十月二十八日 夜 漁協の楽屋
漁協の二階は、ふだんは寄り合いに使う、畳敷きの広間だった。
それが今は、楽屋になっている。長机を壁ぎわに寄せて、鏡を並べ、衣装のラックを持ちこみ、照明部が残りの灯りを一つ、天井から吊るしてある。窓の外は、もう真っ暗だった。夜の撮影は九時から。その前に、地元の代表が、主役に挨拶に来ることになっていた。
財津は、広間の一番後ろに立っていた。
昼間の作業着に、紺のキャップを目深にかぶっている。つばを、いつもより一センチ、深く下ろした。撮影隊の誰も、それには気づかない。
広間の上座、鏡の前の椅子に、白い麻のスーツの男が座っていた。昼間と同じ衣装だった。腰の深紅の帯も、そのままだ。その後ろに、黒い服の取り巻きが四人、壁際に並んでいる。
財津は、そちらを見ないようにした。見ないようにしているのに、目の端に、白いスーツが、ずっと映っていた。
地元の代表が、塊ごとに、順番に広間へ入ってきた。
最初の塊の真ん中に、組合長がいた。昼間、岸壁の人垣の先頭にいた、恰幅のいい男だ。今夜は、白いワイシャツに、ネクタイまで締めている。
その前に、ひょいと割りこんだ男がいた。
「どうも、どうも」
ドッチモだった。「地獄耳」のTシャツに、ぱんぱんのカーゴパンツ。組合長の肩に、なれなれしく手を置いた。
「もう、ボクのこと、知ってるよね。そう、ドッチモ!」
そう言って、ドッチモは、両手の手のひらを顔の横で天井に向け、頭だけをゆらゆらと揺らした。組合長は、苦笑いして、一歩下がった。この一週間で、島の人間は、もう全員、このポーズを見せられているのだろう、と財津は思った。
「今夜は、ボクが通訳しますね」
組合長は、咳払いを一つして、上座のスターに深く頭を下げた。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。皆様のご活躍を、島をあげて歓迎いたします」
型どおりの、立派な挨拶だった。
ドッチモは、かく、かく、と頷いてから、スターのほうに向き直り、英語で訳し始めた。
「(英語で)ようこそ、と言っています。それから、派手に来て、荒らして、さっさと帰るんだろう、とも。合板のセットのペンキが、海に流れないか、心配だそうです。あと、『あとはよろしく』と言って消えたあと、散らかった港を、誰が片付けるのか、とも」
財津は、キャップのつばの下で、目を見開いた。
壁際の取り巻きの一人が、ぶっと吹き出しかけて、慌てて咳でごまかした。
組合長は、きょとんとしていた。自分は、二言ほどしか言っていない。それなのに、通訳は、ずいぶん長々と喋っている。英語は丁寧に訳すと、こんなに長くなるものなのか。組合長は、首をかしげながらも、にこにこと、もう一度頭を下げた。
次の塊が、前に出た。町内会長だった。
「何もない島ですが、どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
ドッチモは、また、かく、かく、と頷いた。
「(英語で)何もない島です、と言っています。本当にそうです。もっと早く教えてくれれば、売店に土産物を並べて、ひと儲けできたのに、と悔しがっています。映画が完成したら、島のみんなで、本土の映画館に観に行くそうです。ロケ地めぐりのツアーも、もう考えているそうです。皆さん、サインを多めにお願いします」
今度は、取り巻きの二人が、肩を震わせた。上座のスターまでが、口の端をかすかに上げた。
財津の背中を、冷や汗が一筋、流れた。
止めるべきだ。今すぐ、ドッチモの首根っこをつかんで、広間の外に放り出すべきだ。財津の頭の中では、もう三回、それをやっていた。
けれど、スターの側が、笑ってしまっている。和やかな空気が、広間に流れている。地元の人たちも、主役の一行が笑顔になったのを見て、ほっとしたように顔をほころばせている。ここで割って入って、訂正したら、どうなるか。和やかな空気は、一瞬で凍りつく。
財津は、動けなかった。
三つ目の塊が、前に出た。漁協の役員だった。目の下に、くっきりとくまを作っている。
「準備は、万端整っております。何なりと、お申し付けください」
「(英語で)準備は万端です、と言っています。一週間前に、ボクたちが来て、あちこち直させたせいで、毎晩、遅くまで残業だったそうです。間に合って、心からほっとしています。もう、何も申し付けないでほしいそうです」
ドッチモは、訳し終えると、役員に向かって、にっこりと笑った。
「ボクのせいだね。ごめんねぇ」
これだけは、日本語だった。役員は、わけが分からないまま、「いえいえ、とんでもない」と頭を下げた。
広間の空気は、すっかり和んでいた。財津だけが、キャップの下で、凍りついていた。
どうして、こいつは、ここまで知っているのか。組合長の心配も、町内会長の皮算用も、役員の残業も。この一週間で、いったい、島じゅうの誰から、何を聞き出したのか。
最後に、撮影隊の日本人スタッフが、並んで挨拶する番になった。財津は、その列の一番端に立った。
スタッフが、順に名乗っていく。英語が話せない者は、頭を下げるだけだ。ドッチモが、そのたびに、短く訳した。
財津の番が来た。
ドッチモが、口を開きかけた。
財津は、それより先に、英語で言った。
「(英語で)日本側の制作責任者を務めます。至らぬ点も多いかと存じますが、撮影が無事に終わるよう、全力を尽くします」
慇懃な、硬い英語だった。わざと、そうした。
ドッチモは、開きかけた口を、そっと閉じた。
財津は、深く頭を下げた。腰から折れて、背中がまっすぐ床と平行になるくらいの、深いお辞儀だった。
頭を下げたまま、財津は、上座からの視線を感じた。
顔を上げたとき、白いスーツの男が、財津のほうを、じっと見ていた。笑みは、消えていた。
◇
お辞儀が、深すぎた。
日本に来るのは、初めてだった。それでも、日本人がよく頭を下げることくらいは、知っている。けれど、あれほど深く、腰から折れて、背中がまっすぐ床と平行になるお辞儀をする男を、セリムは、一人しか知らなかった。
それに、あの英語だ。
慇懃で、硬くて、わざと他人行儀に組み立てた英語。その奥に、ほんのかすかに、ニューヨークの下町の訛りが残っていた。セリム自身が、二十年かけて消してきた訛りだった。
挨拶が終わり、地元の代表たちが、ぞろぞろと階段を降りていく。作業着の大男も、キャップを目深にかぶったまま、その流れに紛れて、広間を出ていった。
セリムは、椅子から立ち上がった。
交渉の係が、何か言いかけた。セリムは、片手を上げて黙らせた。
漁協の外階段を降りると、夜の港だった。
岸壁では、九時からの撮影に向けて、照明が組まれている。合板の帆船のセットが、白い光に照らされて、昼間よりずっと本物らしく、夜の海に浮かんでいた。光が強いぶん、その裏側の影は、真っ黒だった。
作業着の大男は、セットの裏の、その影の中を歩いていた。
セリムは、足を速めた。白いローファーが、濡れた岸壁の石で、少し滑った。
影の中で、セリムは、大男の背中に呼びかけた。
「Masa」
大男の足が、止まった。
振り向かなかった。背中を向けたまま、しばらく、じっとしていた。大きな背中だった。昔より、ずっと大きくなった。肩も、腰も。けれど、その背中の丸め方を、セリムは知っていた。
「Masa。俺だ」
大男が、ゆっくりと、こちらを向いた。
キャップのつばは、深く下ろされたままだった。照明の光は、セットの向こう側から差していて、つばの下は、真っ暗だった。顎のあたりだけが、かすかに見えた。
大男は、キャップを上げなかった。
「(英語で)財津です」
さっきと同じ、慇懃で、硬い英語だった。
「(英語で)日本側の制作責任者の、財津です。主役の方は、楽屋へお戻りください。本番は九時です」
セリムは、何か言い返そうとした。けれど、言葉が出てこなかった。
声は、間違いなかった。お辞儀も、背中も。それなのに、顔だけが、見えない。つばの下の暗がりが、二十年の分だけ、深く見えた。
二十年前、何も言わずに、いなくなった男だった。
セリムが、どん底にいたとき。顔も、明日も、何もかも失いかけていたとき。この男は、自分を売って消えた。本当は、この男に会いに日本に来たのかもしれない。
その男が、今、目の前で、顔を隠している。
「(英語で)失礼します」
大男は、また、深く頭を下げた。そして、背を向けて、セットの影の奥へ歩いていった。
セリムは、追わなかった。
追えなかった、のかもしれない。気がつくと、セリムの指先は、自分の左の頬骨のあたりを、なぞっていた。メイクの下の、小さな傷跡の上を。
セリムは、はっとして、手を下ろした。
誰にも見られていなかった。照明の光は、セットの向こう側で、白々と海を照らしていた。
◇
楽屋に戻ると、取り巻きたちは、それぞれの仕事に散っていた。交渉の係は電話、服の係は白い麻にスチームを当て、噂の係は窓際で誰かとメッセージを打ち合い、体の係は、階段の上り口に立っている。誰も、セリムがどこへ行っていたのか、聞かなかった。聞かないのが、彼らの仕事だった。
セリムは、鏡の前の椅子に座った。
鏡の中に、白いスーツの男がいた。金色の髪。整った眉。目の下は、メイクで、きれいに塗りつぶしてある。その下に、何晩分の寝不足があるのか、セリム自身にも、もう数えられない。
頬の傷跡は、見えなかった。見えないように、隠してある。
セリムは、目を閉じた。
考えるな、と自分に言った。キャップの下の暗がりのことは、考えるな。あれは、ただの日本人スタッフだ。財津という名の、制作責任者だ。そう名乗ったのだから、そうなのだ。
代わりに、セリムは、別のことを考えることにした。
昼間の、あの若者のことを。
浮き桟橋で、迷いなく綱を結んだ手。差し出された、温かい手のひら。匂いで船を当てる遊び。日焼け止めの匂い、ココナッツ。台本にない名前。フィッツ。
それから、宿の座敷。
役から離れると、別人のように輝きだし、籐の椅子の周りを、猫のように、くるくる回りながら、しなを作ってきた。本気の相手は、と聞いてきた。抱き寄せようとしたら、濡れた魚みたいに、するりと腕から抜けていった。
そして、あの土下座だ。
自分のマネージャーに、客の前で、平然と頭を下げさせた。
どれが、本当の顔なのか。セリムには、まだ分からなかった。
分からないから、もっと見ていたくなる。
セリムは、目を開けた。鏡の中の男が、少しだけ、口の端を上げていた。
手元に、置いてみようか。
本国には、セリムの浮き名を数えている連中が、山ほどいる。事務所どうしが選んだ女優と、一年ごとに並んで写真に撮られてきた。そこに、日本の若い男を連れて帰れば、記者たちは大喜びで騒ぎ立てるだろう。
けれど、恋人としてではなく、役者として連れて帰るのなら、話は別だ。日本で見つけた、才能ある若手。ハリウッドに紹介してやる、面倒見のいい大スター。それなら、世間はいくらでもごまかせる。
それに、あの若者は、案外、化けるかもしれない。
港で、カメラの前で、あの綱を結ぶ手を見たとき、セリムは一瞬、本物の漁師を見た気がした。あれは、教えてできることではない。しばらく手元に置いて、面倒を見てやれば、きっと、もっと大きくなる。
旅先で見つけた、珍しいお土産のようなものだ。
セリムは、そう考えて、満足した。
満足した、ことにした。
鏡の中の男の指先が、また、左の頬骨のあたりに伸びかけていた。セリムは、その手を、膝の上に下ろした。
楽屋の外の廊下で、誰かが、足を止める気配がした。
灰色のフードが一瞬、入り口の暖簾の向こうをよぎったような気がした。




