十月二十八日 夜更け 楽屋
暖簾の向こうの気配は、すぐに消えた。気のせいだったのかもしれない。
セリムは、鏡の前で、もう一度目を閉じた。
考えるな、と言い聞かせたはずだった。それなのに、まぶたの裏に浮かんでくるのは、セットの影の、あの暗がりだった。キャップのつばの下で、顔だけが、見えなかった。声と、背中と、お辞儀だけが、そこにあった。
昔、あの声で、叱られた。
二十年前、ニューヨークの、ボロアパートの、狭い玄関で。
端役しか回ってこなかった頃だ。あるプロデューサーが、自分だけに、こっそり持ちかけてきた。一晩付き合えば、次の映画で、台詞のある役をやる。切羽詰まって、行くつもりだった。持っている中で一番いいシャツを、引っぱり出して着た。襟の糊が、少し黄ばんでいた。
玄関で、マサに見つかった。これからあのプロデューサーの所に食事に行って、仕事もらってくると。言い訳をした。
マサは、柴犬のように吊り上がった目で、まっすぐ睨みつけながら、自分のシャツの襟を、両手でつかんで、壁に押しつけた。そして、言った。
それで、おまえの将来は。誰が、その責任を取ってくれるんだ。
結局、行かなかった。
行かなかったけれど、自分の思いつきを、頭から全部、否定された。部屋の真ん中の、たった一つのベッドに、壁のほうを向いて、背中を丸めて寝転がった。
しばらくして、ベッドがぎしりと沈んだ。マサが、ベッドの端に腰を下ろしたのだ。それから、何も言わずに、自分と背中合わせに、横になった。大男の尻が、自分の背中を、ぐいぐいと押した。ベッドから押し出されそうになって、膝から下を、床にはみ出させた。マサは、反対側の壁を向いたまま、寝るようだった。
窮屈だった。寒かった。はみ出した足の先が、冷たかった。結局いつものように、どちらともなく抱き合って温めあうしかなかった。マサの胸は暖かかった。
セリムは、鏡の中の自分に、小さく笑いかけた。あの時は、本当に、ひどい暮らしだった。もう、二十年も前の話だ。今さら、あの顔を見たところで、何も変わらない。
暖簾が、すっと割れた。
今度は、気のせいではなかった。
灰色のパーカーのフードを目深にかぶった若者が、楽屋の中へ、猫のように滑りこんできた。階段の上り口に立っていた体の係が、一歩前に出かけた。セリムは、鏡越しに、指を一本立てて止めた。
若者は、フードの奥で、にっと笑った。
「(英語で)撮影の前に、会いたくて」
昼間の、あのなめらかな英語だった。
セリムは、椅子を回して、若者に向き直った。フードの陰から、きらきらした目がのぞいている。港の純朴な漁師でも、宿の座敷の小悪魔でもない、また別の顔だった。叱られるのを承知で、夜の学校に忍びこんだ子どものような顔。
「(英語で)悪い子だ」
セリムがそう言うと、若者は、うれしそうに、もう一歩近づいた。
その時、暖簾が、もう一度、割れた。
今度は、乱暴に。
「(英語で)主役の方、本番三十分前です、十五分前には待機に入ってください。」
作業着の大男だった。紺のキャップを、目深にかぶったまま。
最初に来たのは、匂いだった。
それが、セリムの脳天をぶっ叩いた。
この匂いは、二十年前、毎晩、鼻を押し付けて嗅いでいた匂いだ。ずっと忘れていた記憶が、一息で、全部、戻ってきた。
セリムは、椅子のひじ掛けを、握りしめた。
大男は、楽屋の若者を見つけると、大股で二歩近づき、フードを、ぐいと引き下ろした。ハチマキの跡の残る、乱れた髪があらわになった。
「やべっ」
若者が、日本語で何か言った。セリムには分からなかった。けれど、悪戯を見つかった子どもの声だということは、分かった。
大男は、若者を見据えた。
つばの下から、目が見えた。顔は見えないのに、目だけが、照明の光を拾って、のぞいていた。少し垂れた目尻が、きゅっと吊り上がって、三角になっている。
セリムは、息をのんだ。
あの目だ。二十年前、自分に向けられた目だ。
「(英語で)お前は、事務所の役者だ。今日一日で、何をしたか分かってるのか。台本の外で名前を教えて、宿に連れこんで、マネージャーに土下座をさせて、今度は夜中に、主役の楽屋に忍びこむ。それで、何が手に入ると思った。役か。注目か」
若者は、黙った。
大男は、もう一度、口を開いた。
「And your future? Who's gonna answer for that?」
それで、おまえの将来は。誰が、その責任を取ってくれるんだ。
さっき、鏡の前で、懐かしく思い出したばかりの言葉だった。
まるで、違った。
記憶の中の言葉と、本物は、こんなにも、違うのか。
大男は、言い終えると、若者に向き直ったまま、少し身をかがめた。作業着のつなぎの尻が、セリムの目の前で、ぐっと突き出された。
大きかった。
二十年前より、二回りは大きくなっている。狭いベッドで、背中越しに、自分をぐいぐいと押し出した、あの尻だ。
セリムの手が、勝手に動いた。
その時、大男の手が、動いた。思わず手が止まる。
さっき自分で乱暴に引き下ろしたパーカーのフードを、大男は、若者の首の後ろで、そっと整えた。ねじれた襟ぐりを、指先で直してやった。叱りつけたばかりの相手の身なりを、無意識のうちに、きちんとしてやる手つきだった。
セリムは、その手を、知っていた。二十年前、毎朝、出かける前に、自分のシャツの襟を直してくれた手だった。
伸ばしかけたセリムの手は、行き場を失った。
そして、若者の両肩に、すとんと落とした。
「(英語で)まあまあ」
セリムは、若者の両肩をつかんだまま、二人のあいだに割って入った。
「(英語で)そう怒らないで。僕が、悪い子だと言っておいたから」
軽い口調で言ったつもりだった。声が、少しだけ、かすれた。
大男は、セリムのほうを見なかった。キャップのつばの下で、顔は、やはり見えなかった。三角の目も、もう、つばの影に隠れていた。
「(英語で)失礼しました。本番、三十分前です。十五分前までには待機に入ってください。」
それだけ言って、大男は、暖簾をくぐって出ていった。
気持ちが暖簾の外から戻ってこない。
二十年、待たされて。ようやく会えたと思ったら、顔も見せず、触れさせもせず、匂いだけを置いて、行ってしまった。
若者が、セリムを見上げた。両肩をつかまれたまま、助けてもらった、と、その目が言っていた。
セリムは、若者の肩から、手を離さなかった。
セリムは、目の前の若者を見下ろした。きらきらした目。乱れた髪。自分の手の中にある、温かい肩。
これなら、手に入る。
セリムは、笑ってみせた。いつもの、甘い、計算ずくの笑顔で。
指先が、また、左の頬に伸びかけていた。
◇
漁協の外階段の、踊り場の暗がり。
楽屋の暖簾から、ほんの数歩の場所に、折りたたみの椅子が一脚、広げてあった。その上に、三つ揃えにハンチングの老人が、ちょこんと腰かけている。
椅子の横には、ひげぼうぼうの肥った男が、しゃがみこんでいた。膝の上に、よれよれのトートバッグを抱えている。バッグの口から、冷えピタシートの箱と、タオルと、畳んだウィンドブレーカーの袖が、のぞいていた。
殴り合いになっても、血が出ても、誰かが服を破られても、すぐに手当てができる。そういうものが、ひと揃い、入っていた。
楽屋の中から、低い英語が聞こえ、やがて、静かになった。
暖簾をくぐって、作業着の大男が出てきた。大男は、踊り場の二人には目もくれずに、階段を降りていった。足音が、夜の港へ消えていく。
修羅場には、ならなかった。
ひげの男は、宙を見て、かく、かく、と頷いた。それから、トートバッグの口から飛び出していた冷えピタシートの箱を、そっと中へ押しこんだ。
「……こっちは、無しだなぁ」
ぼそりと、言った。
三つ揃えの老人は、椅子に座ったまま、にこにこしていた。何も言わなかった。代わりに、ベストのポケットから、べっこう色の飴を一つ取り出して、ひげの男の手のひらに、ちょこんと載せた。
ひげの男は、飴を見下ろして、それから老人の顔を見た。
老人は、にこにこしていた。けれど、その目だけは、大男が降りていった階段の暗がりを、じっと見ていた。
◇
やべっ、見つかった。
富士男は、外階段を降りながら、こっそり舌を出した。
楽屋を出たところで、ちょうど、兼田が階段を駆け上がってきたのだ。夜の撮影の台本と衣装を、両腕に抱えて。顔が、真っ赤だった。また、渡り廊下と石段を、走ってきたのだろう。兼田は、富士男を見るなり、ものも言わずに腕をつかんで、引きずるように階段を降り始めた。
「痛いって」
「黙ってろ。もう待機の時間にはいるぞ。」
兼田の手は、汗ばんでいた。
富士男は、引っぱられながら、さっきのことを考えた。
なんで、あんなに怒られたんだろう。
あの作業着の人は、事務所の社長だ。いつもは、現場の段取りに忙しくて、富士男のことなんか、ほとんど見ていない。叱るのは、いつも兼田の役目だ。それなのに、今夜の社長は、まるで、富士男が何か取り返しのつかないことをしようとしているみたいな顔で、フードを引き下ろした。
ちょっと、挨拶しに行っただけなのに。
「でも」
富士男は、口の中で、小さくつぶやいた。
でも、あの人は、僕の味方をしてくれた。
社長が怒鳴りかけたとき、セリムは、椅子から立ち上がって、二人のあいだに手を差し入れてくれた。まあまあ、と言ってくれた。僕が悪い子だと言っておいたから、と、社長をなだめてくれた。
ハリウッドのスターが。世界中が見ている人が。僕を、かばってくれた。
胸の奥が、じんと熱くなった。
兼田に腕を引かれて、夜の港に出ると、照明の白い光の中に、合板の帆船が浮かんでいた。撮影隊が、最後の位置取りに走り回っている。
九時の撮影は、順調に進んだ。
夕方のアドリブに合わせて、ドッチモが書き直した台詞は、驚くほど、よくできていた。港の青年と異国の男の、二度目の出会いの場面。富士男は、また兼田の手を頭に受けて、三分で漁師の青年に戻り、セリムの前に立った。
カメラ越しに見つめ合うあいだ、富士男は、何度か、セリムの目の奥をのぞきこんだ。
あの人は、僕の味方だ。
富士男は、そう思っていた。セリムの目の奥で、別の誰かの背中が揺れていることなど、知るよしもなかった。
◇
運転手兼助手の成瀬が布団に入ったのは、午前一時を回った頃だった。
撮影隊を宿まで送り、機材を下ろし、ハイヤーを洗い、明日の段取りを確かめて、ようやく自分の部屋に戻った。会長の部屋と、兼田さんと富士男さんの部屋と、自分の部屋。三つ並んだ角部屋の、いちばん端だった。
成瀬は、電気を消して、天井を見上げた。
まぶたが、重くなってきた。
その時だった。
壁の向こうから、何かが聞こえてきた。
最初は、何の音か分からなかった。分からないふりをしようとした。けれど、古い旅館の壁は、思っていたより、ずっと薄かった。
え、え、え。
さっきまで、あぎゃん喧嘩しとったとに? あの二人が今…。
成瀬は、布団の中で、石のように固まった。
それが、どうして、こうなるとね。
成瀬は、天井の板の目を、数え始めた。
一、二、三。
壁の向こうが、静かにならない。
十一、十二、十三。
成瀬は、枕を頭の上にかぶった。そば殻の枕が、耳の上で、ざらりと鳴った。それでも、聞こえる。古い旅館の壁は、本当に、薄かった。
もう……なんばしょっとね。
◇
翌朝、本館の食堂で、成瀬は、目の下にくっきりとくまを作って、味噌汁をすすっていた。
向かいの席に、三つ揃えの会長が、にこにこと腰を下ろした。会長の目の下には、くまは一つもなかった。
会長は、焼き魚に箸をつけながら、誰に言うともなく、のんびりと言った。
「仲がいいねえ」
成瀬は、味噌汁を、少しだけ、吹いた。




