第17話「父、娘の友達にガチ戦闘訓練を始める件」
レグナス王国・魔導学都レルファリアの東区。格式高い住宅街の喧騒からひとつ路地を奥に入った場所に、鬱蒼とした雑木林に囲まれた広大な空き地が存在する。
一見すれば単なる放置された旧時代の演習場跡だが、地面は踏み固められた硬質土で覆われ、周囲には衝撃吸収の魔導結界石が等間隔に配置されている。まさに知る人ぞ知る、極めて実戦的な「非公式訓練場」であった。
その中央で、まひるは額ににじむ冷や汗を拭うことも忘れ、頭を抱えて叫んでいた。
「……パパ、お願いだから本気でやめてよね!? エルミナさんは昨日転校してきたばかりの、ただの私の友達なの! しかも、パパが強引に『お茶でもどうだ』って言ってお菓子で吊って連れてきたんでしょ!?」
まひるの絶叫を、一真は一切の動じる様子もなく受け止めた。
黒のタクティカルパンツに、身体のラインを拾う堅牢なコンバットシャツ。腰には多目的ポーチを下げ、手首にはミリタリー仕様のパラコードブレスを巻いている。その立ち姿は完全に「戦場」のそれだった。
「勘違いするな、まひる。娘の周りに現れた不確定要素……その真価を見極め、危険の芽を事前に詰むのは親としての至上命題だ。何より『怪しい人物には即座に接触し、制圧あるいは味方化の判定を行え』――これが空挺レンジャーの鉄の掟だ」
「そんな物騒な掟ないからね!? 自衛隊の評判を勝手に落とさないで!?」
まひるの悲痛なツッコミが秋の乾いた空気に虚しく響き渡る。
だが、この狂気とも言える状況において、当事者であるはずの少女――エルミナ・グランネリウスの反応は、あまりにも静かだった。
「……」
透き通るような銀髪を風になびかせ、エルミナは一真から手渡された訓練用の粗末な木の棒を片手で保持していた。
年齢に見合わない小さな体躯。だぼついた学園の制服。しかし、その立ち姿には隙というものが微塵も存在しなかった。体幹は完璧に垂直を保ち、重心は両足の裏に均等にかかっている。翡翠色の瞳は光を反射せず、ただ静かに一真の動きだけを追っていた。
「……よろしくお願い、します」
ぽつりと零された言葉。その声には、道場破りが静寂の中で刃を抜くときのような、重く澄んだプレッシャーが宿っていた。
(……なんでやる気満々なの!? エルミナさんも断っていいんだよ!? うちのパパ、見た目はダンディだけど頭の中身は完全にミリタリーゴリラだからね!?)
まひるは胃のあたりがキュッと痛むのを感じながら、数メートル離れた安全圏へと後退するしかなかった。
「――始め」
一真の低く短く切り出された合図と同時に、空気の質感が変質した。
一真の手元から、シュッという鋭い風切り音が生じる。腰のポーチから抜き放たれたのは、重量のバランスを極限まで実戦に近づけた布製の模擬ナイフ。それが一真のしなやかなスナップによって、寸分の狂いもなくエルミナの右肩を穿つ軌道で放たれた。
初速は時速百キロを超える。普通の子供なら反応すらできず、悲鳴を上げる間もなく叩き伏せられる速度。
だが、エルミナは眉ひとつ動かさなかった。
ナイフが彼女の鼻先数十センチに迫った瞬間――ピキン、と大気が乾いた音を立てた。エルミナの周囲数十センチの領域に、目に見えないほど薄く、けれどダイヤモンドよりも強固な《多角形魔導障壁》が瞬間展開される。
衝突。模擬ナイフは障壁の表面で運動エネルギーを完全に死殺され、力なくポロリと地面に落ちた。
「ほう……ノーモーションの局所展開か」
一真の称賛の言葉が終わるより速く、彼の巨体がすでに沈み込んでいた。
低い体勢。地面を擦るような滑らかなステップ。沈み込んだ状態から放たれるのは、相手の足首を狩り、体勢を崩して畳みかける自衛隊徒手格闘の鋭い足払いだ。地擦りのような一撃が、エルミナの華奢な足元を襲う。
しかし――エルミナの身体が、まるで重力を失ったかのようにふわりと浮き上がった。
バックステップではない。足を払われる直前のコンマ数秒、自身の足元だけに超小型の反発術式を発生させ、跳躍の予備動作すら省いて後ろへ滑空したのだ。最小限の移動距離、わずか数ミリの差で一真の脚をかわす。
一真の目が、鋭く細められた。
(視線の動き、間合いの切り方、そして何より攻撃に対する呼吸の合わせ方……。この年齢で……戦闘経験値が、完全に常識の範囲外だぞ)
それは、温室で育てられた学園の優等生の動きではない。数多の生死の境を潜り抜け、反射神経の奥深くに「殺意への対処」を叩き込まれた本物の戦士の挙動だった。
「ならば――空挺レンジャー第二段階。制圧捕縛訓練、開始!」
一真のスイッチが入った。
靴底が硬質土を力強く蹴り上げる。ドン、と砲声のような踏み込み音が轟き、一真の巨体がエルミナの間合いへ一瞬で侵入した。
もはや「子供を相手にした模擬戦」の動きではない。相手の関節を極め、可動域を殺し、一瞬で伏せさせて身動きを封じる――陸上自衛隊が誇る、対テロ・近接格闘(CQC)のガチ中のガチ手技。
「――え、ちょっとパパ!? やりすぎだってば!! 相手は私と同い年の女の子だよ!?」
あまりの威圧感に、見守っていたまひるが思わず悲鳴を上げる。
「これは試験だ、まひる! 戦場において年相応などという言い訳は通用せん! 俺は常に真剣勝負しか受け付けん!」
「だめだこりゃ! 話が通じない!」
一真の太い腕が、蛇のようにしなやかな軌道を描き、エルミナの左肩をしっかりと掴みかけた――その一瞬。
空気が、完全に凍りついた。
キーーン、と耳鳴りのような高周波の駆動音が周囲に響き渡る。大気中に充満していたわずかな魔素が、まるで渦を巻くようにエルミナの全身へと収束していく。彼女の小柄な身体を中心に、空間そのものが軋み声を上げているかのようだった。
「……触れた」
エルミナの翡翠色の瞳が、奥底から不気味なほどの淡い光を放ち始める。
一切の感情を排した、機械のような絶対的な声音。
「……よく、ない」
次の瞬間、爆発が起きた。
火薬の爆発ではない。過剰に圧縮された空間の歪みが、解放された圧力によって弾け跳んだのだ。
ドンッ!! という重低音が鼓膜を打ち、一真が立っていたはずの地面が半径数メートルにわたって蜘蛛の巣状に砕け散る。猛烈な土煙と衝撃波が、まひるの髪を激しく吹き荒らした。
「父さーーーん!?」
まひるは顔を覆いながら叫んだ。いくら自衛官とはいえ、今の衝撃は人間が耐えられる領域を超えている。
「ゴホッ、ゴホッ……! ……ふむ」
土煙がゆっくりと風に流されていく中から、煙に塗れた一真がひょっこりと姿を現した。
コンバットシャツの袖が少し破れ、顔に擦り傷があるものの、その眼光は衰えるどころか爛々と輝いている。
「……フッ。今のは『対衝撃転位術式』か。自身の身体にかかる運動エネルギーと威力を、接触面を通じてそのまま相手の足元の地面へと転移・放出させたな。……まさかこの歳で、文献でしか見たことのない未知の古代魔導技を直撃で喰らうとはな……」
一真は破れた袖口を払うと、凶悪なまでの笑みを口元に浮かべた。
「……興奮してきたぞ」
「興奮しないで!! なんでノーダメージっぽく生きてるの!? っていうか目が完全に怪獣と戦うヒーローのそれになってるから!」
だが、娘の制止など、熱狂の渦中に飛び込んだ二人には届いていなかった。
「……行く」
「来い、エルミナ!」
そこからは、言葉通りの「死闘」だった。
一真の泥臭くも精密極まる格闘術と、エルミナの理論を超越した高密度な魔導術式が交差し、激突する。
地面が跳ね、風が渦を巻き、空気が熱を帯びていく。30分間におよぶ息もつかせぬスパーリング。衝撃波が幾度となく空地を揺らし、最終的には周囲の魔導結界石が限界を迎えてヒビが入るほどの猛攻が繰り広げられた。
――そして、30分後。
すっかり日が傾き、空が茜色から深い紫へとグラデーションを描き始める頃。
ズタボロになった訓練場の土の上に、二人の影が並んで腰を下ろしていた。
一真はシャツのボタンをいくつか外し、汗に濡れた前髪を豪快に上げている。隣に座るエルミナもまた、制服のあちこちに土汚れをつけ、肩を大きく上下させながら荒い息を吐いていた。しかし、その顔つきは二人とも、不思議なほど憑き物が落ちたようにスッキリとしていた。
「……ふぅ。まひる、水」
「はいはい……どうぞ。まったく、二人とも怪我はないの?」
あきれ果てた顔でペットボトルを差し出すまひる。一真はそれを受け取ると豪快に飲み干し、ふうと息を漏らした。
「……パパ。で、どうだったの?」
まひるが少し不安そうに尋ねる。一真は膝に肘をつき、隣の銀髪の少女をじっと見つめた。
「……認めよう。あの娘はただの転校生ではない。『魔導の申し子』だ。そして何より……己の力に溺れず、限界の中で冷静に思考し続ける、真の意味での戦士だ。……まひるの友達として、正式に認可する」
「だからなんで認可制なの……上から目線すぎるでしょ……」
まひるが呆れたように肩をすくめた、その時だった。
「……ありがとう」
ぽつりと、掠れた小さな声が聞こえた。
まひると一真が同時に視線を向けると、エルミナは小さく膝を抱え込み、自分の泥汚れのついた靴先を見つめていた。
「……私に、遠慮せずに向き合ってくれたの……初めてだった」
一真が意外そうに片眉を跳ね上げる。
「今まで……どこに行っても、私の強さを理由に気味悪がられるか、怖がられるか……あるいは『兵器』として使われようとした。……誰も、私の攻撃を真っ向から受け止めてなんてくれなかった」
エルミナの翡翠色の瞳に、夕日の残光が反射して揺れる。
「でも、今日は……普通に戦って、普通に技を返されて、普通に……疲れて。……なんか、すごく、楽しかった」
「楽しかった、か……」
一真は短く呟くと、どこか遠い目をして夜空に浮かび始めた一番星を見上げた。その横顔には、普段の過保護で破天荒な父親の顔ではなく、かつて数々の過酷な現場を生き抜いてきたベテラン兵士としての、深い慈愛と寂寥感が漂っていた。
「……『普通』ってのはな、実はこの世で一番、得難いものなんだよ。それを噛み締められたなら、今日の訓練には意味があった」
――帰り道。
街灯がぽつぽつと灯り始めた住宅街の坂道を、まひるとエルミナは並んで歩いていた。
一真は「夕飯の買い出しがある」と言って、二人の少し後ろを付かず離れずの距離で歩いている(依然として警戒の目は光らせているが、その殺気は完全に消えていた)。
「……私、友達できたの、生まれて初めて」
アスファルトを踏みしめる靴音に混じって、エルミナが小さく口を開いた。
「私も、こんな風に『全力で殴り合って仲良くなる』みたいな少年漫画みたいな経験、初めてだけどね……」
まひるは苦笑しながら、隣を歩く小柄な少女の顔を盗み見た。
相変わらず彼女の表情は劇的に変わるわけではない。しかし、その口元は――ほんのわずかに、けれど力強く、柔らかい弧を描いていた。
「……また、一緒に戦おう」
「戦わなくていいからね!? 友達っていうのはもっと放課後にお喋りしたり、買い物に行ったり、平和に仲良くするものだから!」
「……そう、なの?」
「そうだよ! 次は絶対、普通にケーキでも食べに行こうね!」
「……ん。約束」
街灯の光の下で、二人の小さな影が長く伸び、重なり合っていた。




