十月二十八日 夕刻 港
「照明、あと三分で位置につけ。ケーブルは岸壁の端に寄せろ。踏んだら終わりだ」
無線に向かって言い切ると、財津正雄は、すぐに次の指示に移った。
「小道具。舳先の網、もう一度濡らせ。乾いて見える」
港は、朝からずっとこの調子だった。
財津たち日本側のスタッフは、ずっと前から島に入って、準備を重ねてきた。一週間前には、海外の撮影隊の先発組が定期船でやって来て、最後の仕上げを終えた。そして今日、いよいよ撮影が始まる。
岸壁には、合板で組んだ帆船のセットが横づけされている。近くで見れば、ペンキの継ぎ目も、裏の角材も丸見えの、ちゃちな張りぼてだ。それでも、カメラ越しに夕日を浴びれば、十九世紀から続くこの古い港に、堂々と停泊する帆船に化ける。その周りを、揃いの作業着の撮影隊が、声を掛け合いながら走り回っていた。
漁協の建物の前には、地元の人々が、少し離れて人垣を作っている。腕を組んだ漁師、買い物袋を提げた主婦、学校帰りの子どもたち。島に撮影隊が来るのは、初めてのことらしい。
人垣の先頭に、組合長の顔が見えた。
財津は、無線を下ろして、組合長に向き直った。そして、深く、頭を下げた。
腰から折れて、背中がまっすぐ地面と平行になるくらいの、深いお辞儀だった。組合長は、一瞬ぎょっとして、それから慌てて頭を下げ返した。
「いや、いや、そんな」
「ご迷惑をおかけします。もうすぐ、主役が上陸します」
財津は顔を上げると、もう背を向けていた。
通りがかった若い助手の襟が、片方だけ裏返っている。財津は、すれ違いざまに手を伸ばし、それを直してやった。助手が、きょとんとして振り返る。財津は、自分が何をしたのか気づかないまま、次の持ち場へ歩いていった。
◇
財津は、大きな男だった。
背は百八十を少し超え、目方は九十。若い頃から少し肉がつきやすく、四十代も後半になった今では、作業着の背中が、熊のように丸く盛り上がっている。日に焼けた顔は彫りが深く、昔、ニューヨークの安酒場で、ラテン系かと聞かれたこともある。
その大きな体を、財津は今日、撮影隊の誰とも同じ格好に押しこめていた。紺の作業着に、ジーンズのつなぎ。首にはタオル。遠目に見れば、照明係とも、大道具とも区別がつかない。違うのは、左の二の腕に巻いた、「制作責任者」と書かれた腕章だけだ。
目立たないように。
それが、今朝、鏡の前で財津が自分に言い聞かせたことだった。
今日、主役が来る。
財津は、その名前を、頭の中でも口にしないようにしている。撮影の段取り表には、もちろん大きく書いてある。スタッフも、朝から何度もその名前を口にしている。財津だけが、「主役」と言い換えて、通していた。
二十年前のことだ。
もう、とうに終わった話のはずだった。
財津は、無線で次の指示を飛ばしながら、ふと、昨日のことを思い出した。島に一軒しかない売店で、ガムテープを買った帰り、雑誌の棚の前で、足が止まった。芸能誌の表紙で、金髪の男が、白い歯を見せて笑っていた。昔は、あんな色じゃなかった。隣には、今年の恋人だという、どこかの女優が寄り添っていた。
財津は、その雑誌を手に取らなかった。代わりに、表紙の見出しを、一字一句、覚えてしまった。
「財津さん、船、見えます!」
若い助手の声で、財津は我に返った。
沖を見る。白い大きな船が、錨を下ろして止まっている。その船腹から、小舟が一艘、ゆっくりと海へ下ろされていくところだった。
財津は、自分の手のひらが、じっとりと汗ばんでいることに気づいた。つなぎの腿のあたりで、こっそり拭った。
◇
「マサくん」
背中から、のんびりした声がした。
この現場で、いや、この世の中で、財津をそう呼ぶ人間は、一人しかいない。
振り向くと、会長が立っていた。
作業着とつなぎの群れの中で、会長だけが、まるで別の映画から迷い込んできたように見えた。焦げ茶のハンチング帽に、同じ色の三つ揃えのスーツ。ベストの胸ポケットからは、懐中時計の鎖がのぞいている。港の潮風の中で、英国の田舎紳士が、のんびり散歩でもしているような風情だった。撮影の役には、何一つ立たない格好だ。それなのに、なぜか、この現場でいちばん偉い人に見える。
実際、財津の事務所に金を出しているのは、会長だった。
会長は、にこにこしながら、財津の前まで来ると、ポケットに手を入れた。出てきたのは、セロハンに包まれた、べっこう色の飴玉だった。
「はい」
財津の大きな手のひらに、飴が一つ、ちょこんと載せられた。
「……会長。今、本番前です」
「うん、うん。だから、だよ」
財津は、少し迷ってから、包みを開けて飴を口に放りこんだ。甘い。肩から、力が抜けていくのが、自分でも分かった。この人の前に立つと、いつもこうだった。十代の頃から、ずっと。
会長は、沖の小舟に目をやった。
「来たねえ」
「ええ」
「で、マサくんは、どうしたいの」
財津は、答えなかった。飴を、奥歯で転がした。
どうしたいのか。それが分かっていたら、二十年も、こんな顔はしていない。
会長は、財津の返事を待っていた。待って、待って、それでも財津が何も言わないと分かると、ハンチングのつばを指で少し持ち上げて、また、にこにこと笑った。
「もう、昔の話だよ」
それだけ言って、会長は、財津の背中を、ぽんと一つ叩いた。
◇
会長の手が背中から離れた、その瞬間だった。
財津は、すぐ真横に、人の気配を感じた。
近い。
肩が触れそうな距離に、男が一人、立っていた。いつからそこにいたのか、まるで分からない。積み上げられた機材の陰から、すっと滑り出てきたように見えた。
肥った男だった。伸び放題の髪に、顎から頬までを覆う、手入れのされていないひげ。白いTシャツの胸には、太い筆文字で、でかでかと「地獄耳」と書いてある。東京の土産物屋で、意味も分からずに買ったのだろう。ベージュのカーゴパンツは、両脇のポケットが、何を詰めこんだのか、ぱんぱんに膨らんでいた。首から撮影隊のパスを提げ、肩には、よれよれのトートバッグ。足元は、サンダルに靴下だった。
脚本家だった。脚本を現場に合わせて調整するために、主役より一週間も早く島に来て、撮影の準備を進めるスタッフや地元の人の間にまで顔を出しては、誰彼かまわず話しかけている。名前は長くて誰も覚えられず、本人が「ドッチモって呼んでね」と言ったので、みんなそう呼んでいる。
「日本側制作責任者の、財津正雄さん。こんにちは」
ドッチモは、くっつかんばかりに顔を寄せてきた。流暢な日本語だった。妙に、ぼそぼそしている。
「秋晴れの、気持ちのいい午後ですね。何か、楽しい話、ありますか?」
「……ない」
財津は、半歩下がった。ドッチモは、半歩詰めてきた。
「そうですか」
ドッチモは、かく、かく、と何度も頷いた。財津のほうではなく、少し宙を見ながら。聞いているのか、いないのか、さっぱり分からない頷き方だった。
それから、ドッチモは、会長のほうに顔を向けた。
「出資者の、有坂幹夫さんも。こんにちは。昨日は、銀の鎖でしたね。今日のは、新しい金の鎖ですね」
会長は、にこにこしたまま、「うん、うん」と頷き返した。財津は、背筋が少し寒くなった。会長の鎖が昨日と違うかどうかなど、財津は気にしたこともない。
ドッチモは、また宙を見た。そして、一人でぶつぶつと何か言い始めた。
「……昔の話……どうしたいの……マサくん……二十年……いや、あの、これは、まあ……」
途切れ途切れの単語が、財津の耳に引っかかった。今の、会長との話だ。どこから聞いていた。
ドッチモの目が、ふっと焦点を結んだ。
「……これは、アリ!」
そう言うと、ドッチモは財津に向かって、にっこり笑った。
「どうもありがとうねぇ」
そして、来たときと同じように、すっと機材の陰へ消えていった。肥った体のわりに、驚くほど音のない足取りだった。
財津は、しばらく、その方向を見ていた。何かを取られた気がした。けれど、何を取られたのかは、さっぱり分からなかった。
◇
小舟が、近づいてくる。
凪いだ海を、白い航跡を引いて、まっすぐ港へ向かってくる。岸壁の人垣が、ざわめき始めた。子どもたちが背伸びをし、漁師たちが腕組みをほどいた。
「来たぞ!」
誰かが叫んだ。
その声に重なるように、高台のほうから、がさがさという音が駆け下りてきた。
振り向くと、坂の上から、カッパ姿の若者が、転がるように走ってくるところだった。黒いインナーに、紺の胸当てのズボン。頭には、タオル地のハチマキを、少し斜めに巻いている。その後ろを、紙袋を二つ提げた中年の男が、汗だくで追いかけていた。
事務所の看板役者と、そのマネージャーだ。ぎりぎりだ、と財津は思った。けれど、間に合ってはいる。あのマネージャーは、いつも、どこかに時間を隠している。
財津は、無線を握り直した。
口の中の飴は、いつのまにか、小さく溶けて消えていた。
「全員、位置につけ」
言い切った自分の声が、思ったよりも、しっかりしていた。
「本番だ」
沖を見る。
小舟の舳先に、人影が一つ、立っていた。夕日を背にして、顔は見えない。ただ、背の高い、すらりとした男の影が、波に揺られながら、まっすぐこちらを向いていた。
財津は、その影から、目を逸らさなかった。




