生した拳風だけでクレアムの帽子が吹き飛び、彼は完全に腰を抜かして失神寸前で固まっていた。
「…………」
「…………」
一真はゆっくりと拳を引き、まひるの元へと歩み寄ると、彼女の肩にかかったチリを優しく払った。
「パパ……お仕事モードのとき、ほんと怖い」
「娘に指一本触れたやつは、どんな世界でも排除対象だ」
その後、激しい破裂音と壁の崩落を聞きつけた研究院の幹部や警備隊が現場に駆けつけて事態は収束。
転がるクレアム教授と被害状況から「不当な拘束未遂および職権乱用」としてクレアムの即座の処分と失脚が決定され、まひるは正式に“技術顧問見習い”として学都の最高レベルの庇護下に置かれることになった。
その夜。
学都が用意した最高級客室。窓からは異世界の満月が静かな光を投げかけ、テーブルの上では温かいハーブティーの湯気が立ち上っている。
「……パパ」
「なんだ」
ベッドの脇で、相変わらず周囲の警戒を怠らない一真が振り返る。
「今日だけは、ちょっとかっこよかった」
「おお、ありがとう」
「……でも壁壊すのはやりすぎだからね。ほんとに」
「娘の安全には国家予算でも足りん」
「どこの防衛省ですか!!」
異世界でも、父は最強。娘は冷静。
だが確実に、二人の“冒険”は進み始めていた――。
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