第29話 M
「みぃ、今日の準備はどうだった?」
「問題ありませんでした。明日はギャラリーの主催者さんの車で送ってもらいます」
「雅か……私が送って行こうか?」
「結構です。おやすみなさい」
この人は、今でもこんな事で嫉妬するのか。
高校を卒業し、美大に入学した時から、母の従弟というこの男と生活を始めた。
シングルマザーの母や学校の先生に反対されていた美大への進学を応援してくれた大人で、私の絵を『才能がある』と言ってくれた唯一の人物だ。
大学3年生の6月のある日、アナンが突然アメリカに行ってしまった。
私がそれまでの九条との関係を清算したくて逃げ込んでいたアナンの家で、この人は包丁で自分のお腹を刺し、死に損なった。
あのまま目を覚まさないでいてくれたらよかったのに、と思わずにはいられない。
◆
時間通りに雅さんは来てくれた。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「おはよう、みいなちゃん。ちょっと、コンビニに寄ってもいいですか?」
「はい」
雅さんがブラックコーヒーを、私はカフェラテを買った。
「九条さん、怒ってなかった?」
「え?」
「昨日、遅くなったから」
「いいえ」
九条は基本は私のプロデューサーという名目で、絵を市場に出す事を専門にしている。
どんなに描いても、人目に触れなければ絵は売れない。
雅さんもまた、九条のコネを利用する一人なのだ。
「ギャラリー来るって?」
「はい。明日と明後日」
金・土・日の3日間で開催される今回のイベントだが、初日の今日はおそらく来客は少ないだろう。
「さあ、着いた」
雅さんが私をエントランスで降ろしてくれて、先に自動ドアを抜けた。
「みいなさん!昨日はごめんなさい!」
ダッシュで駆け寄ってきた涼くんが、ぶんっと頭を下げた。
ごちんこしそうになって、咄嗟にのけ反る。
「あ、ううん。平気。涼くんは大丈夫?」
「俺、なんかすげー浮かれちゃってて、ホントすんませんっした!」
「全然。気にしなくていいから」
「でも、まじ……いつもはあんなんじゃないっすよ、俺、今回の出展、超楽しみにしてたから、つい」
なかなか解放してくれない涼くんに困っていたら、肩をくいっと引っ張られた。
「みいなちゃんが甘やかすからですよ」
「え?」
「そうやって、すぐに許しちゃうからつけあがるんです」
「ひど!雅さん、それって、俺じゃなくてみいなさんディスってますよね?」
「両方だよ。謝れば許されるって思ってる方も、謝られたらすぐに許しちゃう方も、どっちも問題」
「「……」」
涼くんと目が合って、いたずらが見つかって怒られた子どもみたいな気分になった。
「ふふふ」
「みいなさん、そこ笑うとこじゃないっす!」
慌てる涼くんも、睨みつける雅さんも面白かった。
◆
思ってた通り、来場者はまばらで、それでもわざわざ初日に足を運んでくださった方は熱心に絵を見てくださった。
「みいな」
中年の女性に声をかけられる。
「先生。お久しぶりです」
大学で油絵の講師をしてくださっていた。
毎月、提出しなければならなかった課題には苦労はしたけど、今思うといい経験だった。
「立派になられたわね。度々、あなたの名前を耳にするわ」
「そうですか?ちっとも成長した気がしませんが」
「あなたには九条さんがついてらっしゃるものね。思う存分、絵に集中できる環境というのは誰にでも与えられるものではないのよ。感謝しなくちゃね」
私の処女も、尊厳も、生活力も、全てを奪ったあの人に感謝の念は浮かばない。
挙句の果てに、アナンをアメリカに行かせる手伝いまでして……絶対に許せない。
「九条さんは元気にされてるの?」
「はい。明日は来ると聞いてます」
「そう。じゃ、また改めて伺おうかしら」
先生は隣で展示している涼くんに話しかけに行った。
「素敵な絵ですね」
初老の男性に声をかけられる。
「ありがとうございます」
まじまじと絵を見られると、裸になったみたいな恥ずかしさを覚える。
「この真ん中の絵を頂こうかな」
「え?」
「もう売却済みだったかな?」
「いえ」
九条の指示で、15万円の値を付けている。
まさか、本当に買ってくれる人がいるなんて。
「みいなちゃん、あちらのテーブルにお連れして」
呆然としてる私に、雅さんが声を掛けてくれた。
「失礼しました。どうぞ、こちらへ」
いつもは九条が販売の手続きをして、私はぼーっと立っているだけだったから、ここから先は未知の世界だ。
ギャラリー側が手配してくれている、配送先の手続きや支払い方法などを初めて見た。
「あの……ありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ。あんなに素敵な絵を譲って頂き、どうもありがとう」
全身に鳥肌が立った。
嬉しくて、ジャンプしそう。
「おめでとう」
そう言って、雅さんが私の頭をぽんぽんと叩いた。
「ありがとうございます」
笑顔で答えた。
◆
生活感のない、無機質な部屋。
展示スペースともして使っている九条のマンション。
「お帰り、みぃ」
「ただいま」
「お腹は?」
「空いてません」
冷蔵庫から水のペットボトルを取って部屋に入る。
かつては九条が勝手に入ってきて、体を求められたりもしたが、今はその心配はない。
自殺未遂から目を覚ました九条はいま、下半身不随で性機能が失われている。




