第19話 M
鍵は掛かっていなかった。
もしかすると九条さんは私が外泊したことに気が付いてないかもしれない。
そっとドアを引いて、アナンに手招きする。
おずおずと近付く彼の手を取る。
一人じゃ怖い。
一緒にいて。
靴を脱いで上がると、リビングから九条さんが飛び出してきた。
「いったい……!」
アナンを見て驚いている。
「ごめんなさい」
反射で謝る。
悪いと思ってるわけじゃない。
「みぃ……」
その呼び方、死ぬほど嫌い。
「必要なものを取りに来ただけ」
アナンを連れて部屋に行く。
「ちょっと待っててね」
アナンを部屋の入り口に立たせたまま、鞄に服を詰めていく。
「悪かったよ、みぃ。なにもそんな……怒ることないだろ?」
無視して、パウダールームに向かう。
「話をしよう」
手あたり次第、目に付くものをポイポイと放り込む。
「嫌です」
そう言って、アナンの足元に鞄を置く。
一人じゃ持てないから、手伝ってもらう。
あ、そうだ……
九条さんに手を出す。
「8万円、返してください」
「はい?」
「あの絵、売ったんですよね。8万円で」
アナンのところにお世話になるのに、私はお金を持っていない。
九条さんは黙ってリビングに行き、白い封筒を渡してきた。
中身を確認した。
新札が8枚。
アナンを促して、鞄を持って家を出た。
◆
ずっとビクビクしてたから、とても寒く感じる。
アナンがホットコーヒーを入れてくれた。
「ブラック、ダイジョウブ?」
牛乳がないんだと思う。
「うん。ありがとう」
受け取って、マグカップで両手を温める。
あ、そうだ……
アナンに封筒を渡す。
「今はこれしかないんだけど、私もバイト探すから、そしたら……」
封筒を押し返された。
「イラナイ」
「そういうわけにはいかないよ」
もう一度渡そうとしたけど、アナンは両手を後ろに回してしまった。
「アナン、お願い、受け取って」
アナンを追い詰めて後ろの手を取ろうと……
あ、押し倒してしまった。
「ごめん」
アナンの固い体から離れようとした時、アナンの手が私の体を包んだ。
「……」
私の体の力が抜けて、そのままアナンにもたれかかる。
乗っかってたら、重いかな。
でも、心地よくて。
アナンの心音が私の耳にダイレクトに伝わってくる。
アナンもキスとかするのかな。
そっと、上を見た。
アナンと目が合う。
ドキドキがすごい。
顔から火が出そう。
身を寄せて近付く。
もうすぐそこに唇。
いいの、かな……
ゆっくりと触れる。
唇もちょっと固い。
「ふふ」
「ナンデ?」
「え?」
「ナンデ、ワラウ?」
「だって……」
そんなの決まってる。
「I’m happy」
私を抱きしめるアナンの腕が強くなった。
もう一度、唇を合わせる。
アナンの手が私の服の中に入ってくる。
背中を撫でられて、ブラのホックに手がかかり、体が強張った。
九条に何度も触られた汚らわしい体を、アナンに差し出せない。
私みたいな乱れた性生活の……手垢まみれの体を……
「イヤ?」
私の頬を優しく撫でるアナン。
どうしよう……なんて言おう。
「ごめんね、アナン」
「ゴメン、イラナイ、ダイジョウブ」
起き上がって、見つめ合う。
「アナン好き」
精一杯の想いを言葉で伝える。
「ボクモ、ミーナ、スキ」
◆
バイトをしたことが無いから、エミリに相談している。
「なんでまた?」
「もう九条さんのお世話になりたくないの」
「分かんないなー、ディーバの考えてることは」
「もう、その呼び方やめて!」
エミリは明るくて、なんでも話せるけど……そうなの。
エミリには私の考えてることなんて、分かりっこない。
九条さんの事を素敵って言うし、私の事を誤解してる。
「初めてのアルバイトねぇ」
「なんでもいいの。お金を稼ぎたいの」
「ってか、私たちにそんな時間ある?制作、優先じゃない?」
「そうかもだけど……」
もう、九条さんの言いなりにはなりたくないし、せっかく描いた絵も九条さんに献上しなきゃならない。美大に通う意味が分からなくなってきている。そもそも、九条さんが学費の支払いを止めれば、私はここにいられなくなる。それを願っている自分がいる。
◆
スーパーで食材を買う。
アナンの家には何もなかった。
自炊はしないのか、そもそも食べないのか。
質素なアナンの部屋から、生活費を切り詰めていることが分かる。
「でも、ちゃんと食べて欲しいし」
安くなっている野菜や、今日の特売のお肉を買う。
カレーでもするか。
そう言えば、アナンって、どこの国の人なんだろう?
料理をしながら、『カレーの国の人』っぽい気もしてくる。
こんな市販のルーで作ったカレーは、お口に合わないかも。
食べてくれなかったらどうしよう……不安な気持ちになってくる……
「ミーナ」
驚いた。帰ってきたの気付かなかった。
「お帰り、アナン……」
「Uh, smells good」
アナンがいたずらっぽい顔をして、お腹を擦った。
気に入ってくれたっぽい。
「良かった。お腹空いてる?」
「ハイ」
揃いじゃないけど、お皿が2枚あって良かった。
アナンに大きなスプーン、私はティースプーンでカレーを頂く。
「オイシイ!」
「そう?良かった」
アナンはやっぱりカレーが似合う。
「アナンって、なにじん?」
「アメリカジン」
「へえ」
「タイノ、アメリカジン」
「タイ出身なんだ」
「ハイ」
タイカレーは緑とか黄色のイメージ。
「カレー好き?」
「Curry?」
「そう。これ好き?」
「コレ、スキ。コレ、Curry?」
「そうだよ」
「No、チガウ、コレ、Curry、チガウ」
「あははは」
「ナンデ、ワラウ?」
「だって……」
まさかの、そもそもカレーと思ってなかったなんて。
「じゃ、これなに?」
「Stew」
「なるほど。今度から、アナンの前ではこれはシチューって呼ぶね」




