十月二十九日 早朝 湯殿
朝の大浴場には、まだ誰もいなかった。
崖の上の宿のいちばん端に、半露天の湯殿がある。屋根は湯船の半分までで、その先は空だ。湯船の縁の向こうには、低い石垣と、植えこみの松と、その下に、どこまでも広がる南の海があった。
東の高台の向こうから、朝日が、斜めに差しこんでいた。湯気が、その光の中を、ゆっくりと横切っていく。潮の匂いがした。崖の下で、波が岩を打つ音がする。どこかで、カモメが一声、鳴いた。
兼田は、湯の中で、膝をさすった。
昨日、畳に、額ごと膝をついた。そのとき、どこかをひねったらしい。四十二歳の膝は、一晩寝ても、まだ鈍く痛んでいた。膝だけではない。腰も、少し重い。
ゆうべも、いつものように、富士男に付き合った。昼間あれだけ喧嘩をして、あれだけ泣いたくせに、布団に入れば、あいつは、いつものあいつだった。終わったあと、兼田は、いつものように、そのまま眠りに落ちた。
だから、朝は、ここに来る。
ゆうべ汗をかいたまま寝た体を、誰もいない湯で、ゆっくりほぐす。富士男がまだ寝ている時間に。それが、兼田の、何年も続けてきた習慣だった。
けれど、今朝は、少しだけ違った。
兼田は、ゆうべの撤収のことを思い出した。
九時の撮影が終わって、照明がひとつずつ落とされていく岸壁を、富士男の台本と衣装を抱えて歩いていた。いつのまにか、真横に、ひげぼうぼうの肥った男が、くっつかんばかりに寄ってきていた。
「事務所の、兼田譲二さん。こんばんは」
ドッチモは、ぼそぼそと言った。
「明日の朝風呂に、主役が来ます。あなたと、話がしたいそうです」
兼田が何か聞き返すより先に、ドッチモは、もう機材の陰に消えていた。どうもありがとうねぇ、という間延びした声だけが、夜の岸壁に残った。
何の話か、兼田には、うすうす見当がついていた。
だから、富士男には、何も言わなかった。言えば、あいつは、浮かれるに決まっている。
兼田は、湯の中で、もう一度、膝をさすった。
湯殿の入口の戸が、からりと開いた。
◇
入ってきたのは、ハリウッドの王子さまだった。
何ひとつ、身につけていなかった。タオルで前を隠すことさえ、していない。肩にかけた白いタオルが、ただの飾りのように、ぶらさがっているだけだった。
兼田は、思わず、湯の中で、自分の腹に手をやった。
彫刻のような体だった。広い肩、締まった腰、長い脚。四十を過ぎた男の体とは思えない。毎日、誰かに見られるために作っている体だった。それに比べて、湯の中の自分の腹は、波打ち際の岩のように、ぼってりと湯面から盛り上がっている。
王子さまは、兼田のほうには目もくれず、まっすぐ湯船に向かってきた。そして、そのまま、片足を湯に入れようとした。
「(英語で)待って」
兼田の口が、勝手に動いた。
王子さまが、片足を上げたまま、止まった。初めて、兼田のほうを見た。
「(英語で)先に、かけ湯を。体に、湯をかけてから入るんです」
言ってから、兼田は、しまった、と思った。昨日、この男の帯の端に、額を擦りつけたばかりだった。その相手に、作法を教えている。富士男に、パンツを履けと言うのと、同じ口ぶりで。
王子さまは、眉を少し上げた。それから、意外なほど素直に、湯船の縁の桶を手に取った。湯をくんで、肩から、ざばりとかぶった。
「(英語で)……少し、熱いな」
王子さまは、そう言って、湯の中に体を沈めた。兼田から、ちょうど二人分ほど離れた場所だった。
それから、湯船の縁の向こうを見た。
南の海が、朝日を受けて、一面に光っていた。東から斜めに差す光が、波頭のひとつひとつを、白く縁取っている。崖の下の岩に、波が砕けるたびに、細かなしぶきが、光の粒になって散った。
王子さまは、しばらく、何も言わなかった。
それから、小さく、ため息のような声をもらした。
「(英語で)……すごいな」
港で、カメラに向けて演じていた声ではなかった。誰にも聞かせるつもりのない、素の声だった。王子さまは、湯の縁に両腕をかけて、子どものように、朝の海に見入っていた。
兼田も、同じ海を見た。
毎朝、見ている景色だった。きれいだとは、思っている。けれど、今朝は、少しも頭に入ってこなかった。いつ、本題が始まるのか。兼田は、湯の中で、肩をこわばらせて、その時を待っていた。
同じ景色を、二人の男が、並んで見ていた。一人はうっとりと、一人は身構えて。
ふと、兼田は、王子さまの横顔に、目を留めた。
メイクを落とした素顔だった。港でも、楽屋でも、見たことのない顔だった。朝日が、斜めに、その頬を照らしている。
王子さまは、湯の縁に頭をもたせかけて、目を閉じていた。寝不足のこわばりを、湯にほどかせるように、気持ちよさそうに朝湯を楽しんでいる。左の頬骨のあたりに、小さな傷跡があった。
指先ほどの、白っぽい、引きつれた跡。それから、耳の後ろと、髪の生え際に沿って、細い線が、すうっと走っていた。縫った跡のような、細い、細い線だった。
兼田は、目をそらさなかった。
何も、言わなかった。
撮影の怪我だろうか、と思った。アクション映画にも、たくさん出ている人だ。そういうこともあるのだろう。そう思いながら、兼田は、なぜだか、その細い線から、目を離せなかった。
王子さまは、目を閉じたまま、兼田の視線に気づいてもいなかった。気づいたとしても、気にもとめなかっただろう。湯殿の中に、自分以外の人間がいることさえ、忘れているような顔だった。
脱衣所のほうで、戸が、かすかに鳴った。何かの札を、入口に掛けるような、小さな音だった。
◇
本題は、唐突に始まった。
「(英語で)彼を、アメリカに連れて帰りたい」
王子さまは、海を見たまま言った。湯気に紛れるような、小さな声だった。崖の下の波の音と、カモメの声に、半分かき消されそうになる。それでも、兼田には、はっきり聞こえた。
彼、というのが誰のことか、聞き返すまでもなかった。
「(英語で)役者として、向こうで面倒を見る。契約金は、通常の三倍、払おう」
三倍。
兼田の頭の中で、事務所の帳簿の数字が、ぱらぱらとめくれた。小さな事務所だ。富士男一人の稼ぎで、ずいぶん助かっている。その富士男の値段の、三倍。
「(英語で)条件は、一つだけ。日本の事務所とは、手を切ってもらう」
王子さまは、そこで初めて、兼田のほうを向いた。朝日が、素顔の頬の、小さな傷跡を、白く光らせた。
兼田は、湯の中で、こぶしを握った。
前にも、同じことがあった。
何年も前、手塩にかけて育てた役者がいた。ようやく名前が売れ始めた頃、もっと大きな事務所が、その役者を引き抜いていった。契約金を積んで。あっという間だった。兼田の手の中から、するりと抜けていった。
あのとき、兼田は、何もできなかった。
今度は、違う。
兼田は、王子さまの目を見返した。そして、短く、英語で答えた。
「(英語で)あの子は、私が預かっています」
富士男に、聞くまでもなかった。考えるまでもなかった。
王子さまの眉が、ほんの少し、動いた。
「(英語で)彼は、二十五歳だ」
「(英語で)預かっているのは、私です。決めるのも、私です」
言いながら、兼田は、自分の声が、少し上ずっているのに気づいた。かまわなかった。言うべきことを、言っているのだ。あの子を守るのが、自分の仕事だ。十年間、ずっとそうしてきた。
「(英語で)なぜ」
王子さまは、短く聞いた。責めるような口調ではなかった。本当に、分からない、という顔だった。
兼田は、湯の中で、痛む膝を、ぐっと押さえた。
「(英語で)あの子に決めさせたら、何をしでかすか分かりません」
それから、少しだけ、声を落とした。
「(英語で)昨日、ご覧になったでしょう」
台本の外で名前を教えて。宿に連れこんで。客の前で、マネージャーに土下座をさせて。夜中に、楽屋に忍びこんで。一日で、あれだけのことをする子だ。自分で決めさせたら、どこまで行ってしまうか分からない。あの子は、まだ、守ってやらなければならない子なのだ。
王子さまは、黙った。
湯気が、二人のあいだを、ゆっくりと流れていった。東からの朝日が、少しずつ高くなって、湯の面に、光の網目を揺らしていた。
兼田は、王子さまの返事を待った。もっと金額を上げるのか。条件を変えるのか。怒るのか。
王子さまは、一拍、間を置いた。
それから、海のほうに顔を戻して、さらりと言った。
「(英語で)……だったら、本人に聞く」
兼田の喉の奥で、息が止まった。
王子さまは、それ以上、何も言わなかった。湯の中で、ゆっくりと立ち上がった。朝日を浴びた背中から、湯が、きらきらとしたたり落ちた。前を隠しもせずに、湯船の縁をまたぎ、脱衣所のほうへ歩いていった。
兼田は、一人、湯の中に残された。
本人に、聞く。
その言葉の意味を、兼田は、すぐには飲みこめなかった。富士男に、聞く。富士男に、決めさせる。そんなことは、この十年、一度も考えたことがなかった。
湯は、もうずいぶんぬるくなっていた。それなのに、兼田の額には、汗がにじんでいた。
◇
脱衣所の入口には、「清掃中」の札が下がっていた。
籠棚の陰に、ひげぼうぼうの肥った男が、膝を抱えて座りこんでいた。膝の上には、よれよれのトートバッグ。中には、冷えピタシートと、タオルと、畳んだウィンドブレーカー。
湯殿からの湯気が、脱衣所まで流れこんでくる。男の丸い顔は、すっかり曇っていた。男は、ポケットからハンカチを出して、顔を拭いた。拭いたそばから、また曇った。もう一度、拭いた。
湯殿の声は、波の音とカモメの声に、ほとんど紛れていた。人の耳なら、ここまでは届かない。
男は、かく、かく、と頷きながら、一言残らず聞いていた。
「……三倍……手を切れ……預かっているのは、私……決めるのも、私……」
唇だけが、音もなく動いていた。
男の目が、きらきらと光った。トートバッグの口に、そっと手をかけた。
「……交渉決裂……湯船に、沈める……つかみかかる……冷えピタ、何枚かなぁ……」
「(英語で)……だったら、本人に聞く」
湯殿の声が、そこで途切れた。
水音がして、裸足の足音が、こちらへ近づいてきた。
男は、トートバッグの口から、そっと手を離した。
「……こっちは、無しだなぁ」
ぼそりと、つぶやいた。
湯殿の戸が開いて、王子さまが、湯気をまとって脱衣所に出てきた。肩のタオルで、ゆっくりと髪を拭きながら、籠棚の前を、通り過ぎる。籠棚の陰には、目もくれなかった。
通り過ぎざまに、王子さまは、前を向いたまま、英語で言った。
「(英語で)いい湯だった。朝の湯とは、よく見つけたな」
籠棚の陰で、男の丸い顔が、湯気の中で、ぱっとほころんだ。ほめられたのだ。王子さまは、それ以上は振り向かずに、もう一言だけ足した。
「(英語で)聞いていたな。あとで、仕事だ」
籠棚の陰で、男は、宙を見た。
「……本人に、聞く……マネージャーの、頭越し……口説き落とす……アメリカ……」
男の目が、また、ゆっくりと光り始めた。
「……これは、アリ!」
トートバッグの口を、きちんと閉じた。
「……今日は、要らなかった……次は、要るかも……ちょっとだけ、膨らませて……」
男は、籠棚の陰から、音もなく立ち上がった。肥った体のわりに、驚くほど静かな足取りで、脱衣所の入口へ向かい、「清掃中」の札を、そっと外した。
湯殿では、マネージャーが、まだ一人、ぬるくなった湯の中で、海を見ていた。




