第36話 M
まさか、初日に本当にエミリに会えるなんて。
ニューヨークに来るだけでもワクワクが止まらなかったのに……
ここに来て更に胸が高鳴っている。
「みぃ、悪いんだけど、入浴の手伝いをしてくれないか」
「はい」
もちろん九条の部屋はハンデキャップがある人用に出来ている。
エミリは日本に居る時から九条の事を知っているから、手配に抜かりはない。
だけど……どうしたって、この人は私の手を借りることを躊躇わない。
「脱がせてくれないか?」
上半身は自分で脱いだが、下半身の助けが必要なようだ。
「はい」
両腕で腰を支えて、私にズボンを脱がせる。
「悪いが、出てくるまで待ってて欲しい」
「はい」
この人は、本当に『悪い』とは思っていないと思う。
気軽に出てくるように感じるこのワードに私は寒気を覚える。
「みぃ」
バスルームから呼ばれる。
「悪いんだけど、シャンプーが届かなくって」
私の頭上にあるシャンプーホルダーからワンプッシュして、ずぶ濡れの九条の頭に塗りつける。
そのままわしゃわしゃと泡立てる。
「ありがとう。助かるよ」
◆
翌朝、展示会場になるギャラリーに九条と足を運ぶ。
「雅さん、お疲れ様です」
フライトが早くて、先にチェックインしてた雅さんが準備を進めてくださっていた。
「待ってたよ」
私と九条と軽くハグを交わす。
アメリカに来た実感が湧いてきた。
「任せてばかりですまないね」
九条がお礼を言った。
「いいえ。期せずして、昨日は若い男の子が応援に来てくれたんだ」
「へえ。誰だい?」
「アナン?だっけな?」
ドッキン。
胸が高鳴り、童謡を隠せない。
「みいなちゃんのファンだって言ってたな」
アナンがいるの?
頭が混乱して息が乱れる。
「ほうら、興奮しない」
そう言って、雅さんが背中を擦ってくれる。
「すみません。驚いてしまって」
「分かるよ。海外で、自分の名前を知ってくれてる人がいるなんて、興奮して当然だ」
九条の顔は見られない。
雅さんの顔を見上げたら、優しく微笑む理解者がいてくれる気がした。
「ありがとうございます」
大きく吸って、大きく吐いて、息を整える。
「みいなちゃん、安心して。ここに君を狙う敵はいない」
そうだといいのだけど。
ちらっと九条が脳裏に過るが無視する。
「はい」
「信じてないな?俺が嘘をついてるとでも?」
「まさか……」
「九条さん、今日、みいなちゃんをお借りできますか?少し緊張をほぐしに行きたいんですが、若者同士で」
「どうぞ」
九条さんっていくつだったっけ?
ま、何歳でも構わない。九条と離れられる時間が欲しかった。
◆
雅さんが連れて行ってくれたのは、小さなワインバーみたいなところだった。
「私、お酒は……」
「大丈夫だよ。君に飲ませてどうこうしようとは思ってないから」
信じていいのか分からない。
雅さんってそういうところがある。
「とりあえず乾杯しよう」
私の前に置かれたグラスはオレンジジュースのように見える。
「心配しないで。本当にオレンジジュースだよ。アルコールは入ってない」
「はい」
「「乾杯」」
雅さんはメニューを指さしながら、あれこれと頼んでくれた。
目の前にはピザやピンチョスが所狭しと並んでいる。
「あの……」
「なに?」
話しかけといて、何を話せばいいか分からなくなる。
「なんでもないです」
「みいなちゃんって面白いよね」
今まで言われたことが無いから、どう返していいのか分からない。
「そ、うですか?」
「可愛いね。反応が」
「……」
こういう面白くない冗談はやめて欲しい。
私にだって心があるんだよって、言いたい。
「ごめん。無神経だった」
そうですね。
反省してるなら許します。
「アナンは知り合い?」
「はい」
「聞きたい?」
ええ。ものすごく。
だけど、そう言えない。
「返事は?」
「聞きたいです」
雅さんは九条さんより話しやすいかも。
「彼にね、みいなちゃんの作品見せたよ」
「え……」
アナンの事を考えながら殴り書きをしたような絵だけど、どう思われたのかな?
「君の絵は力というか熱があるからね、そう話したら納得してくれたよ」
「……そうですか」
「見せない方がよかった?」
「いいえ」
いずれ見られるとは覚悟していた。
ただ、今日とは思っていなかっただけの事。
「感動してたと思うよ」
「感動……ですか?」
「ああ。感銘とも言えるかな。彼はみいなちゃんの絵から何かを感じ取ったらしい。彼は昔からみいなちゃんのファンなのかな?」
「昔からってほどじゃ……知り合ったのは3年くらい前で、日本で……」
「そうか。日本で知り合ったんだね」
「はい」
パクパクとピンチョスを口に入れる。
アナンの事を聞かれるのは、自分の事より恥ずかしいかも知れない。
「気を悪くしないで欲しいんだけど」
「はい?」
「みいなちゃんは九条さんとは……その……」
一気に体に重力がかかったみたいに動けなくなる。
「ただの、保護者じゃないよな?」
い、息が……
「ごめん、ごめん。大丈夫。大丈夫だから」
雅さんが背中を擦ってくれて、呼吸を取り戻す。
「どうしてそう思うんですか?」
やっとの思いで言葉を繋いだ。
「経験者だからさ」
「え?」
「たぶん、同じ思いを俺もしてる」
雅さんから視線を外せない。
「だから、君を放っておけないんだ」




