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第16話 M

 アナンは目を合わせてくれなかった。

 自業自得だ。あんなことしたんだもん……

 後悔を通り越して、もう死んでしまいたい。


「みぃ、先に風呂入っておいで。お腹は?」

「空いてない」


 九条さんの隣をすり抜けて浴室に入る。


 どうしてあんなことしてしまったんだろう。

 合意もなく手を握ろうとするなんて……


 どうかしてた?


 ちょっと違う。


 触りたかった。


 そういう事だ。


 私はアナンに、どうしようもなく触りたくなってしまった。

 彼がどんな反応をするかを考えもせずに、体が動いていた。


(バカバカバカバカ)


 湯舟を両手で叩いた。



 ◆



 要らないと言ったつもりだったのに、煮込みうどんが用意されていた。


「少しだけでもお腹に入れたら?」

「はい」


 食べ始めると、良い匂いに釣られてするすると入ってきた。


「今日は勉強になったんじゃないか?」

「はい。とても。いろんな作品が見られて良かったです」

「エミリちゃんの絵もいいね。彼女の性格通り、元気で素直だ」

「そうですね」


 私の絵は陰気で捻くれてる。

 なにせ『未完成』だもの。


「今日は……どうして、アナン君を誘ったんだ?彼は美大生じゃないんだろう?」

「エミリが……誘おうって……絵が好きみたいだし……」

「アナン君は『絵』が好きなんじゃなくて、『みぃの絵』が好きみたいだったけどな」


 九条さんの声色が、少し怒っているような、苛立ちを含んでいるような、嫌な感じになった。


「ごめんなさい」

「どうして謝るんだ?」

「……」


 久しぶりに怖いと思った。

 九条さんが立ち上がって、私に同意を求めてきそうな、暗黙の了解となってしまった体の関係を迫られるような気がした。


「……怒らせてしまったから」

「私をか?」

「はい」


 表情は見てないけど、一瞬、手を握って拳を固くしたのが分かった。


「そんなことはないよ」


 そう言いながら九条さんが立ち上がったから、息を飲んだ。


「みぃの嫌がることはしないよ」


 九条さんは食器をシンクに置いて、部屋に行った。


『みぃの嫌がることはしないよ』九条さんはよく、そう言いながら、私の嫌がることをしてきた。でも、今は違う。信じるとまではいかないけど、前よりは好きになった。



 ◆



「おはよう、エミリ」

「あ。みいな、昨日はありがとうね!」

「ううん。連れてってくれたのは九条さんだから」

「そうだけど。九条さんがみいなを愛してなかったら、お友達まで連れてってはくれないでしょー」

「そうかな」


 複雑な気分になる。

 彼氏ではなく、親戚だけど、『愛されている』という実感はある。

 九条さんは自分のやり方で愛を押し付けてきてたけど、最近変わったから、もう頭がぐちゃぐちゃで整理が追い付かない。


「あのね、エミリ、アナンの連絡先って教えてもらえる?」

「いーよー」


 すんなりとスマホを向けられる。


「え?いいの?」

「アナンにみいなの連絡先を教えてって言われた時は断ったよ?でも、逆なら良くない?」

「いいの、かな」


『なにか問題でも?』という顔のエミリが可愛くて笑ってしまった。


「でた!男のみならず、万人を狂わすみいなの笑顔。滅多に笑わないから、『必殺』って感じがたまらんよね」


 そんなこと初めて言われた。


「赤い顔して、照れた顔も『レア』だわぁ」


 からかわれながら、アナンの連絡先を教えてもらった。


「で?知ってどうすんの?アナンに何の用があるの?」

「あ……」


 深く考えないようにしてたけど、エミリとアナンが付き合ってるなら、私のやってることは許されない。できるだけ自然な言い訳を……


「ま。別に私がしゃしゃり出るところじゃないか。彼氏ってわけじゃないし」

「彼氏じゃないの?」

「みいな……私がアナンと付き合ってるように見える?」

「うん。見えた」

「はあ?ないない。ディーバのくせに、みいなはどこかちょっとズレてるよねー、あ、もしかして、それがディーバの必須条件だったりする?」

「なに言ってんの……ふふふ」


 自分でもアナンに何を送ろうとしてるのか分からない。

 でも、このままは良くないから、何かしなくちゃって。


「ところで、ディーバ……」

「その呼び方やめて」


 共同アトリエで、離れてはいるけど、他にも生徒がいる。


「そのキャンバスは、ちっさくない?」

「あ、うん。いいの。端切れが勿体ないから、作ってみただけ」


 課題の提出には使えない、20~30cmくらいのキャンバスを作ってる。


「誰かにあげるの?」

「うん……まあ……」

「九条さんもまた、みいなに愛されてるってわけかぁ。ごちそうさま!」


 もう、いいや。

 エミリの勘違いは正さないでおこう。



 ◆



 いけない。

 夢中になってしまった。

 時計を見たら18時半だった。


 アナンにプレゼントしたい絵は、もう構図が頭の中にあって、それを表に出す作業は時を忘れるほどに楽しい。


 あの朝、アナンと交わした短い会話。

 抜けるような青く遠い空に放たれた、赤いてんとう虫。

 私の期待、工事現場のアナン、日常の中にあった非日常のひとこま。


「お先に」


 隣でまた、夢中になっているエミリにひっそりと声をかけた。


 スマホを見たら、九条さんからの着信が5件も。

 心配をさせてしまった。


 ルルルルル


「もしもし、みぃ?」

「ごめんなさい。時間忘れて……」

「いいよ。無事なら、いい」


 九条さんの安堵の溜め息が聞こえた。

 小学生じゃないんだし、門限とか、一人で出歩くなとか、過保護だと思う。

 だけど、九条さんの心配は私が事故にあったとか、事件に巻き込まれるとかじゃないことを私は知っている。私が『帰ってこなくなる』ことを恐れているんだよね。




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