十月二十八日 日暮れ 角部屋
黒いハイヤーが、坂を上っていく。
折れ曲がる坂道を、一度右へ、一度左へ。そのたびに、後部座席の窓に、白いスーツの肩と、ハチマキを巻いた頭が、並んで映った。並んで、というより、くっついて。
兼田は、坂の下で、それを見上げていた。
両手には、紙袋が二つ。中身は、もう空になった衣装の包みと、富士男が脱ぎ捨てていったサンダルだけだ。さっきまで漁協の裏で、富士男の頭に置いていた手のひらには、まだハチマキのタオル地の感触が残っている。
その手で、紙袋の持ち手を、ぎゅっと握りしめた。
ふと、隣に気配を感じた。
見ると、ひげぼうぼうの肥った男が、兼田とまったく同じ角度で、坂の上を見上げていた。「地獄耳」のTシャツの胸が、興奮で大きく上下している。脚本家の、ドッチモだった。
「……すごいね」
ドッチモが、ぼそぼそと言った。兼田に言ったのか、独り言なのか、分からない。
「到着から、十八分。台本の外で、名前を交換して、同じ車で、宿へ。……すごいね」
兼田は、返事をしなかった。眉間に、深いしわが寄るのが、自分でも分かった。ドッチモの眉間には、しわの代わりに、隠しきれない笑みが浮かんでいる。同じ角度で、同じ坂を見上げて、まるで反対の顔をしている二人だった。
後ろで、のんびりした声がした。
「あの子、眠れてないねえ」
三つ揃えにハンチングの会長が、坂ではなく、海のほうを見ていた。さっきスターが上がってきた、浮き桟橋のあたりを。
兼田には、何の話か分からなかった。あの白いスーツの王子さまのどこに、眠れていない顔があったのか。けれど、会長の隣に立つ社長には、分かったらしかった。社長の大きな背中が、一瞬、こわばった。
社長は、会長の言葉には返事をしなかった。代わりに、くるりと向きを変えて、大股でこちらへ歩いてきた。そして、ドッチモの首根っこを、後ろから、むんずとつかんだ。
「書き直せ」
「……え?」
「九時からの撮影の台詞だ。今のアドリブで、名前の段取りが全部狂った。九時までに、アドリブに合わせて書き直せ。現場で、俺が全部見る」
結論から言い切る、いつもの社長の口調だった。けれど、兼田の耳には、どこか必死に聞こえた。台本が少し狂ったくらいで、この人が、こんなに急ぐのを、兼田は見たことがない。
ドッチモは、首根っこをつかまれたまま、宙を見て、かく、かく、と頷いた。その目が、ゆっくりと社長の顔に向いた。社長の顔を、上から下まで、じっくりと眺めた。
「……これは、アリ!」
「何がだ」
「いえ。書き直します。どうもありがとうねぇ」
ドッチモは、ノートパソコンを抱えたまま、社長に引きずられていった。引きずられながらも、首だけは、名残惜しそうに坂の上を振り返っていた。
会長は、にこにこして、二人の後をゆっくり追っていった。
兼田は、一人、坂の下に残された。
もう一度、坂の上を見上げる。黒いハイヤーは、とうに高台の上の旅館の陰に消えていた。
夜の撮影の台本と衣装を、宿に取りに戻らなければならない。富士男の着替えもある。段取りの確認もある。理由は、いくらでもあった。
兼田は、紙袋を抱え直して、石段を駆け上がり始めた。四十二歳の腹が、三段目で、早くも悲鳴を上げた。
◇
「それ、こっちに持ってきて」
富士男が縁側を指さすと、成瀬は、黙って「はい」と言った。
成瀬は、縁側の籐の寝椅子を抱え上げた。昼間、富士男がパンツ一枚で寝そべっていた、あの寝椅子だ。背もたれを起こすと、ひじ掛けのついた、王様の椅子のような形になる。成瀬は、それを畳の上を運んで、床柱の前に、まっすぐ据えた。それから座卓を、少し間をあけて、その前に置き直した。
縁側から見ると、床柱を背にした玉座と、その前の座卓が、舞台のように並んだ。
「どうぞ」
富士男は、英語でそう言って、スターを玉座へ案内した。
スターは、ゆったりと腰を下ろした。白い麻のスーツの膝を組み、ひじ掛けに腕をのせる。腰に巻いた深紅の帯の端が、籐の網目の上に垂れた。どっかりと座ったその姿は、本当に、どこかの国の王子さまのようだった。
成瀬は、部屋の隅に戻って、茶セットの後ろに正座した。
富士男は、座卓の向こうに立ったまま、スターを眺めた。
さっき、港で、この人は素で笑った。台本の外で、僕の返事に。世界中が見ている顔が、僕ひとりのために、崩れた。
そう思うと、胸の奥が、ぞくぞくした。
成瀬が、お茶を淹れた。富士男は、湯呑みを受け取って、自分の手でスターの前に置いた。それから、座卓の周りを、ゆっくり歩き始めた。
「ねえ」
富士男は、縁側から持ってきた芸能雑誌を、スターの目の前に、ひらりとかざした。表紙で、金髪の男が、白い歯を見せて笑っている。その隣に、どこかの女優。
「これ、あなたでしょ」
スターは、表紙をちらりと見て、苦笑いした。
「よく撮れてる」
「隣の人は? 今年の恋人?」
富士男は、スターの背中側へ回りこんだ。籐の背もたれ越しに、耳元でささやく。
「去年の雑誌では、違う人だった。おととしも、違う人。ハリウッドのスターなんて、信じない。毎年、恋人が違うんだもん」
スターは、振り向かなかった。湯呑みを手に取って、ひと口飲んだ。
「それは、事務所が決めた相手だ」
富士男は、反対側から、また正面へ回った。座卓に両手をついて、スターの顔をのぞきこむ。
「じゃあ、本気の相手は?」
スターは、一瞬だけ、黙った。
ほんの一瞬だった。湯呑みを持つ手が、止まった。それから、あの港で見せた、甘い、計算ずくの笑顔に戻って、言った。
「今、目の前にいる」
富士男は、笑った。うまく、かわされた。でも、かわす前の一瞬の沈黙を、富士男は見逃さなかった。
「誓って」
富士男は、雑誌を団扇のようにあおぎながら、また座卓の周りを回った。
「何に?」
「なんでもいい。その、腰のやつにでも」
スターは、腰の深紅の帯に差した、衣装の短剣の柄に、芝居がかった手つきで手を置いた。劇中の異国の男が、そうするように。
「この剣にかけて」
富士男は、くすくす笑った。そして、雑誌を畳の上に放り出すと、座卓を回りこんで、玉座のスターに、ゆっくりと近づいていった。
◇
成瀬には、二人が何を話しているのか、まるで分からなかった。
英語は、さっぱりだ。熊本の工業高校で習ったはずの単語は、東京に出てきた日に、どこかへ置いてきてしまった。分かるのは、富士男さんの声が、いつもより少し高くて、甘いということだけだ。
でも、言葉が分からなくても、目は見えている。
富士男さんが、雑誌を畳に放り出した。そして、玉座の外国の人に、ゆっくり近づいていった。
成瀬は、急須を持ったまま、固まった。
富士男さんは、籐のひじ掛けに片膝をのせて、身を乗り出した。外国の人の頬に、自分の頬を、すっと寄せる。触れるか、触れないか。外国の人が、くすぐったそうに目を細めた。
富士男さんの指が、白いシャツの、二つ開いた襟の奥に、そっと触れた。胸の真ん中を、とん、とん、と、二回。
なんばしょっとね。
急須の注ぎ口から、お茶が一滴、茶托にこぼれた。
外国の人が、動いた。富士男さんの腰に腕を回すと、まるで猫でも抱き上げるように、ひょいと持ち上げて、玉座の、自分の膝の上に引き寄せた。そのまま、抱きすくめようとする。
成瀬の心臓が、跳ねた。
このまま、いかんこつが始まるかもしれない。
だとしたら、自分は、お邪魔なのではないか。でも、出ていけとは言われていない。
どぎゃんしよう。
出て行ったほうが、よかかな。
どぎゃんしよう、どぎゃんしよう。
成瀬が、茶托の上のお茶の一滴を、布巾で拭こうか拭くまいか迷っているうちに、富士男さんは、外国の人の腕の中から、するりと抜けていた。
本当に、するりと、だった。濡れた魚が、網の目から抜け出すみたいに。外国の人の腕が、空をつかんだ。富士男さんは、もう座卓の向こう側で、くすくす笑っていた。
外国の人は、空っぽの腕を見下ろして、それから、声を上げて笑った。悔しそうで、楽しそうな笑い方だった。
成瀬は、止めていた息を、そっと吐いた。
もう……なんばしょっ。
口から出かかったのを、慌てて飲みこんだ。
その時だった。
廊下のほうから、どたどたという足音が、渡り廊下をいくつも越えて、近づいてきた。三段下がって、五段上がる、あの廊下を、誰かが息を切らして走ってくる。
襖が、勢いよく開いた。
「フジオ!」
汗だくの兼田さんが、紙袋を二つ提げて、立っていた。
◇
外国の人が、跳ねた。
さっきまで、玉座にどっかりと座っていた人とは思えない速さだった。籐の椅子から立ち上がるなり、白いローファーを脱ぎ捨てて、素足のまま、目の前の座卓の上に、ひらりと飛び乗った。座卓が、みしりと鳴った。
兼田さんは、紙袋を放り投げて、英語で、何かまくし立てた。
外国の人は、座卓の上に仁王立ちになって、襖の前の兼田さんを見下ろした。そして、腰の赤い帯に差した剣の柄に、さっと手をかけた。
抜こうとした。
抜けなかった。
外国の人は、もう一度、ぐい、と引いた。剣は、鞘ごと、帯にくっついたまま、びくともしなかった。小道具だ、と成瀬は思った。きっと、抜けないように留めてあるのだ。
外国の人は、剣の柄を握ったまま、少し困った顔をした。それでも、座卓の上から降りようとはしなかった。
兼田さんは、襖の前で、口を開けたまま固まっていた。
富士男さんが、ゆっくりと振り向いた。
成瀬は、その顔を見て、ぞくりとした。さっきまで、外国の人の膝の上で、くすくす笑っていた顔ではなかった。きれいで、冷たくて、少しだけ、意地の悪い顔だった。
富士男さんは、日本語で言った。
「マネージャー。お客様の前で、失礼でしょ」
兼田さんの顔が、ひきつった。
「ちゃんと、謝って」
成瀬は、息をのんだ。ここからは、日本語だった。全部、分かってしまう。
兼田さんは、何か言い返そうとした。口が、二度、三度、動いた。けれど、声にはならなかった。兼田さんは、富士男さんの顔を見た。富士男さんは、じっと兼田さんを見返していた。
兼田さんは、座卓の前に進み出て、膝をついた。
座卓の上の、外国の人の腰から、赤い帯の長い端が垂れていた。座卓のふちからこぼれて、畳の上まで、とろりと流れ落ちている。
兼田さんは、その赤い絹の端に向かって、土下座をした。少し出たお腹がつかえて、窮屈そうに背中が丸まった。それでも、兼田さんは、額を、赤い帯の端に、畳ごと、擦りつけた。
部屋が、しんと静まりかえった。
成瀬は、茶セットの後ろで、正座したまま、身じろぎもできなかった。見てはいけないものを見ている、と思った。いつも富士男さんを守っている兼田さんが、富士男さんに言われて、知らない外国の人の、帯の端に、頭を擦りつけている。
外国の人が、座卓の上から、兼田さんを見下ろした。
しばらく、何も言わなかった。それから、短く、何か言った。
「Get up. Your job is to make him shine, not to apologize to me.」
成瀬には、一言も分からなかった。ゲット・アップ、の最初の音だけは、どこかで聞いたことがある気がした。けれど、そのあとは、ただの音の流れだった。
それでも、声の温度だけは、分かった。優しい声ではなかった。怒った声でもなかった。上から、静かに、何かを言い渡す声だった。
兼田さんの背中が、小さく震えた。
外国の人は、座卓から、ひらりと降りた。脱ぎ捨てたローファーを拾い上げ、素足のまま、片手に提げた。赤い帯の端が、兼田さんの額の下から、するりと抜けていった。
外国の人は、富士男さんに、何か一言、英語で言った。それから、成瀬のほうを、ちらりとも見ずに、襖を開けて、廊下へ出ていった。
足音が、渡り廊下の向こうへ、遠ざかっていく。たぶん、自分の離れへ帰ったのだろう。
部屋には、三人が残された。
額を畳につけたままの兼田さん。座卓の向こうで、腕を組んで、そっぽを向いている富士男さん。そして、部屋の隅で、茶セットの後ろに正座している、自分。
二人とも、成瀬のほうを見なかった。
成瀬は、そっと布巾を取って、さっきこぼしたお茶の一滴を、茶托から拭き取った。




