十月二十八日 午後 崖の上の宿
ロッシーニのオペラ『イタリアのトルコ人』を下敷きにした、現代日本の芸能界のコメディです。全23話、毎日更新します。
【サブタイトル】十月二十八日 午後 崖の上の宿
海は、どこまでも青かった。
十月の終わりの空に、薄い雲がいくつも浮かんでいる。その一つをくぐり抜けて、一羽のカモメが、海面に向かって降りてきた。
眼下を、白い大きな船が、ゆっくりと進んでいる。カモメは、その甲板の上をひと息に追い越し、行く手の小島へと向かった。
島の入り江に、小さな港がある。
港は、いつになく騒がしかった。岸壁には、合板で作った大きなセットや、照明の機材が並び、ケーブルが蛇のように這い、揃いのジャンパーを着た撮影隊が、声を掛け合いながら走り回っている。漁協の建物の前では、組合長をはじめ、地元の人々が腕を組み、珍しい見世物でも眺めるように、その騒ぎを見守っていた。
人の流れの真ん中で、大柄な男が、無線を片手に指示を飛ばしている。
その少し後ろで、年配の男が、にこにこと笑っている。
そして、積み上げられた機材の陰から、ひげぼうぼうの肥った男が、その二人を、じっと見ていた。
カモメは港を離れ、高台の斜面を駆け上がる。
崖の上に、古い旅館が建っていた。瓦屋根の棟がいくつも並び、それぞれが渡り廊下でつながっている。増築に増築を重ねたらしく、廊下は折れ曲がり、上り、下り、また別の棟へと伸びて、上から見ると、まるで迷路だった。
その棟の一つ、海に面した二階の角部屋。
開け放たれた縁側に、籐の寝椅子が一脚、置かれている。
◇
圏外、という言葉を発明した人は、たぶん人の心が分からない人だと、富士男は思う。
籐の寝椅子に、パンツ一枚で寝そべって三分。天井に向かって、スマートフォンを掲げたまま、腕がだるくなってきた。画面の隅には、相変わらず「圏外」の二文字が居座っている。
電波の神様がいるとしたら、たぶん上のほうにいる。そう信じて、富士男はもう少しだけ腕を伸ばした。
「……だめかあ」
軒先に下げたすだれの隙間から、秋の日差しがこぼれて、富士男の白い腹の上に、細い縞の影を落としている。胸の上には、芸能雑誌が一冊、伏せてあった。着いた日に、港の売店で買ったものだ。とうに三周は読んだ。
島に着いた晩、運よく圏内になったタイミングで、富士男は出会い系のアプリを開いてみた。
半径五キロ、該当者なし。
半径を最大まで広げても、引っかかるのは、海の向こうの本土の誰かばかりだった。島の人口を考えれば当然の結果なのだが、富士男は、それを島の男たちの見る目のなさだと受け取った。こんなに可愛い僕が、すぐそこにいるのに。
そう、富士男は可愛い。
自分で言うのもなんだが、みんながそう言うのだから、間違いない。デビューしたときから、ずっとそうだ。ファンも言う。共演者も言う。メイクさんも言う。本を買った売店の店員さんだって、たぶん心の中で言っている。富士男は、みんなに可愛いと言ってもらえる自分が、好きだった。
それなのに。
部屋に帰れば、待っているのは、あのおっさんだ。
若気の至りというやつだったのだと思う。気がついたら恋人ということになっていて、気がついたら一緒に暮らしていて、気がついたら、どこへ行くにも「誰と」「どこで」と聞かれる生活になっていた。可愛い僕が、どうしてあんなおじさんに、こんなに縛られていなきゃいけないのか。富士男には、ぜーんぜん分からない。しかも、近頃おなかがますます大きくなってきたし。
沖のほうで、汽笛が一つ鳴った。
富士男は雑誌を胸からずらして、目を細めた。群青の海の果てに、白い船影が浮かんでいる。さっきまでは点だったのに、いつのまにか、ずいぶん大きくなっていた。
あの船には、知らない男たちが、たくさん乗っている。
船乗りとか、撮影の本隊のスタッフとか。日に焼けて、腕が太くて、海の匂いがして、それで、富士男を見たら、きっと可愛いって言う。
主役のハリウッドスターも、あの船に乗っているはずだった。富士男は、今日の夕方、その人を港で出迎える役をもらっている。たしか、四十いくつ。
「おじさんじゃん」
富士男は鼻で笑って、もう一度、スマートフォンを空へ掲げた。
圏外だった。
◇
この旅館を設計した人間は、たぶん人の心が分からない人間だと、兼田譲二は思う。
本館の帳場から、二階の角部屋まで。直線にすれば、たいした距離ではないはずだった。それなのに、渡り廊下を一本渡ると、三段下がって、また五段上がり、角を曲がると別の棟に出て、その先がまた渡り廊下になっている。来て三日目だというのに、兼田は今日も一度、道を間違えた。
両手には、紙袋が二つ。中身は、富士男の衣装だ。
四十二歳の、少し出てきた腹が、階段を上るたびに主張する。額の汗を手の甲で拭い、兼田は最後の渡り廊下を抜けて、角部屋の襖を開けた。
「フジオ」
縁側に、富士男がいた。
籐の寝椅子に、パンツ一枚で長くなって、スマートフォンを天井に掲げている。
兼田は、一瞬だけ足を止めた。
惚れた欲目で言っているのではない、と兼田は思っている。これは、仕事の目だ。英語圏の父親譲りの、彫りの深い目もと。日本人の母親譲りの、きめの細かい肌。秋の日差しの中で、二十五歳の富士男の体は、半分透けているように見えた。本人には何の自覚もない、天然の、絶世の美男子。事務所のいちばん大事な商品で、兼田がこの十年、手塩にかけて守ってきたものだ。
その商品が、日に焼けようとしている。
「陽に焼けるぞ」
「焼けないよ。秋だもん」
富士男は、振り向きもしなかった。
「パパラッチに撮られる」
「ここ、崖の上だよ? 撮るなら鳥」
「なんか着ろ」
「暑い」
兼田は紙袋を畳に置き、寝椅子の横にしゃがみこんだ。膝が鳴った。声を落とす。
「そもそも、玉が見えてんぞ」
富士男は、胸の上の雑誌を、すっと下にずらして前を隠した。それから、こちらを向いて、にっこりと笑った。
「マネージャー、アイス持ってきて〜」
兼田は、深いため息をついた。
時間がない。スターの船は、もう沖まで来ている。もうすぐ、小舟で上陸してくる。その前に富士男を着替えさせ、髪を整え、港まで連れて降りなければならない。
もっとも、兼田が富士男に伝えてある集合時間は、本当の段取りより、二十分早い。兼田はいつも、自分の手で動かせる時間を、どこかに隠し持っている。富士男が寝坊しても、着替えにぐずっても、その二十分が呑みこんでくれる。この十年、それで乗り切ってきた。
それでも、アイスどころではない。
そう思いながら、兼田は気がつくと、ズボンのポケットの財布に、手をかけていた。
……いや、違う。
兼田は財布から手を離し、立ち上がった。そして、英語に切り替えた。
「(英語で)今すぐ着替えろ。五分で下に降りるぞ」
富士男の肩が、ぴくりと動いた。
富士男は、昔から、叱られるときは英語だった。父親が、そうだったからだ。日本語は、あとから覚えた言葉だ。だから富士男は、日本語の小言なら、いくらでも聞き流す。けれど英語で叱られると、まるで子どもに戻ったみたいに、素直になる。
富士男は、黙って寝椅子から起き上がった。
「はあい」
返事だけは、日本語だった。
兼田は紙袋から衣装を引っぱり出し、富士男に押しつけた。体にぴったりした黒い速乾のインナーに、胸当てのついた紺のカッパのズボン。長靴は現場に置いてある。劇中で、港で働く若い漁師が、スターを出迎える場面の衣装だ。
富士男が着替え終わると、兼田は最後に、タオル地のハチマキを取り出して、富士男の頭に巻いてやった。結び目を、少し横にずらす。
「ちょっと斜めにしとけ」
「なんで?」
「そのほうが、可愛いからだ」
富士男は、ぱっと顔を輝かせた。兼田は、それを見ないふりをして、腕時計に目を落とした。
◇
五分後、二人は、渡り廊下を早足で歩いていた。
カッパのズボンをがさがさ鳴らして富士男が先を行き、紙袋を二つ提げた兼田が、汗を拭きながら追いかける。三段下がって、五段上がる。角を曲がったところで、富士男が足を止めた。
廊下の窓から、海が見えた。
さっきの白い船が、沖に錨を下ろして止まっている。その船腹から、小舟が一艘、ゆっくりと海へ下ろされるところだった。
港のほうから、ざわめきが風に乗って上がってくる。撮影隊の誰かが、拡声器で何か叫んでいる。
「ねえ、マネージャー」
「なんだ」
「アイスは?」
「あとで」
兼田は、富士男の背中を押した。
富士男は、名残惜しそうに窓の外の小舟を一度だけ振り返り、それから、渡り廊下の先へ駆けていった。
小舟が、海面に着いた。




