第2話「パパ、異世界でもチートでした」
見渡す限りの緑が広がる異世界の草原。
空を優雅に飛翔する巨大なドラゴンの影を目撃し、一真の「自衛隊式の環境測定」に呆れ混じりのツッコミを入れ終えたばかりのまひるは、ふと自分の靴底を通して伝わってくる不穏な微振動に気づいた。
ズシン……ズシン……ズシン……。
まるで地底の奥深くで重い鉄球を打ち鳴らしているかのような、低く重い振動だ。足元に生い茂るフカフカとした青草が、波紋を描くように小刻みに揺れていた。
「……パパ、あれってヤバいやつ?」
まひるが少し引きつった指先で指し示した先――百メートルほど離れた低木林の影から、圧倒的な圧迫感を伴って「それ」が姿を現した。
ガシャアアアッ! ドゴォン!
幹の太さが大人の胴体ほどもある若い木々を、まるでマッチ箱のように容易くへし折り、大量の泥土と葉を巻き上げながら飛び出してきたのは、巨大な漆黒の塊だった。
体長は優に三メートルを超えている。地球に生息する野生のイノシシの骨格をベースに、全体を三倍以上にスケールアップさせ、凶暴性だけを極限までスタックさせたような異形のモンスターだ。
毛並みはまるで鋼鉄の針のように硬く逆立ち、口元からは研ぎ澄まされた日本刀を想起させるギラギラとした白銀の巨大な牙が二本、天に向かって鋭く突き出している。そして何より異様なのは、血走った両目が赤く不気味に発光していることだった。
「わーお……最初のエンカウントがこれって、完全に初期エリアの難易度設定バグってるでしょ……」
まひるの額から、タラリと冷や汗が流れ落ちる。
画面越しにRPGのモンスターを見るのとは訳が違う。湿った土の匂いを塗りつぶすほどの猛烈な獣臭と、命を容易く踏みにじる「圧倒的な暴力の気配」が、風に乗って直肌に突き刺さってくるのだ。
「フシューッ! ガアアアアッ!」
巨獣は赤く光る二つの眼球を一真とまひるの二人に固定すると、巨大な鼻孔から荒い白煙を勢いよく吹き出し、太い前脚で鋭く地を蹴った。
一真は眉一つ動かさず、横目だけで娘が安全な間合いにいるかを確認すると、静かな声で問いかけた。
「まひる、武器は?」
「武器!? あるわけないじゃん! 私が持ってるのは東芝のノートパソコンと、パーカーのポケットに入ってるUSBの基板型マイコンだけ!」
「……なるほど。それは武器とは言わん。鈍器としても強度が不足しているな。一撃で基板が砕ける」
「そういう物理的な耐久性の問題じゃないから!」
「パパは?」
一真はゆっくりと両腕を上げ、胸の前で拳を握り込んで構えた。迷彩服の袖を押し上げるほど、前腕の筋肉が鋼のように硬く隆起する。
「拳と、陸上自衛隊で叩き込まれた訓練で十分だ」
「物理で解決する気満々じゃん!?」
二人が会話を交わしている間にも、巨大なイノシシ型の魔獣――ボアロードは加速していた。
その巨体からは到底想像もつかない凶悪な俊敏さ。地鳴りを爆音へと変えながら、一直線に二人目掛けて突進してくる。時速にしておよそ五十キロ超。大型の軽トラックがノーブレーキで突っ込んでくる以上の運動エネルギーだ。踏み荒らされた地面から土塊が豪快に跳ね上がり、迫り来る黒い影がまひるの視界を真っ暗に覆い尽くしていく。
「危ない、下がってろ!」
まひるが咄嗟に両手で頭を抱え、身をかがめた瞬間だった。
一真はその場にどっしりと根を張るように立ち、低く、腹の底から響く呼気を漏らした。
「ハッ!!」
鋭い声とともに、一真の身体が動いた。
一瞬。本当に、コンマ数秒の出来事だった。
一直線に突っ込んでくるボアロードに対し、一真は後ろへ逃げるでも、真っ向から拳を打ち込むでもなかった。
突進の軸線から数センチだけ滑り込むように体をかわすと同時に、右足を斜め前方に深く踏み込み、腰を鋭く回転させる。そして、巨体がすぐ横を通り過ぎようとしたその刹那――一真の太い両腕が、ボアロードの喉元と、突き出た巨大な牙の根元を正確無比に捉えていた。
自衛隊徒手格闘術、および合気道の理合いを応用した「体さばき」と「テコの原理」。
時速五十キロで迫る三トンの運動エネルギーを拒絶して受け止めるのではなく、その進行方向のベクトルをわずかに上方へと斜めに誘導し、自分の体重と全身の筋力を一点に集中させる。
「ぬんっ!!」
一真の背筋が、しなやかな弓のようにしなった。
ドガァァンッ!!
空気を激しく引き裂く重低音。
信じられない光景が、まひるの目の前で繰り広げられた。
三メートルを超える巨体が、まるで突風に吹き飛ばされた藁人形のように、綺麗な放物線を描いて空中へと舞い上がったのだ。
「ガラアアッ!?」
ボアロード自身、何が起きたのか理解できていないような間抜けな悲鳴を上げながら、空中で一回転。そのまま一真の頭上を遥かに越えて、数十メートル先の樹林帯へと一直線に叩きつけられた。
バッシャーン! バリバリバリッ!
樹齢数十年はあろうかという大木を何本も豪快になぎ倒し、激しい地響きとともに大量の泥土と枝葉を巻き上げて落着するボアロード。ピクピクと四肢を空中で痙攣させ、二度と起き上がってくる気配はない。完全なる一発ノックアウトだった。
静寂が、再び草原を包み込む。
風がそよと吹き、なぎ倒された草が揺れる音だけが静かに響いていた。
「………………」
まひるは開いた口が塞がらないまま、父親の背中を呆然と凝視していた。
「………………」
一真はゆっくりと構えを解くと、迷彩服の肩についたホコリをポンポンと手で払った。呼吸一つ乱れておらず、汗すら一滴もかいていない。
「パパ?」
「はい」
「……異世界補正、入ってなくない?」
「うむ。身体の軽さは地球と変わらん。たぶん素だな」
「え、魔法とかステータス画面とか、そういうチート能力で投げたわけじゃないの?」
「長年の過酷な訓練と、毎朝の筋トレのたまものだ。相手の突進力をそのまま利用した片手投げの応用だな」
一真は何でもないことのように言ってのけたが、まひるは頭を抱えて天を仰いだ。
「いやそれもう、異世界いらないレベルの人材じゃん!! 人間側の仕様が完全にバグってるんだよ!」
娘の絶叫に近いツッコミが草原にこだました、その時だった。
「ひっ……た、たたた助けてくださいっ!!」
すぐ近くの丈の高い草むらから、情けない悲鳴とともに、一人の人物が転がり出てきた。
ダブダブとした紺色のローブを羽織った、華奢な少年だった。
柔らかそうな栗色の髪に、落ち葉や小枝がたくさんついている。くりくりとした大きな瞳は涙目で潤んでおり、腰には一応小さな短剣を下げているものの、戦いとは無縁そうな華奢な雰囲気を全身から漂わせている。年齢はまひるより少し下、十四、五歳といったところか。
「お、お二人……すごいです! あのボアロードを……素手で……一撃で……!」
少年はガクガクと震える足で立ち上がると、信じられないものを見る目で一真を見上げた。
「いや、俺のは正確には素手というより、相手の慣性を利用した片手投げだな」
「パパ、いちいち細かいミリタリー的自己補正をしなくていいから。男の子が引いてるでしょ」
「あ、すみません! 自己紹介が遅れました!」
少年は慌ててペコリと深々と頭を下げた。
「ぼくはエルノ・クルーアと申します! ここから北にある『学都レルファリア』の見習い魔導士です!」
「学都? 魔導士?」
まひるが耳をピクリと動かした。ファンタジー小説やゲームでしか聞いたことのない固有名詞が、一気に現実味を帯びて飛び出してきたのだ。
「はい! この街道沿いは最近、魔物の活性化が進んでいてすごく危険なんです。ぼく、薬草の採取に夢中になって採取隊からはぐれてしまって……そこにあのボアロードが出くわして、もうダメだと思って……!」
エルノ少年は胸を押さえ、ほっと安堵の息を漏らした。青ざめていた顔色に、ようやく血色が戻ってくる。
「なるほど。状況は把握した」
一真は顎に手を当て、自衛官らしい厳格な表情で深く頷いた。
「つまり、迷子になり敵遭遇地域で孤立した、遭難中の子供だな」
「いや、パパ。『見習い』って言ってるしローブ着てるんだから、多分学生さんだよ。迷子扱いは失礼でしょ」
「理由はどうあれ、保護者不在の未成年が危険地帯に単身で存在しているという事実に変わりはない。……防衛および人道上の観点から、即時保護すべき対象だな」
妙に公務員的というか、警察や自衛隊の現場介入プロトコルのような言い回しで頷く父親。まひるは半目になりながら呆れ顔で見つめた。
「まあ、頼りになるのは確かだからいいけど……。それでエルノくん、その『学都』ってのはどこにあるの? せっかく言葉が通じる人に会えたんだし、人が集まってる町があるなら、まずはそこに行きたいんだけど」
「あ、はい! 学都レルファリアはこの街道を北にまっすぐ行ったところにあります! ぼくの足だと歩いて半日ほどかかりますが……あ! ほら、見てください! あれです!」
エルノが指さした街道の先――遠くの地平線から、激しい土煙が上がっていた。
ガラガラガラッ! ドタドタドタッ!
猛スピードでこちらへ走ってくるのは、頑丈そうな木製の荷馬車だった。
だが、その様子は明らかに異常だった。御者台に乗った男が必死に手綱を振るって叫んでおり、馬車を引く二頭の馬は口から白い泡を吹き、目を血走らせて完全な暴走状態に陥っている。
「あっ、商隊の馬車だ! たぶん、さっきのボアロードの群れか別の魔物に襲われて逃げてきたんだと思います! あのスピードじゃ止まれませんよ!?」
エルノが焦った声を上げる。
「よし、行くぞまひる」
一真は迷彩服の帯革の位置をキュッと締め直すと、足裏でしっかりと地面を踏みしめた。
「行くぞって……パパ、乗せてくれる保証なんてないよ!? あんな暴走してる馬車、どうやって乗るの!?」
「乗せてくれないなら、俺が走って並走し、馬のハミを取って力ずくで止めるまでだ」
一真は爽やかな笑顔で、一切の迷いもなく言い放った。
「やっぱチートやん!! 人間ブレーキになろうとするな!!」
まひるの悲鳴のようなツッコミが秋空に響く中、一真は弾風を切って颯爽と駆け出した。
こうして、東雲父娘は異世界で初めて出会った少年・エルノと共に、未知なる学都レルファリアを目指すこととなった。
世界を越えた二人の冒険はまだ始まったばかりだが、父親はすでに一国の精鋭部隊並みの戦闘力を発揮し、娘はすでに完璧なツッコミ担当としてのポジションを確立していた――。
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