十月二十九日 夜 港の飲み屋
夕食の膳が下げられたあと、成瀬は、玄関棟の車寄せで、ハイヤーのキーを手に待っていた。
社長が、飲み屋に出かけるという。撮影隊の日本人スタッフが、港の店で飲んでいるらしい。社長を送って、帰りは、酔ったスタッフたちを、何往復かして宿まで運ぶ。いつもの夜の仕事だった。
「成瀬くん」
のんびりした声がした。
振り向くと、三つ揃えの会長が、玄関の上がり框に立っていた。その後ろから、作業着の上にジャンパーを羽織った社長が、靴を履きながら出てくるところだった。
会長は、にこにこしながら、成瀬の手の中のキーを指さした。
「今夜は、それ、いらないよ」
「はい?」
「マサくんと、一緒に行っておいで」
会長は、社長のほうを、ちらりと見た。
「成瀬くんも連れて行って。歩きでね」
社長は、何か言いかけて、やめた。会長に何か言われて、言い返したところを、成瀬は見たことがない。
成瀬は、キーを握ったまま、立ちつくした。歩きで。運転しないで。それじゃ、自分は、何をしに行くのだろう。
会長は、もう奥へ引っこんでいくところだった。振り返りもせずに、ひらひらと手を振った。
社長が、黙って玄関を出た。成瀬は、慌ててキーをポケットにしまって、その大きな背中を追いかけた。
夜の坂道は、暗かった。
街灯は、ぽつり、ぽつりとしかない。その間を、月の明かりが埋めている。坂の下に、港の灯りが小さくかたまって見えた。遠くの沖には、本船の白い灯りが、宝石みたいに浮かんでいる。
社長の足は、速かった。成瀬は、半歩後ろを、黙ってついていった。
なんで、自分は、ここにいるとやろか。
成瀬は、心の中で首をかしげた。社長と二人きりで歩くのは、初めてだった。いつも、社長は後部座席にいて、成瀬はハンドルを握っている。ミラー越しに、ときどき目が合うだけだ。こうして並んで歩くと、社長は、思っていたよりずっと大きかった。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
坂の途中で、成瀬は、ふと、口を開いていた。自分でも、なぜ聞いたのか、分からなかった。昨日から、ずっと、どこかに引っかかっていたのかもしれない。
「社長は、あのスターの人と、知り合いですか」
社長の足が、ほんの一瞬だけ、止まった。すぐに、また歩きだした。
「……昔、向こうで、同じ現場にいたことがある。それだけだ」
それだけ、と社長は言った。言い切る、いつもの社長の口調だった。
けれど、そのあと、社長は、黙りこんでしまった。月明かりの坂道を、沖の本船の灯りのほうを見ながら、一人で、どこか遠いところを歩いているような顔だった。
成瀬は、それ以上、何も聞かなかった。
聞いてはいけないことを聞いたのだ、ということだけは、なんとなく分かった。
◇
港の飲み屋は、店からはみ出していた。
ふだんは親父が一人でやっている、カウンターだけの小さな店だ。それが今夜は、店の前の路地に、どこから集めてきたのか、長机やビールケースの即席のテーブルがいくつも並び、軒先から電柱へ、電柱から漁具小屋へと、裸電球がだらりと渡してあった。電球の黄色い明かりの下で、作業着のままの男たちが、ジョッキを打ち鳴らしている。
恰幅のいい親父が、店の奥で、汗だくになって焼き鳥を返していた。その横で、奥さんらしい女の人が、大皿に刺身を盛っている。テーブルのあいだを、地元の高校生くらいの男の子が、ジョッキを両手に四つずつ持って、危なっかしく走り回っていた。
「社長、こっち、こっち!」
照明部の誰かが、手を振った。社長は、軽く手を上げて応えると、テーブルには加わらずに、店の軒下の、隅の丸椅子に腰を下ろした。親父に、焼酎を一杯だけ頼んだ。
成瀬は、どこに座ればいいのか分からずに、社長の近くの、ビールケースの端に、ちょこんと腰かけた。
「運転手さん、今日は飲めるんだろ。会長さんから聞いてるよ」
親父が、成瀬の前に、どんとジョッキを置いた。いつのまに、会長はそんなことまで。成瀬は、断る言葉を探しているうちに、気がつくと、ジョッキを握っていた。
テーブルは、にぎやかだった。
「なあ、あの脚本家の、なんだっけ」
美術部の若いのが、立ち上がった。そして、両手の手のひらを顔の横で天井に向け、頭だけをゆらゆらと揺らしてみせた。
「ドッチモって、呼んでね!」
テーブルが、どっと沸いた。地元の漁師たちまで、腹を抱えて笑っている。島の人間は、もう全員、本物を見せられているのだ。
「昨日の楽屋の挨拶、聞いたか。組合長が二言しゃべったら、あいつ、英語で三分くらいしゃべってたぞ」
「何を訳してたんだ、あれ」
「知らん。でも、主役のお付きの人たち、ずっと肩震わせてた」
組合長の代わりに来ていた漁協の役員が、首をかしげた。
「英語ってのは、丁寧に言うと、長くなるもんだら」
成瀬は、ジョッキを口に運びながら、そうなんだろうか、と思った。英語のことは、成瀬にも分からない。
話題は、すぐに沖の船に移った。
「あの白い船、中はどうなってるんだろうな」
誰かが、暗い沖のほうを顎でしゃくった。本船の灯りが、黒い海の上に、ぽつんと浮かんでいる。
「プールがあるらしいぞ」
「シェフが三人乗ってるって、通訳の人が言ってた」
「部屋の蛇口が、金なんだと」
「金の蛇口から、何が出るんだよ」
「そりゃ、シャンパンだろ」
また、どっと笑いが起きた。
地元の、日に焼けた年配の漁師が、焼酎のグラスを持ったまま、沖の灯りをしみじみと眺めた。
「あの船に乗ったら、もう、外国だな」
誰も、それには笑わなかった。テーブルの何人かが、同じように、沖の灯りを見た。すぐそこに見えているのに、島の誰も、足を踏み入れたことのない場所だった。
成瀬は、ふと、軒下の社長を見た。社長は、焼酎のグラスを手にしたまま、やはり、沖の灯りを見ていた。何を考えているのかは、分からなかった。
若い漁師の一人が、大きく伸びをした。
「おれら、今週、いっぺんも漁に出てねえけど、撮影の手当てで、ふだんより懐があったけえや」
「船、貸してるだけで金になるもんな」
「うちの子なんか、毎日、港に張りついて、帰ってこねえ」
照明部のベテランが、ジョッキを置いて、しみじみと言った。
「しかし、あの主役は、本物だな」
周りが、うんうんと頷いた。
「カメラが回った瞬間に、空気が変わる。あれは、教えてできるもんじゃない」
「うちの看板の、あの若いのもすごいぞ」
美術部の若いのが、身を乗り出した。
「港で、綱を結んでるとこ見たか。あれ、本物の漁師にしか見えなかった。漁協のおっちゃんも、あいつ、どこの船の子だって聞いてきたもんな」
成瀬は、ジョッキの陰で、少しだけ胸を張った。
そうでしょう、と心の中で言った。富士男さんは、すごいんです。
誰も、成瀬のほうは見ていなかった。それで、よかった。
「でもさ」
日本人のスタッフの一人が、首をひねった。
「おれ、毎日現場にいるのに、いまだに、何の話を撮ってるのか、ちっとも分からん」
「分かる。朝、別れの場面撮って、昼に出会いの場面撮って、夕方にまた別れだもんな」
「網小屋、組んでばらして、また組んで。何回組んだっけ」
「五回」
笑い声が、電球の明かりの下で揺れた。
成瀬のジョッキは、いつのまにか、空になっていた。アルバイトの男の子が、何も言わずに、新しいのを置いていった。
漁協の役員が、成瀬の肩を、どんと叩いた。
「あんた、あの黒い車の運転手さんだろ」
「は、はい」
「おばさんたちのあいだで、大人気だよ」
「……は?」
「無口で、がっちりしてて、毎朝、車をぴかぴかに磨いてる。ああいう子がうちの娘の婿に来てくれたら、ってな。魚屋のおばちゃんなんか、毎朝、あんたが車拭いてるの、見に行ってるんだぞ」
テーブルが、また、どっと沸いた。
店の奥から、刺身の大皿を運んできた奥さんが、成瀬の顔を、ひょいとのぞきこんだ。
「あんた、いくつ」
「……二十二です」
「あらまあ、若いこと。うちの娘と、ちょうど年回りがいいじゃない」
テーブルが、もう一度、沸いた。
成瀬は、耳まで真っ赤になった。どう返していいか分からなかった。分からないまま、新しいジョッキを、ぐいとあおった。
なんでね。なんで、おばさんたちばっかりね。
心の中で、熊本の言葉がぐるぐる回った。勧められるまま、また一杯。もう一杯。
そのうちに、町内会長が、軒下の社長のところへ、そろそろと寄っていった。
「社長さん、ひとつ、お願いがあるんですが」
町内会長は、両手をすり合わせた。
「あの主役の方の、サインを、いただけないもんでしょうか。島の公民館に、飾りたいんです。それと、できれば、あの若い役者さんのも。うちの孫が、大ファンで」
社長は、グラスを持ったまま、少しだけ、間を置いた。
「……頼んでおきます」
それだけ言うと、社長は、また、沖の灯りのほうを見た。
成瀬は、もう、まぶたが重かった。
◇
同じ頃、宿の角部屋では、富士男が、縁側の籐の寝椅子に、パンツ一枚で寝そべっていた。
片手に、カップのアイス。兼田が、夕食のあと、売店まで買いに行かされたものだ。木のさじで、のんびりと、すくっては口に運んでいる。すだれの向こうの夜の海を眺めながら、ときどき、鼻歌を歌う。
機嫌がよかった。
兼田は、部屋の座卓で、明日の台本をめくりながら、その横顔を盗み見ていた。
胃が、重かった。
朝風呂の湯の中で聞いた言葉が、一日じゅう、胃の底に沈んでいた。三倍。手を切れ。そして、本人に聞く。
兼田は、自分の返事を、間違っていたとは思っていない。あの子は、まだ守ってやらなければならない子だ。自分が預かっている。自分が決める。それで、いい。
気になっているのは、そこではなかった。
本人に聞く、と、あの男は言った。
もう、聞いたのだろうか。
今日、撮影の合間に。休憩のテントで。誰も見ていない、セットの陰で。あの男が、富士男に、何か吹きこんだのではないか。
前のときも、そうだった。兼田が手塩にかけた役者は、兼田の知らないところで、大きな事務所の人間と会っていた。気づいたときには、もう、話はついていた。
兼田は、台本を閉じた。
「……フジオ」
「なあに」
富士男は、振り向きもせずに、アイスをすくった。
「今日、あいつに、何か言われたか」
さりげなく聞いたつもりだった。声が、少しだけ、硬くなった。
富士男の手が、止まった。
それから、富士男は、ゆっくりと振り向いた。籐の寝椅子の上で、肘をついて、兼田を見た。
にんまりと、笑っていた。
兼田が、自分のことを気にしている。誰と何を話したか、気にしている。富士男の顔には、それがうれしくてたまらない、と書いてあった。
「さあ」
富士男は、木のさじを、くわえた。
「どうだったかな」
「フジオ」
「えー、覚えてない」
富士男は、また海のほうを向いて、アイスをすくった。鼻歌の続きを歌い始めた。足の指を、ひょいひょいと動かしている。
兼田は、それ以上、聞けなかった。
聞けば、富士男は、もっと楽しそうに、はぐらかすだろう。そして、兼田が気にすればするほど、富士男の機嫌は、よくなっていくのだ。そういう子だった。十年、見てきたのだ。
アイスのカップが、空になった。
富士男は、カップを縁側に置くと、籐の寝椅子から、するりと降りた。そして、座卓の兼田のところへ、猫のように、四つん這いで近づいてきた。
「ねえ、マネージャー」
甘い声だった。
兼田は、ため息をついた。胃の重さは、まだ、そこにあった。それでも、いつものように、台本を脇に押しやった。
その夜も、兼田は、いつものように富士男に付き合い、終わったあと、そのまま、泥のように眠りに落ちた。
◇
成瀬が宿に戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
帰りの坂道のことは、よく覚えていない。社長の大きな背中が、月明かりの中を、前を歩いていたことだけは覚えている。一度、つまずきかけたとき、その背中が、ふと止まって、成瀬が追いつくのを待っていてくれた気がする。気のせいかもしれない。
成瀬は、自分の部屋の襖を開けるなり、敷きっぱなしの布団に、うつぶせに倒れこんだ。
天井の板の目を、数えるひまもなかった。
壁の向こうで、その夜も、何かがあったのかもしれない。
成瀬は、何も知らない。いびきをかいて、朝まで、ぐっすりと眠った。
◇
午前三時。
セリムは、離れの布団の上で、目を開けていた。
眠れなかった。今夜も、だった。
宿のいちばん奥の、独立した離れだった。広い座敷に、ふかふかの布団が一組。枕元には、服の係が用意した、香りのいい何かの小瓶が並んでいる。障子の向こうは、小さな庭と、その先の海だ。波の音だけが、規則正しく聞こえる。
眠るための道具は、何もかも、揃っていた。
それでも、眠れなかった。
セリムは、布団の上で、体を起こした。浴衣の前がはだけていた。直す気にもならなかった。
昼間の現場が、まぶたの裏に浮かんだ。腕章の大男。何度目を向けても、無線を口に当てて、背を向けた。通り道に立っても、一歩、迂回された。取り巻きを使いにやっても、本番中です、の一言で追い返された。
当然だ、とセリムは思った。
裏切り者が、売った相手と、顔を合わせたいはずがない。あの男は、後ろめたいのだ。だから、目をそらす。だから、逃げる。それだけのことだ。こちらが追いかける理由など、どこにもない。
セリムは、昼間の記憶に、ぴしゃりと蓋をした。
考えるのは、明日のことだ。
セリムは、障子のほうに、声をかけた。
「いるか」
返事は、なかった。けれど、障子の向こうの廊下に、何かが、すっと膝をつく気配がした。いつからそこにいたのか、分からなかった。分からなくても、かまわなかった。呼べば、いる。それだけ分かっていれば、十分だった。
セリムは、障子を開けもせずに、英語で言った。
「(英語で)明日、あの若いのと、二人きりになる。マネージャーのいないところで。場所と時間を作れ」
障子の向こうで、ぼそぼそとした声がした。
「(英語で)帆船のセットの、甲板がいいと思います。明日の昼すぎ、撮影の合間に、一時間ほど、セットに誰も上がらない時間があります。マネージャーさんは、その時間、港の反対側で、明日の弁当の手配をしているはずです」
朝風呂のときと同じだった。場所を選ぶのは、いつもこの男だ。島の誰が、いつ、どこにいるのか。この男は、全部知っている。
「(英語で)ボクは、甲板の下に入っておきます。何かあれば、合図をください。下から、お返事します」
「(英語で)分かった。行け」
それだけだった。
礼も、ねぎらいも、なかった。障子の向こうの気配は、来たときと同じように、音もなく消えた。セリムは、もう、その気配のことを考えていなかった。必要なときに、必要なことをする。それが、あの男の役目だ。それ以上のことは、セリムには、どうでもよかった。
セリムは、また、布団に横になった。
天井を見上げた。眠気は、来なかった。
寝返りを打ったとき、枕元に脱ぎ捨てた上着のポケットから、何かが、ころりと畳に転がり出た。
セロハンに包まれた、べっこう色の飴玉だった。
昼間、浜のテントで、見知らぬ日本の老人に渡されたものだ。セリムは、それを指でつまみ上げた。何の気なしに、包みを開けて、口に放りこんだ。
甘かった。
それだけだった。
セリムは、飴を舌の上で転がしながら、障子の向こうの、白み始めるにはまだ早い夜の海の音を、聞いていた。
明日、甲板で。
あの若いのを、手に入れる。
飴が、口の中で、ゆっくりと小さくなっていった。眠気は、とうとう、最後まで来なかった。




