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十月二十八日 夕刻 浮き桟橋

 漁協の建物の裏は、そこだけ切り取ったように静かだった。


 表の岸壁では、撮影隊が最後の位置取りに走り回り、人垣のざわめきが波のように寄せては返している。けれど、魚箱が積み上げられた建物の裏手までは、その声もくぐもってしか届かない。乾いた網と、潮と、古い木の匂いがした。


 兼田は、腕時計に目を落とした。


 隠し持っていた二十分のうち、まだ八分が残っている。そこから、三分を使う。


「フジオ」


 名前を呼ぶと、富士男は、黙って兼田の前に来た。カッパのズボンが、がさりと鳴った。そして、魚箱のあいだの、湿ったコンクリートの上に、ためらいもなく両膝をついた。


 十年前は、ひざまずかなくてもよかった。


 十五歳の富士男は、兼田の胸のあたりまでしか背がなかった。向かい合って立てば、兼田の手は、ちょうどいい高さで、その頭に届いた。いつのまにか背丈が逆転して、富士男がひざまずくようになったのは、何年前からだったろう。兼田は、もう思い出せない。


「目、閉じろ」


 富士男が、目を閉じた。長いまつ毛が、頬に影を落とす。


 兼田は、ハチマキの上から、富士男の頭に両手を置いた。


「お前は、この港で生まれた」


 低い声で、ゆっくりと言う。


「この港から、一度も出たことがない。毎朝、親父の船で沖に出て、昼には網を繕って、夕方には、船が着くのを見てる。それが、お前の一日の全部だ」


 富士男の唇が、かすかに動いた。声にならない声で、兼田の言葉をなぞっている。


「今日、船が来る。外国の男が乗ってる。お前は、生まれて初めて、海の向こうから来た人間を見る。怖くはない。ただ、知りたい。どこから来たのか。海の向こうには、何があるのか」


「……どこから来たのか……海の向こうには……」


 富士男の呟きが、少しずつ大きくなる。兼田の声に、半拍遅れて重なっていく。


「最初の台詞は、舫(もや)い綱を結んでから。手を差し出すのは、綱が結べてからだ。急ぐな。お前にとって、綱を結ぶのは、毎日やってることだ」


「……毎日、やってること……」


 兼田は、もう一度、腕時計を見た。三分。


 手を、離した。


 富士男は、しばらく目を閉じたまま、じっとしていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。


 黒いインナーの袖を、肘の上まで、ぐいとまくり上げる。細いと思っていた腕に、綱を引く男の筋が浮かび上がった。顔を上げる。さっきまで、籐の寝椅子でアイスをねだっていた目の輝きが、どこにもなかった。代わりに、日に焼けた漁村の若者の、少し眩しそうな、まっすぐな目が、そこにあった。


「んじゃ、行ってくっ」


 声まで、違っていた。


 富士男は、兼田のほうを振り返りもせず、表の岸壁へ歩いていった。


 兼田は、その背中を見送ってから、自分の手のひらを見下ろした。ハチマキのタオル地の感触が、まだ残っていた。



    ◇



 小舟が二艘、夕日の中を近づいてくる。


 前の舟の舳先に、白いスーツの男が一人、立っている。腰に巻いた深紅の帯の端が、海風を受けて、旗のようにひるがえっている。後ろの舟には、黒い服の人たちが、舟べりより低く身をかがめて、窮屈そうにうずくまっている。


 岸壁で、誰かの子どもが言った。


「王子さまみたい」



    ◇



 いい港だ、とセリムは思った。


 もちろん、台本の台詞としてではない。画になる、という意味でだ。


 夕日を背負って入っていくと、港の人間の顔が、正面から金色に照らされているのが見える。合板の帆船、古い石の岸壁、漁協の建物、その向こうの坂道と、高台の上の瓦屋根。どれも、よくできた書き割りのようだった。


 後ろの舟には、小さなカメラが一台、積んである。セリムの目線と同じ高さ、同じ角度で、この港を撮っている。セリムが何を見て、どこで目を留めるか。それが、そのまま映画の画になる。


 だから、セリムは、目の動かし方まで演じていた。


 右の人垣から、左の人垣へ。ゆっくり、驚きを含ませて。異国の男が、初めてこの港を見る目で。


 カメラの陰に、事務所がつけた者たちがうずくまっているのも、セリムは知っている。交渉の係。服の係。噂の係。体の係。名前は、たぶん聞いたはずだが、覚えていない。服の係が、波しぶきが白い麻に一滴でもかからないかと、さっきから息を詰めているのが、振り向かなくても分かった。


 小舟の上で、セリムはサングラスを外し、胸ポケットに差した。


 夕日は、まだ低い。目の下の隈(くま)は、メイクで消してある。それでも、この角度で正面から光を受ければ、ほんの少し浮くかもしれない。セリムは、顎を三度だけ上げた。光が、頬骨の上で止まる角度だ。


 それから、人垣の顔を、一つずつ値踏みしていった。


 背伸びをしている子どもたち。腕組みをした、日焼けした漁師。前に出て、帽子を取って頭を下げている、恰幅のいい年配の男。この港の顔役だろう。作業着の群れ。無線を握りしめて立つ、腕章をつけた大男。その横の、場違いな三つ揃えの老人。


 セリムの目は、どの顔にも、同じ長さだけ留まって、また次へ移った。


 小舟が、浮き桟橋に近づく。


 桟橋の上に、若者が一人、待っていた。


 黒いインナーの袖を肘までまくり、紺のカッパのズボンに、長靴。頭にはタオルのハチマキを、少し斜めに巻いている。漕ぎ手が投げた舫い綱を、若者は、片手で、無造作に受け止めた。


 そして、桟橋の杭に、綱を結んだ。


 セリムは、その手つきから、目が離せなくなった。


 速くはない。けれど、迷いがひとつもない。綱をひと巻きし、くぐらせ、引き締める。指が、どこに何があるかを、見なくても知っている。毎朝、何百回と繰り返してきた人間の手だった。


 この若者が役者だということは、もちろん分かっている。段取り表で、写真も見た。それなのに、一瞬、セリムには、本物の漁師が、いつもの仕事をしているようにしか見えなかった。


 綱を結び終えた若者が、顔を上げた。


 そして、小舟の上のセリムに、手を差し出した。


 濡れた桟橋は、白いローファーの革底には滑りやすい。セリムは、その手を取った。思っていたより、温かかった。若者は、力まずに、すっとセリムを桟橋の上へ引き上げた。


 カメラが回っている。


 セリムは、台本どおり、港を見渡した。そして、台本どおりの最初の台詞を言った。


「美しい港だ。ようやく、この目で見られた」



    ◇



 若者は、台本どおりに答えた。


「ようこそ。……あんた、どこから来たんだ」


 少し訛った、ぎこちない英語だった。海の向こうの言葉を、ラジオか何かで覚えただけの、漁村の若者の英語。それも、ちゃんと演じている。


 台本では、ここでセリムが海の向こうの国の名を答え、若者が目を輝かせて、短いやりとりのあと、場面が終わる。段取りは、三十秒ほどだ。


 セリムは、国の名を答えた。若者の目が、台本どおりに輝いた。


 視界の端で、後ろの舟が、桟橋に着いた。事務所がつけた者たちが、さっきまで丸めていた背中を伸ばし、一人ずつ桟橋へ上がってくる。台本の上では、彼らは、異国の男に付き従ってきたお付きの者たちの役でもある。交渉の係。服の係。噂の係。体の係。黒い服の四人が、セリムの背後に、少し距離を置いて並んだ。服の係だけが、白い麻に潮がかかっていないか、まだ目で探していた。


 画の中に、王子さまと、そのお付きの者たちがそろった。


 そこで、セリムは、台本にない一言を足した。


 なぜそうしたのか、自分でもよく分からない。綱を結ぶ手つきが、まだ目に残っていたのかもしれない。この若者が、どこまで役の中にいるのか、確かめてみたくなった。


「この港を、出たことは?」


 若者は、一瞬も迷わなかった。


「うんにゃ」


 それから、少しはにかむように、海のほうへ目をやった。


「でも、船が着くたびに、どこから来たのか、匂いで当てる遊びをしてるよ」


 セリムは、眉を上げた。


 台本の外に出た相手に、役のまま、平然と返してくる。しかも、こちらが思いもしなかった方向から。日本の田舎の若者の役のくせに、面白い受け答えを返す。セリムは、もう一歩、踏みこんでみた。


「僕の船は、何の匂いがした?」


 若者は、セリムのほうに、ほんの少しだけ顔を寄せた。くんくん、と、遠慮のない子どものように、鼻を鳴らした。


 そして、大真面目な顔で言った。


「……知らない国の、日焼け止めの匂い、ココナッツ?」


 セリムは、笑ってしまった。


 計算する前に、声が出ていた。喉の奥から、短く、素の笑いがこぼれた。メイクの下で、頬の筋肉が、勝手に動いた。カメラが回っていることも、どちら側の顔を向けているかも、一瞬、全部どこかへ飛んでいった。


 いけない、とセリムは思った。それから、まあいい、と思い直した。異国の男が、港の若者の言葉に思わず笑う。画としては、悪くない。


 セリムは、笑いの残る顔のまま、若者に聞いた。


「名前は?」


 台本の役名は、日本の名前だった。段取り表に、そう書いてあった。


 若者は、まっすぐセリムを見て、答えた。


「フィッツ」


 日本の名前ではなかった。


 若者は、言い直さなかった。照れもしなかった。漁村しか知らない正直な若者が、海の向こうから来た男に、自分の本当の名前を教えた。ただ、それだけのことのように、そこに立っていた。


 セリムは、その目の奥を、のぞきこんだ。


 純朴な漁師の目だった。けれど、その一番奥に、一瞬だけ、別の誰かが顔を出したような気がした。役でも、芸名でもない、もう一人の誰か。


 その誰かに、セリムは、もう少し会ってみたいと思った。



    ◇



「カット!」


 拡声器の声が、岸壁に響いた。日本語の太い声だった。


 とたんに、港が、ざわっと揺れた。撮影隊の日本人たちが、段取り表をのぞきこみ、無線に何か早口で言い合っている。三十秒のはずの場面が、倍に伸びた。台本にない台詞が、二往復も入った。慌てるのも無理はない。セリムは、そちらには目もくれなかった。


 目の前の若者が、変わっていた。


 カットの声が響いた、その瞬間だった。若者は、ふっと息を吐いた。まくっていた袖を、するすると下ろした。そして顔を上げたとき、さっきまでの、少し眩しそうな漁師の目は、もうどこにもなかった。


 代わりに、そこには、きらきらと光る、ひどく人懐っこい目があった。


 自分がどう見えているかを、隅々まで知っている目だった。


 若者は、一歩、セリムに近づいた。さっき匂いを嗅いだときより、ずっと近く。そして、セリムにだけ聞こえる声で、ささやいた。訛りのない、なめらかな英語だった。


「撮影まで、宿で一休みしません?」


 そして、にっこりと笑った。


 今度の笑顔には、はにかみのかけらもなかった。


 セリムは、一瞬、言葉を失った。


 一分前、綱を結び、匂いで船を当てていた、あの純朴な若者は、どこへ行ったのか。それとも、最初から、こちらが本物だったのか。どちらが本当の顔なのか、セリムには、まるで分からなかった。


 人を値踏みすることにかけては、セリムは誰にも負けないつもりでいた。その値踏みが、一つの顔の前で、二度、外れた。


 背後に控えていた交渉の係が、一歩、近づく気配がした。セリムは、振り向かずに、片手を上げた。あとで、という合図だ。交渉の係は、何か言いかけて、黙った。


 岸壁の向こうから、黒い車が一台、滑るように近づいてきた。磨き上げられた、ハイヤーのような車だった。日本の事務所の車らしい。浮き桟橋のたもとで、ぴたりと止まった。


 運転席には、制服に帽子をかぶった、若い男が座っていた。がっしりとした、背の低そうな男だった。後部座席のドアを開けに、男が降りてきた。セリムと若者に向かって、黙って頭を下げる。


 若者が、日本語で男に何か言った。男は、短く「はい」とだけ答えた。セリムにも分かる、数少ない日本語の一つだった。


 後部座席に乗りこむと、若者が、当然のようにセリムの隣に滑りこんできた。肩が触れた。


 車が、走り出した。


 港を離れ、坂道を上り始める。窓の外を、漁協の建物が後ろへ流れ、人垣が後ろへ流れていく。セリムは、ふと前を見た。


 ルームミラーの中に、運転手の目があった。


 その目は、セリムではなく、セリムの隣の若者を見ていた。見ては、慌てて前を向き、また、ミラーの中に戻ってくる。


 運転手の唇が、小さく動いた。口の中で、何かつぶやいたらしい。


「もう……なんばしょっとね」


 セリムには、意味が分からなかった。日本語だということしか、分からなかった。


 車は、高台の上の、古い旅館に向かって、坂を上っていった。


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