第25話 M
「ここで降ろしてください」
「いや、家に帰るんだ」
「嫌です!」
車が停車しきる前に、シートベルトを外し、ドアを開けた。
けたたましいアラート音と同時に、車が急停車した。
「何してるんだ!危ないだろ!」
「ここで降りるって言ったでしょ!」
アナンのアパートを駆け上がる。
中に入って、急いで鍵を閉める。
最悪だ……人生最悪の事が起きた……泣きながらアナンのベッドに倒れ込む。
「みぃ」
びっくりして起き上がると、あの男が部屋に入ってきてた。
「どうして!」
「鍵ならもらっている。ここを処分するのも引き受けたんでね」
頭に血がのぼる。
「最低!大っ嫌い!あんたなんか、死んじゃえばいいのに!」
殺してやりたい気持ちはあるのに、実際の私は泣くことしか出来ない。
「みぃ」
この男の、べっとりとした嫌いな手が伸びてくる。
「やめて!」
「駄々をこねるんじゃない」
枕を抱えて蹲る私の上に、男の体重がのしかかる。
「やっ!」
抜け出してキッチンへ行く。
咄嗟に手に取ったキッチンバサミの刃先を向ける。
殺してやりたい。殺してやりたい。
怒りで視界が狭くなるのに、どこか冷静に、これで人は殺せない事が分かっている。
もういい。
生きててもいい事なんて一つもない。
九条を殺すんじゃなくて、私が死のう。
お腹を刺しても死ねなさそうだけど、目から頭を貫けばいけそう……
刃先を自分の顔に向けて、目を瞑った。
「おぅっ……」
呻き声と同時に、どさっと何かが落ちた音がした。
◆
倒れた男の下から赤い血溜まりが広がってくる。
なにが起きたの?
動かない男を見下ろしながら、死んでくれたらいいのに、と思った。
男を跨いで玄関に行く。
震える手でドアノブを捻る。
……
……
……
玄関から出られず、スマホを耳に当てる。
「火事ですか?救急ですか?」
「救急です」
「住所は分かりますか?」
◆
電話の向こうから、脈があるが確認しろとか、心臓マッサージはできるかとか、いろいろ言われたけど『できない』と答えた。
玄関にしゃがみ込んだまま、何分くらいそうしていただろう、救急隊がやって来て、手際よく男を搬送した。
「少しお話を聞かせてもらえますか?」
救急車しか呼んでないのに、パトカーも来ていた。
「あなたはあの被害者と一緒にこの部屋にいたんですか?」
「はい」
「どういったご関係ですか?」
「遠い親戚です」
「ここはあなたの家ですか?」
「いいえ。彼の家です」
「あの被害者ですか?」
「いいえ!あの人は親戚の人です!私の彼じゃありません!」
どうして、みんなして、あの人を私の恋人にしたがるの!
腹が立つ!
「まあまあ、落ち着いてください」
「何をしていたんですか?」
「襲われそうになりました」
「それで刺したんですか?」
まるで私が加害者みたい。
「いいえ。勝手に倒れていました」
「自殺しようとしたと?」
「知りません。見てません」
「どうして見ていなかったんですか?」
「目を瞑っていたので」
自殺をしようとしたのは私の方だし。
被害者は私なのに。
何度も何度も同じことを聞かれ、住所を聞かれたので、九条の家を答え、そこまでパトカーで送ってもらった。
死んでくれたらいいのに。
心からそう願った。
◆
あれから一週間が経った。
その間、私はずっと眠くて、寝ても寝ても、まだ寝れた。
九条は3日前に目を覚まし、一件は事故として処理され、私はそれを警察からの電話で知った。
久々に外に出てみる。
日差しが目を突き刺して、ツンと痛かった。
アナンがいたコンビニに寄ってカフェラテを買い、飲みながらアパートに向かった。
ミニバンが停まっていて、それが清掃会社のものだと気付くのに数秒かかった。
繋ぎを着た人達がバケツやホースを持って階段を上り下りしている。
何も無かったアナンの部屋に広がった血液……
思い出したくなかった。
「あ、すいません。こっち確認してもらっていいですか?」
清掃会社のスタッフに呼び止められたおばあさんが、面倒くさそうに振り返った。
「もう、勝手にやって頂戴。まったく迷惑なことだよぉ。外人になんて貸すんじゃなかった」
大家さんなのだろう。
外にある郵便受けに溜まったチラシを捨てていた。
「なんなのよぉ、もう」
大家さんは怒りながら、何かを取り出し、ポイっと投げ捨てた。
カチャッ
「すいません。やっぱりこっち確認してもらえないですかねー?」
再び清掃会社の人に呼ばれ、大家さんはよたよたと階段を登って行った。
大家さんの捨てた物を見に行く。
アナンの郵便受けに入ってた物……
胸がぎゅっと締め付けられ、涙が込み上げてくる。
『自由の女神』と『てんとう虫』のマグネット。
アナンが私に残してくれた唯一のプレゼント。
アナンに会いたい。
アナンに会いたい。
『前編』 完




