第45話 M
何が起きてるの……?
女性の来賓客が包丁を持っていて、九条がその刃先を握っている。
私はただ雅さんとおしゃべりをしていただけ。
『エミリをディナーに誘ったんだ』って恥ずかしそうに言っていて、『お似合いだと思います』って感想を述べて……
「危ないっ!」
九条の声が飛んできて、車椅子の持ち手が私の脇腹に当たった。
九条の手の平から血が流れ出てる。
それがフロアーに広がっていくが、九条は声をあげず、女性から包丁を奪い取った。
「雅、警察を」
「はい」
「みぃ、悪いけど何か拭くものを」
「はい」
騒然となっている会場に、九条は笑顔で言った。
「ちょっとしたトラブルがありましたが、引き続き絵をご鑑賞ください」
私がテーブルにペーパーナプキンを取りに行ったら、エミリがいた。
「大丈夫?」
この状況を『大丈夫』とは私も思っていないのだけど、エミリは見ていられないくらい動揺している。
ペーパーナプキンを持って、九条の血の上に乗っける。
電話をしている雅さんの背中をトントンし、エミリを指さした。
「お手伝いするわ」
知らない女性が片付けを手伝ってくれた。
◆
警察が駆け付け、ギャラリーは混乱した。
九条の計らいで、九条と私と雅さん、犯人の女性は警察署に場所を移すことになった。
「あの女性は知り合いですか?」
「いいえ」
「あなたはあそこで何をしていたんですか?」
「私はアーティストで絵を出展しています。他のアーティストとおしゃべりをしていただけです。あの……九条の怪我は?」
「何針も縫うことにはなるでしょうけど、命に別条はないですよ。それくらい見れば分かるか」
ジョークのつもりだろうか。
ちっとも笑えない。
「君にはもう聞くことはなさそうだから、もう帰ってもいいけど、どうする?他の人を待つ?」
「いいえ。先に戻ります」
総合カウンターに行くと、泣きながらエミリが待っていてくれた。
さっき血を拭くのを手伝ってくれていた女性と一緒に居る。
「エミリ……ごめんね、驚かせちゃって……」
「みいな!ごめんね、大丈夫だった?」
「うん。私はなんとも。あの……エミリは何か知ってるの?」
「私から話をさせてもらうわ。私はエミリの母親、キャシーよ」
「あ。初めまして、みいなです。エミリと大学の同級生で……」
「知ってるわ。よくお話を聞いてるの。よかったら、コーヒーでもどう?」
「はい」
エミリは動かなかった。
「私、もう少しここに居る」
「じゃ、私も一緒に……」
「一人で大丈夫。MIYABIを待つだけだから」
「そっか。じゃ、先に行くね」
◆
香ばしい焙煎豆の匂いに癒される。
手が異様に冷たくて、コーヒーカップを握りしめて温めた。
「驚いたわね」
「はい」
「あの女性は、アナンの母親よ」
「え……」
目の前が一瞬、真っ暗になった。
「MIYABIのかつてのパトロンでもある」
理解が……
「あなたとMIYABIが親し気にしゃべっていたのが気に入らなかったようね」
嘘……
「Mr.KUJYOが間に入ってくれなかったら、あなたが刺されていたでしょうね」
目を瞑った。
吸って、
吐く。
「ショックよね。自分の知らないところで、恨まれたり、守られたり」
コーヒーを口に含んだら、思いの外熱くて驚いた。
「ねえ。大丈夫?」
「え?」
「私も一人の大人として、こんなこと言うの憚られるのだけど……大人って汚いものなのよ。自分の欲求を満たすために手段を選ばないことろがあるわ。あなた達のような、若い子たちには酷だけど、搾取されないように気を付けてねと言うしかないの」
「はい」
「Mr.KUJYOに苦しめられてない?」
「はい。今は。アナンが居てくれるので」
「そう。もし、私に何かできることがあったら遠慮なく言うのよ」
「ありがとうございます」
足に力が入らなくて、タクシーでホテルに戻った。
ギャラリーは閉じられていて、外は真っ暗だ。
アナン、部屋に居てくれるかな……
会いたい。会いたいよ。
ドアにカードを刺して施錠を解除する。
重たい扉を押し開けた。
「アナン?」
返事がない。
エミリに頼んだけど、あんな事になったし、キーは渡せなかったのかも知れない。
何もする気がしなくて、ベッドに腰掛け、窓から外を眺める。
無数の明かりで、街全体がアートだ。
「きれい」
アナンを思いながら、ベッドに横になる。
なんの感情も湧いてないのに、涙が溢れる。
女性の刃物。
九条の血液。
私が刺されていたの?
アナンの母親に?
雅さんと……勘違いで?
アナンに抱きしめて欲しい。
(ガチャ)
扉が開く音がした。
アナン!
起き上がって振り返ると、入ってきたのは九条だった。
「悪かったね。フロントでスペアキーをもらっているんだ。みぃの事が心配でね」
腹が立った。
この人は私のプライベートを1mmだって許さないんだ。
「だからって、勝手に入ってこないで」
九条が片手でリールを回すと、車椅子は回れ右をした。
「縫ったんですか?」
「ああ。見るかい?」
「いいえ」
ここまで一人で来られてのだから、今更、押してあげる必要もないだろう。
だけど、早く出て行って欲しかった。
アナンが来るかもしれないから。
「スペアキー出して」
手を出したら、九条は素直にカードを渡してくれた。
車椅子を押して、ドアを開ける。
目の前にアナンが立っていた。




