第22話 A
通帳を持ってママの家に来た。
借金を作りたくない。
チャイムを鳴らすと、「入って」とインターホンで返ってきた。
鍵は開いていた。
「ママ、あのさ、この前の税金の事だけど」
「それがどうかしたの?」
嫌々、通帳を差し出す。
「これを使って」
ママが通帳を開いて、目を丸くした。
「こんなに貯めてたのね。何のために?」
そんなのママから逃げるためだけど。
「将来の何かの役に立つかなって……」
「賢明ね。こうやって、自分のミスをカバーできたんだもの。立派だわ」
そう言って、通帳を投げ捨てた。
「こっちにいらっしゃい」
そのオーダーには応えたくない。
「何してるの、早く」
苛立つママに近付きたくない。心の底から嫌いなんだ。
「さっさとしなさい!」
ボクは思考回路を切るしかなかった。
◆
痛い体を引きずって家に帰る。
今日は道路工事のバイトに行かないとならない。
寝ているミーナを起こさないようにそっとドアを開けた。
……つもりだったけど、ミーナが飛び出してきた。
「アナン!」
抱き付かれて、体中に激痛が走る。
「ごめん。痛かった?」
苦痛に歪む顔を見られたかもしれない。
慌てて笑顔を作る。
「ダイジョウブ、モンダイナイ」
「どこ行ってたの?」
「バイト」
「何の?」
「……キックボクシング」
「え?殴られたの?」
「キック」
ミーナは口に手を当てて、息を飲んだ。
「ダイジョウブ」
「うん……」
分かってくれて良かった。
ボクはもう、ミーナに嘘はつきたくない。
こんな無茶な生活はもう続けられない。
こんなのは変えなくちゃならない。
◆
ピンポーン
バイト終わりに、ミーナの家……じゃなかった、九条さんの家を訪ねた。
「はい。アナン君?どうした?」
九条さんはすぐに施錠を解除してくれた。
「お願いがあります」
「なんだ?言ってごらん」
「ボクは日本に居られない。外国に行く手助けをしてくれませんか」
「君がそう望むなら、私はなんでもするよ。どこに行きたいんだ?」
「正直、どこでもいいです。でも、言葉の問題があるので、アメリカが第一候補です」
「いいだろう」
九条さんは、ボクのパスポートの有効期限を確認したいと言った。
「家に帰らないと分かりません」
「今から一緒に行けるか?できれば私達だけで」
「はい。ミーナは大学に行ってる時間なのでいないと思います」
ボクは九条さんを部屋に入れた。
パスポートを確認した九条さんは「飛行機のチケットを手配したから、明日の出国までホテルで時間を潰すように」とボクに言った。
「ちょっと待ってください。ミーナにお別れを……」
「駄目だ。みぃが傷つく。そんなの本意じゃないだろう?みぃが悲しむ顔を見たいのか?」
もちろんそうじゃない。ミーナが悲しむ顔を見たいはずがないじゃないか。
「でも、ちゃんとお別れを……」
「駄目だと言ってるだろう?」
九条さんの気が変わってしまっては困る。
ボクは仕方なく、九条さんの言う通りにした。
◆
九条さんが取ってくれたホテルは、ゴージャスだった。
パスポートと一緒に必要なものは持って来るように言われ、そんな物は殆どないとボクは答えた。
「手紙を渡したいです」と懇願したが、断わられた。
「今後、みぃへの連絡の一切を禁止する」と言われてしまい、携帯を奪われた。
どうせ、ボクは日本語が下手だし、書くことはしゃべること以上に苦手だ。でも、出国したという事をミーナが知らなければ、ボクを探してしまうかもしれない。ボクが生きているという事はどうしても知っていて欲しかった。
「九条さん、エミリに手紙を書くのも駄目ですか?」
「ああ……エミリになら……彼女には、私から渡してあげよう」
そう言ってもらえた。
ボクは早速、買い物に行き、レターセットとマグネットを買った。
エミリには本当の事を書いた。
ボクが無知だったから税金のカウントを間違えてしまった事、ママにローンを残したくないから貯金を全部渡した事、もう一人暮らしができない日本でママと一緒に暮らすのは耐えられないという事、九条さんの助けを得てアメリカに行く事……
たくさん書いて、封筒に入れたが、シールはしなかった。
どうせ九条さんは中身を確認するだろうから。
手紙を持って九条さんちに伺った。
途中、ボクの家の郵便受けにマグネットを貼り付けた。
九条さんに見つかればアウトだけど、どうか、ミーナが先に見つけますように。
チャイムを鳴らした。
「入って」
九条さんが開けてくれた。
この人は、ここ数日でとても老けたように感じる。
髭を剃っていないのかもしれない。『らしくない』と思った。
「エミリへの手紙です」
九条さんに託した。
「できるだけ早いうちに渡すよ」
「ありがとうございます」
これから九条さんの車で空港に向かう。
今夜のフライトでサンフランシスコに発つ。
「少しいいかな。君に懺悔したい」
聞き間違いかと思った。
けど、九条さんはボクにコーヒーを淹れて、ソファに座るよう促した。
ミーナのアートが壁一面に飾られていて、ボクはとっても得した気になった。
「これを君にお返しするよ」
そう言って、九条さんはバッグをくれた。
「ミーナが君の為に描いた絵だ」
中を開けてみた。
青く抜けるような絵の具に、二人の人影、そして赤い点が描かれている。
『あの時』だ。
ボクがミーナにとまったレディーバグを空に放した瞬間……
「それ、君たちだろう?」
「はい」
「私も見ていたから分かるよ」
九条さんは立ち上がって窓から外を見た。
「あの日は確か土曜日で、みぃが大学に行くと言って出掛けたんだ。日傘を忘れて出たようだったから、私はまだ間に合うと思って、みぃを追いかけた」
見られてたんだ。
「君がみぃの髪に触れて、空に何かを放った。てんとう虫だったんだな」
「はい」
「あの時、私は初めてみぃの笑顔を見たんだ。愕然としたよ」
言ってることが分からない。
「大学に入って、ここで一緒に暮らすようになって、私たちは深い仲になった。私はみぃにできることは何でもしたし、みぃはその全てを受け取ってくれた。だから……今となっては独りよがりだったと笑うしかないのだけど……その時まで、私は本当に幸せだと思っていたんだ」
九条さんの懺悔……
「ところが、あの日、その絵の光景を目の当たりにして、私は私のみぃを幸せに出来ていないんじゃないかと不安がよぎった。あの時、君に見せた笑顔を、みぃが私に向けてくれたことは一度もないんだ」
「一度もですか?」
「ああ。あの子にとっても、君との出会いは特別だったという事は認めざるを得ない。こうして絵に閉じ込めて、君に贈ろうとしていたくらいだ」
「なぜ九条さんがこれを?」
「恥ずかしいが嫉妬してしまってね。君の手に渡るのが悔しくて、みぃから奪って隠していたんだ」
絵からミーナの気持ちが伝わってきて、ボクのミーナへの想いも溢れてきて、それが涙になって頬を伝った。
ボクはミーナを深くは知らない。でも、どうしようもなく惹かれて、短い時間だったけど一緒に過ごした時間は一生分の幸せに相当する。ボクにミーナとの将来を夢見る資格はないと分かっているけど、もう会えなくなるなんて、体が引き千切られるようだ。
「アナン君、すまない。みぃにはもう二度と会わないで欲しい。この通りだ」
九条さんが頭を下げた。
それがミーナの為なんですよね。
ボクは黙って頷いた。




