十月二十八日 日没 角部屋
畳の目が、額に食いこんでいた。
兼田は、ゆっくりと顔を上げた。目の前には、もう誰もいない座卓と、そのふちに残った、素足の跡が二つ。さっきまでそこに垂れていた赤い帯の端は、外国の王子さまと一緒に、渡り廊下の向こうへ消えていた。
額が、熱かった。
畳に擦りつけたせいだけではない、と兼田は思った。腹の底から、何かが、じわじわと上がってくる。
何をやっているんだ、俺は。
四十二にもなって。事務所の看板役者の、そのまた付き人みたいに。初対面の外国人の、帯の端に、額を擦りつけて。
いや。違う。
俺は、あいつのマネージャーだ。あいつを、十年守ってきた人間だ。その俺に、あいつは、客の前で土下座させやがった。
兼田は、膝を立てて、立ち上がった。少し出た腹が、またつかえた。かまわなかった。
富士男は、座卓の向こうで、腕を組んで、縁側のほうを向いていた。こちらに背中を向けている。夕日はもう沈みかけて、すだれの向こうの海が、群青から鉛色に変わり始めていた。
今度こそ、きちんと叱る。
兼田は、そう決めた。
部屋の隅に、運転手の成瀬が、茶セットの後ろで正座しているのが、目の端に入った。かまわなかった。
兼田は、英語に切り替えた。
「(英語で)フジオ。何を考えてるんだ」
富士男の背中は、動かなかった。
「(英語で)初日だぞ。相手は主役だ。台本の外で名前を教えて、そのまま宿に連れこんで。撮影隊が、今どんな顔で台本を書き直してると思ってる」
言いながら、兼田は自分の声が、だんだん大きくなっていくのが分かった。止まらなかった。十年分の、何かが、喉の奥から押し出されてくるようだった。
「(英語で)しかも、客の前で、俺に土下座させて。お前は、自分が何をしたか、分かってるのか」
富士男が、ゆっくりと振り向いた。
そして、こめかみに指を当てて、言った。
「頭が痛い」
◇
頭が痛い、と言えば、たいてい兼田は黙る。
十年かけて、富士男が覚えた手だった。熱がある、お腹が痛い、頭が痛い。そう言うと、兼田は叱るのをやめて、薬を探しに行く。冷たいタオルを持ってくる。そういう人だった。
けれど、今日の兼田は、黙らなかった。
「(英語で)ごまかすな」
兼田は、一歩、詰め寄ってきた。汗のにじんだシャツの腹が、目の前に迫ってくる。
富士男は、その腹を見て、なぜだか、急に、むしゃくしゃした。
「スターに見初められたからって、妬かないでよ」
日本語で言った。わざとだった。
「以前ならともかく、今は、みっともない体型のおじさんじゃない」
言ってから、少しだけ、言いすぎたかなと思った。でも、止まらなかった。
兼田の顔が、さっと赤くなった。
「(英語で)お前の好きにさせてやってるのに、何が不満だ」
兼田の英語が、早口になった。
「(英語で)また性懲りもなく、ホイホイ好きになりやがって。そのくせ、こっちは疲れてるっていうのに、夜は寝かしてくれない。いかれてるんだよ、お前は」
富士男は、唇をかんだ。
いかれてる。
そうかもしれない、と思う。自分でも、ときどき、自分を持て余す。体の奥から、何かがあふれてくる。じっとしていられない。誰かに見てほしい。触れてほしい。昼も、夜も。この十年で、背は兼田を追い越し、肩も胸も厚くなった。漁協の裏の三分で、役の中に、すっと入っていけるようになった。今日だって、港で、ハリウッドのスターを、一瞬、本気で笑わせた。
自分は、変わった。大きくなった。それが、自分でも分かる。
それなのに。
「ずっと向こう向いたままで、見ようともしないくせに」
富士男の声が、少し震えた。
「夜だって、背中しか見せないくせに。そのくせ、すごく細かく予定聞いてくるじゃんか。誰と、どこで、何時まで。子どもみたいに」
兼田が、何か言い返そうとした。
富士男は、それより先に、英語で言った。
「You never change.」
兼田の口が、止まった。
あなたは、変わらない。いつまでも、子どもを見る目のままだ。
富士男は、また日本語に戻った。
「出ていきたいわけじゃない」
それは、本当だった。この部屋は、嫌いじゃない。籐の寝椅子も、アイスも、パンツ一枚の暮らしも。兼田のいる暮らしも。
「でも、見てくれない」
目の奥が、熱くなった。
涙が、ひとつぶ、頬を転がり落ちた。
半分は、本物だった。どうせ、この人は変わらない。分かってくれない。そう思うと、胸の底が、すうっと冷たくなる。
もう半分は、知っていた。こうすれば、兼田は、折れる。
◇
ずるい、と兼田は思った。
富士男の頬を、涙がひとつぶ、転がり落ちていく。夕暮れの、すだれ越しの最後の光の中で、それは、ばかみたいにきれいだった。
半分は芝居だ。兼田には分かっている。十年、見てきたのだ。この子は、泣けば自分が折れることを、知っている。
でも、もう半分は、たぶん本物だ。それも、兼田には分かっている。
いかれてる、と、さっき兼田は言った。本当に、そう思う。この子は、まともじゃない。昼は人気者で、夜は手に負えなくて、次から次へと誰かを好きになって、そのたびに捨てられて、それでも懲りない。どこまでも大きくなっていく。十五歳のとき、兼田の胸のあたりまでしかなかった子が、もう、とても兼田の手には負えない。
見てくれない、と、この子は言った。
見ているつもりだった。毎日、毎晩、見ているつもりだった。陽に焼けていないか、寝不足じゃないか、誰と会うのか、何時に帰るのか。
それを、見てくれない、と言う。
兼田には、何がいけないのか、さっぱり分からなかった。分からないまま、口が勝手に動いた。
「……悪かった」
日本語だった。
富士男は、手の甲で、涙をぐいと拭った。それから、ふいと顔をそむけて、部屋の隅の鞄から、パーカーを引っぱり出した。
片腕を通そうとして、袖口がうまく見つからない。裏返った袖の中で、富士男の手が、じたばたともがいた。
兼田は、黙って手を伸ばした。袖口を広げて、富士男の手の先に、差し出した。
富士男は、兼田のほうを見もしなかった。差し出された袖口に、すっと腕を通した。
十年、何百回と繰り返してきた動きだった。どちらも、それをしたことに、気づいてもいなかった。
富士男は、パーカーのフードを、目深にかぶった。顔が、半分隠れた。
そして、襖を開けながら、振り返りもせずに言った。
「椅子、片付けといて」
部屋の隅から、「はい」と、小さな声がした。
富士男の足音が、渡り廊下の向こうへ遠ざかっていく。
兼田は、しばらく、開いたままの襖を見ていた。それから、我に返って、部屋を見回した。夜の撮影の台本と、衣装。あいつは、何も持たずに出ていった。九時からの撮影まで、まだ時間はある。けれど、あいつがどこへ行ったのか、兼田には、なんとなく見当がついた。
兼田は、台本と衣装を抱えて、また、渡り廊下へ飛び出した。
◇
部屋には、成瀬だけが残った。
開いたままの襖から、渡り廊下の冷たい風が入ってくる。すだれの向こうの海は、もうほとんど夜の色だった。
成瀬は、茶セットの後ろから、ゆっくりと立ち上がった。ずっと正座していた足が、じんとしびれていた。
兼田さんの英語は、一言も分からなかった。分かったのは、富士男さんの日本語だけだ。
見ようともしないくせに。
見てくれない。
そうだそうだ、と、成瀬は思った。こんなにきれいな人を、ちゃんと見ないなんて。兼田さんは、ぜいたくだ。
成瀬は、床柱の前の、籐の椅子に手をかけた。
さっきまで、外国の人が、どっかりと座っていた椅子だ。その前は、富士男さんが、普段からパンツ一枚で寝そべっている椅子だ。背もたれを倒して、抱え上げる。籐の網目が、まだ少しだけ、温かかった。
縁側まで運んで、元の場所に、そっと置いた。
それから、座卓を、元の位置に戻した。座卓のふちには、素足の跡が二つ、うっすらと残っていた。成瀬は、布巾で、それを拭いた。
拭きながら、さっきの、パーカーの袖のことを思い出した。
どんなに文句を言いあっても、必ず、二人は一緒にいる。
そこに、自分は、いなかった。
茶セットの後ろで、ずっと正座していたのに。一度も、あの中に入ったことはなかった。
成瀬は、布巾を持ったまま、しばらく、暗くなっていく縁側を見ていた。




