十月二十九日 昼 浜の網小屋
「漁村の朝、シーン四十二、いきます。浜の網小屋、照明、あと一分」
財津は、無線に向かって言い切ると、もう次の段取りを頭の中で組み立てていた。
撮影は、物語の順番どおりには進まない。
今朝は、二人が浜で網を繕う場面から撮った。昼前には、ドン・ファンが港を出ていく別れの場面の、桟橋の足元だけを撮る。そのあとで、また浜に戻って、二人が初めて同じ食卓を囲む場面。日の傾き、潮の高さ、漁船の出入り、地元の人々の暮らしの邪魔にならない時間。それを全部、パズルのように組み合わせて、一日に撮れるだけ撮る。物語の時間がばらばらでも、あとで編集が、つじつまを合わせてくれる。
現場は、そのたびに、くるくると姿を変えた。網小屋の照明をばらして、桟橋へ運ぶ。桟橋の撮影が終われば、また網小屋に組み直す。撮影隊は、走り通しだった。
財津は、その真ん中にいた。
漁協の役員に頭を下げ、地元の漁師に船の出入りを確かめ、海外の撮影隊に英語で段取りを伝え、日本人のスタッフに日本語で指示を飛ばす。現地の責任者は、誰よりも走らなければならない。
走りながら、財津は、視線を感じていた。
網小屋の前で、主役がカメラの前に立っている。漁村の若者と並んで、網を繕う芝居をしている。カメラが回っているあいだ、その目は、ちゃんと若者を見ている。
カットの声がかかった瞬間、その目が、こちらを向く。
照明の位置を直しに行く財津を、目で追ってくる。メイクを直されながら、鏡越しに、財津の背中を探してくる。桟橋へ移動するとき、わざと財津の通り道に立ち止まる。取り巻きの誰かが、さりげなく財津に近づいてきて、主役が少し話したいそうです、とささやく。
財津は、全部、無視した。
目が合いそうになれば、無線を口に当てる。通り道に立たれれば、一歩迂回する。取り巻きには、本番中です、とだけ答える。
現場は忙しい。それが、ありがたかった。走り回っていれば、立ち止まらずにすむ。立ち止まらなければ、あの目に、捕まらずにすむ。
身バレは、とうにしている。ゆうべ、セットの影で、名前を呼ばれた。楽屋で、あいつの前で、若い役者を叱った。分かっていないはずがない。
それでも、財津は、キャップを深くかぶり直した。
◇
無視することはできても、見ないことは、できなかった。
現場にいる限り、財津の仕事は、カメラの向こうを見ることだ。立ち位置、光の当たり方、波の具合、背景に映りこむもの。そのすべての真ん中に、あいつがいる。
だから、財津は、一日じゅう、あいつを見続けることになった。
顔が、違った。
頬の線も、鼻筋も、顎の角度も。あの事故のあと、何度も手術を重ねて、作り直された顔だ。完璧に整っていて、どの角度から撮っても、絵になる。財津の知っている、少し鼻の曲がった、笑うと目がなくなる顔は、どこにもなかった。
髪も、違った。
昔は、栗毛だった。洗いざらしの、ふわふわした栗色の髪が、いつも寝癖で跳ねていた。今は、日の光を跳ね返す、作りものの金色だ。
体も、違った。
肩も、胸も、腕も、毎日鍛え上げて、削り出したような体だった。二十年前は、ひょろりと背ばかり高くて、栄養の足りない鶏のようだった。
すっかり、ハリウッドスターになった。
財津は、無線を握ったまま、その姿を見ていた。
うれしかった。本当に、心から、うれしかった。あいつは、成功したのだ。あのボロアパートで夢見ていた場所に、たどり着いたのだ。
そして、自分の判断は、間違っていなかった。
二十年前、二人とも、どん底だった。金もなかった。あいつは事故を起こし、顔を失いかけて、病院のベッドで、明日のことも分からなかった。治療費も払えない。役者としての未来も、消えかけていた。
だから、財津は、事務所の差し出した紙にサインをした。あいつの治療と、あいつの未来と引き換えに、自分は身を引く。それが、あいつのためだった。
一緒に頑張ろう、と約束していた。二人で、てっぺんを取ろう、と。
その約束を、破った。
けれど、そのおかげで、あいつは今、あそこにいる。カメラの前で、世界中が見ている顔をして、立っている。それが、答えだ。財津は、何度も、そう自分に言い聞かせてきた。
網小屋の前で、あいつが、漁村の若者に何か話しかけていた。カメラが回っている。劇中の、恋人どうしの場面だ。若者が笑った。きらきらした目の、事務所の看板役者。昨日、楽屋で、財津が叱りつけた若者だ。
あいつは、あの若者を気に入っているらしい。港でのアドリブも、宿への誘いも、楽屋への忍びこみも、財津は全部、知っている。
妬けないのか、と自分に聞いてみた。
妬けなかった。
あの若者は、恋敵ではない。財津の知っているあいつは、もういないのだ。今のハリウッドスターが、誰を気に入ろうと、誰を連れて帰ろうと、それは、財津の知ったことではない。
そう思うのに、胸の奥が、少しだけ、きしんだ。
二十年前、あいつの世話を焼くのは、本当に楽しかった。
栗毛の、おバカなあいつ。朝は起きられない。靴下は片方しか見つからない。シャツの襟は、いつも曲がっている。オーディションの前の晩は、決まって腹を壊す。財津が、毎朝、襟を直してやり、靴下を探してやり、腹に効く湯を沸かしてやった。
ずっと、一緒にいたかった。
夜は、部屋の真ん中の、狭いベッドで寝た。寒い夜は、あいつを胸に抱えこんで寝た。腕の中で、あいつは、口を半開きにして、情けない顔で眠っていた。その寝顔を見ていると、財津は、なぜだか、ひどく安心した。明日がどうなるか分からなくても、二人でいる限り、大丈夫だと思えた。
財津は、網小屋の前の、金色の髪を見た。
もう、あの寝顔はない。
外見も、経歴も、周りにいる人間も、何もかも違う。たくさんの専門のスタッフにサポートされている。あいつも、てきぱきと指示を出し、手足のように使っているようだ。
今のあいつに、自分は、全く必要ない。
財津は、キャップのつばを、指で押さえた。
「シーン四十三、桟橋に移動。照明、先に行け」
無線に向かって、言い切った。いつもより、少しだけ、声が大きかった。
◇
昼の休憩は、十五分だけだった。
撮影隊が、浜のテントで弁当をかきこんでいる。財津は、弁当には手をつけず、桟橋の端に立って、午後の段取り表をにらんでいた。
「マサくん」
のんびりした声がした。
三つ揃えにハンチングの会長が、いつのまにか、隣に立っていた。にこにこしながら、ポケットから飴を一つ取り出して、財津の手のひらに、ちょこんと載せた。
「食べてないでしょう」
「……飴は、食事じゃありません」
「うん、うん」
会長は、頷いただけだった。財津は、少し迷ってから、包みを開けて、飴を口に入れた。甘い。肩から、少しだけ、力が抜けた。
会長は、桟橋の向こうの、浜のテントのほうを見ていた。
テントの脇に、ディレクターズチェアが一脚、置いてある。そこに、主役が座っていた。服の係が髪を整え、体の係が日傘を差しかけている。主役は、台本を膝にのせて、目を閉じていた。
会長が、ぽつりと言った。
「彼、眠れてないみたいだね」
財津は、飴を、奥歯で止めた。
そんなはずはない、と思った。あれだけのスターだ。世界中を飛び回って、どこの国でも、いちばんいいホテルの、いちばんいいベッドで寝ている。眠れないはずがない。
財津は、テントの脇の椅子を、あらためて見た。
今朝から、ずっと見ていたはずの顔だった。けれど、会長の言葉を聞いてから見ると、見えるものが、違った。
メイクの下に、隈があった。目の下が、うっすらと、青黒く沈んでいる。上手に隠してあるが、真昼の光の下では、隠しきれていなかった。目を閉じたまま、時々、まぶたが、ぴくりと震える。眠っているのではない。眠ろうとして、眠れないでいる。カメラが回っているあいだは、背筋がまっすぐに伸びていた肩が、今は、椅子の背に、くたりと沈んでいた。
あれは、くたびれ果てた人間の肩だった。
財津の胸の奥で、何かが、ぎゅっと縮んだ。
二十年前、オーディションに落ち続けた冬にも、あいつは、あんなふうに肩を落としていた。けれど、あの頃は、夜になれば眠った。狭いベッドで、財津の腕の中で、口を半開きにして、情けない顔で。
今は、眠れていない。いちばんいいベッドで。
心配だった。ひどく、心配だった。
けれど、財津には、何もできなかった。自分は、身を引いた人間だ。今さら、あいつのそばに行って、眠れないのかと聞く資格は、ない。
「で、マサくんは、どうしたいの」
会長が、のんびりと聞いた。
財津は、答えなかった。口の中で、飴が、小さく溶けていった。
会長は、財津の返事を、待たなかった。うん、うん、と一人で頷くと、ハンチングのつばをちょっと持ち上げて、桟橋をのんびり歩きだした。
浜のテントのほうへ。
財津は、はっとして、その背中を目で追った。
会長は、テントの脇の椅子の前で、足を止めた。体の係が、一歩前に出かけたが、三つ揃えの老人のにこにこした顔を見て、また下がった。
会長は、目を開けた主役に、何か、二言三言、話しかけた。何を話したのかは、桟橋の端からでは、まるで聞こえなかった。主役は、愛想のいい、計算ずくの笑顔で、何か答えた。
会長は、ポケットに手を入れて、飴を一つ取り出した。そして、主役の手のひらに、ちょこんと載せた。
主役は、きょとんとして、手のひらの飴を見下ろした。それから、親切な土地の老人に向ける、型どおりの笑顔で礼を言い、飴を、上着のポケットにしまった。それきり、飴のことも、老人のことも、もう見ていなかった。
会長は、にこにこしたまま、テントの向こうへ歩いていった。
財津は、桟橋の端で、立ち尽くしていた。
会長が、あいつに、何を言ったのか。なぜ、飴を渡したのか。財津には、分からなかった。
休憩の終わりを告げる声が、浜に響いた。
財津は、口の中の、もうほとんど溶けてしまった飴を、ごくりと飲みこんだ。
「午後、いきます。シーン五十、浜の別れ。ドン・ファンが、若者を置いて、船に乗る場面です」
無線に向かって、言い切った。
自分で言った台詞が、耳の奥で、いつまでも鳴っていた。




