↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/14

十月三十日 昼 帆船の甲板

 朝六時半、大浴場の戸が、からりと開いた。


 手ぬぐいを肩にかけた兼田が、湯殿に一歩、足を踏み入れて、止まった。


 湯船には、もう先客がいた。湯の縁に頭をもたせかけ、目を閉じて、東から斜めに差す朝の光を浴びている、金色の髪の男。きのうの朝湯が、よほど気に入ったらしい。


 兼田は、何も言わずに、そっと戸を閉めた。



    ◇



 七時過ぎ、宿の玄関の掲示板の前に、宿の主人が、画鋲を口にくわえて立っていた。


 手書きの貼り紙を、四隅から留めていく。


「明日の夜、撮影の打ち上げを兼ねて、仮装の宴会を開きます。島の皆さんも、どうぞ」


 下のほうに、へたくそなカボチャの絵が、添えてあった。


 洗車用のバケツを提げて通りがかった若い運転手が、貼り紙の前で、足を止めた。一度読んで、通り過ぎかけて、戻ってきて、もう一度読んだ。仮装。宴会。島の皆さんも、どうぞ。


 運転手は、バケツを持ち直して、駐車場へ歩いていった。その足取りが、少しだけ、軽くなっていた。



    ◇



 八時、港の撮影現場。


 作業着の大男が、色紙を二枚抱えて、主役の取り巻きの一人を呼び止めていた。いつもスマートフォンを手放さない、細身の男だ。


「(英語で)島の町内会長からの頼みです。主役の方に、サインを一枚。公民館に飾りたいそうです」


 細身の男は、色紙を受け取って、肩をすくめた。


「(英語で)ご自分で、頼めばいいのに」


 大男は、それには答えなかった。もう一枚の色紙を抱えて、くるりと背を向けた。


 浜の端で、紙袋を提げたマネージャーをつかまえると、大男は、その手に、残りの一枚を押しつけた。


「フジオのも、頼む」


 それだけ言って、大男は、また、無線を口に当てて、現場の中へ戻っていった。



    ◇



 昼すぎの帆船の甲板には、誰もいなかった。


 撮影隊は、浜のテントで昼の弁当を広げている。兼田は、明日の弁当の手配だとかで、港の反対側の仕出し屋まで行っていた。照明も、カメラも、甲板の上にはない。合板の帆船が、秋晴れの空の下に、がらんと浮かんでいるだけだった。


 風が強かった。


 張りぼての帆が、ばたばたと音を立てて、はためいている。そのたびに、セット全体が、ぎしり、ぎしりと、低くきしんだ。


 富士男は、セットの舷側(げんそく)に渡された細い板を、そろそろと上った。


 呼ばれたのだ。休憩に入る前、すれ違いざまに、セリムが、英語で、小さく言った。昼すぎに、甲板へ。一人で。


 甲板の手すりに、白いシャツの背中が、もたれていた。


 セリムは、海を見ていた。風に、金色の髪が、なびいている。富士男が甲板に上がっても、振り向かなかった。


 富士男は、少しためらってから、その隣に並んだ。手すりの向こうに、港と、沖と、その沖に浮かぶ、白い本船が見えた。


 しばらく、二人とも、黙っていた。風と、帆の音と、セットのきしみだけがあった。


 昨日一日、セリムは、富士男に、ほとんど目もくれなかった。カメラの前でも、合間でも、そっけなかった。何か怒らせただろうかと、富士男は、ゆうべ、アイスを食べながら、ちょっとだけ気にしていた。


 それが今、二人きりで、ここにいる。


 セリムが、海を見たまま、英語で言った。


「(英語で)アメリカへ、来ないか」


 富士男は、セリムの横顔を見た。


 冗談を言っている顔では、なかった。


「(英語で)……え」


「(英語で)役者として、向こうで面倒を見る。君は、化ける。ここで終わらせるのは、惜しい」


 セリムは、顎で、沖の本船を指した。


「(英語で)あの船に乗れば、向こうまで行ける」


 富士男の胸の中で、何かが、ぱちんと弾けた。


 ハリウッド。アメリカ。世界中が見ている、あのスクリーン。そこに、自分が映る。世界中の人が、自分を見る。可愛いと言う。日本の、つながらないスマホを掲げていた島の縁側から、いきなり、世界のど真ん中へ。


「(英語で)……ほんとに? 僕を?」


 声が、裏返った。


 セリムは、ようやく、富士男のほうを見た。昨日までのそっけなさが嘘のような、甘い、少しだけ意地の悪い笑顔だった。


 そのとき、セリムの白いローファーの踵が、甲板を、こつ、こつ、と、二度、軽く鳴らした。


 ぎい、と、足元のどこかで、古いドアが開くような音がした。


 富士男は、足元を見下ろした。合板の甲板が、風を受けて、また、ぎしりときしんだ。


 風のせいだ。こんな張りぼて、風が吹けば、どこもかしこも鳴る。


「(英語で)ひとつだけ」


 セリムが、人差し指を立てた。


「(英語で)マネージャーには、内緒だ」


 富士男は、一瞬、言葉に詰まった。


 内緒。兼田に。


 ゆうべ、兼田は、今日あいつに何か言われたか、と聞いてきた。富士男は、さあ、どうだったかな、とはぐらかした。兼田が自分を気にしているのがうれしくて。


 でも、今度のは、はぐらかすのとは、違う。


「(英語で)……うん」


 富士男は、頷いていた。


 セリムは、満足そうに、また海のほうを向いた。そして、手すりから体を起こしながら、さらりと言った。


「(英語で)明日の夜、宴会のあとで、返事を聞かせてくれ」


 こつ、と、また踵が鳴った。


 ぎい、と、また足元がきしんだ。


 セリムは、それきり振り返らずに、舷側の板を、軽い足取りで降りていった。白いシャツの背中が、浜のテントのほうへ遠ざかっていく。


 富士男は、一人、甲板に残された。


 手すりを、両手でぎゅっと握った。風が、髪をくしゃくしゃにした。沖の本船が、秋の日差しの中で、白く光っていた。



    ◇



 アメリカ。


 富士男は、手すりを握ったまま、その言葉を、口の中で転がした。


 舞い上がっていた。足が、甲板から浮いているような気がした。それなのに、胸のどこか、ずっと奥のほうで、別の音が、小さく鳴っていた。


 かちり、という音だった。


 ペンのキャップを閉める音。


 十八歳の春だった。


 東京の事務所の、狭い応接室だった。窓のブラインドが半分下りていて、テーブルの上に、細かい英語の文字がびっしり並んだ書類が、何枚も重ねてあった。


 富士男は、ソファの端に座っていた。隣に、兼田がいた。向かいの一人掛けの椅子に、三つ揃えの会長が、にこにこもせずに座っていた。


 テーブルの向こうに、父がいた。


 三年ぶりに見る父は、少し太って、髪が薄くなっていた。軍服ではなく、量販店で買ったようなジャケットを着ていた。除隊したあと、向こうで、工場を渡り歩いて働いていると、兼田から聞いていた。父は、富士男のほうを、ほとんど見なかった。書類だけを見ていた。


 父にとって、これは、日本との縁を切るための用事なのだ、と富士男は思った。若いころに暮らした国で、残してきたものを、一つずつ片づけていく。その、いちばん最後の一つが、自分だった。


 通訳がいたのかどうか、富士男は覚えていない。英語だったので、富士男には、全部分かった。権利を、放棄する。今後、一切、かかわらない。何も、主張しない。


 父は、ページをめくりながら、一枚ずつ、サインをしていった。ペン先が、紙の上を走る音だけが、応接室に響いた。


 最後のページに、サインを終えると、父は、ペンにキャップをかぶせた。


 かちり。


 それから、父は、立ち上がった。ジャケットの襟を直して、富士男のほうを、ちらりと見た。


「(英語で)元気でな」


 それだけだった。父は、会長と兼田に軽く頭を下げて、応接室を出ていった。ドアが閉まる音がして、それきりだった。


 富士男は、ソファの端に、座ったままでいた。


 足の下の床が、急に、なくなってしまったような気がした。どこにも、踏ん張るところがない。父は、もともと、ろくに富士男を見ない人だった。それでも、どこかに、父という床があった。それが、かちり、という音ひとつで、消えた。


 隣の兼田が、何も言わずに、富士男の肩に手を置いて、自分のほうへ、ぐいと引き寄せた。十五歳のときから三年間、ずっとそうしてきたように。保護者の手だった。


 会長は、テーブルの上の書類を、黙って揃えていた。


 風が、また、帆を鳴らした。


 富士男は、まばたきをして、甲板の上に戻った。手すりを握る指が、白くなっていた。


 アメリカ。あの人の国。


 富士男は、首を振った。


 違う。今度は、違う。今度は、向こうが、僕を欲しがっている。世界中が見ている人が、僕を、連れて行きたいと言った。


 富士男は、沖の白い船を見た。


 あの船に乗れば、向こうまで行ける。


 胸の奥の、かちり、という音は、風の音にかき消されて、もう聞こえなかった。



    ◇



 甲板の下は、暗かった。


 合板の帆船は、外から見れば立派な船だが、中は、角材とベニヤ板を組み合わせた骨組みだけの、がらんどうだ。床板の隙間から、細い光の筋が、何本も差しこんでいる。その光の中で、埃が、ゆっくりと舞っていた。


 骨組みのいちばん奥の、角材が三本交差している狭い隙間に、男が一人、うずくまっていた。


 ひげぼうぼうの、肥った男だった。「地獄耳」のTシャツは、埃で灰色になっている。


 頭上の甲板から、二人分の足音が遠ざかり、やがて、一人分になり、それも、舷側の板を降りて、消えていった。


 男は、かく、かく、と頷いた。


 それから、這い出ようとした。


 動かなかった。


 男は、もう一度、体をよじった。角材と角材のあいだに、ぴったりと腰がはまりこんでいた。入るときは、するりと入れたのだ。島じゅうのどんな隙間にも、するりと入れる男だった。それが、出るときに限って、肥った腰が、つかえて抜けない。


 男は、宙を見て、少し考えた。


 それから、両手で頭上の角材をつかみ、思いきり、体を引き抜いた。


 びりっ。


 乾いた音が、甲板の下の暗がりに響いた。


 男の体は、角材の隙間から、すぽんと抜けた。勢いあまって、ベニヤの床に、尻もちをついた。


 ベージュのカーゴパンツの、右の腿のポケットが、縫い目から大きく裂けていた。ぱんぱんに詰めこんであった中身が、床の上に、ばらばらとこぼれ落ちた。メモ帳ではない。この男は、メモを取らない。こぼれ落ちたのは、アメリカの三つ穴のプラグを、日本の二つ穴のコンセントに差せるようにする、小さな変換アダプターと、セロハンに包まれたままの、べっこう色の飴玉が一つだった。楽屋の踊り場で、三つ揃えの老人にもらった飴だ。包みは、一度も開けられていなかった。


 男は、こぼれたものを、一つずつ拾い集めた。裂けたポケットには、もう入らなかった。仕方なく、反対側のポケットに、ぎゅうぎゅうと押しこんだ。


 裂け目から、風が入って、ひらひらと布が揺れた。


 男は、しばらく、その裂け目を見下ろしていた。


「……こっちは、無しだなぁ」


 ぼそりと、つぶやいた。


 それから、男は、床板の隙間から差しこむ光の筋を、見上げた。さっき、頭上で交わされた言葉を、一言ずつ、頭の中で並べ直しているような顔だった。


「……アメリカへ……マネージャーには、内緒……明日の夜、宴会のあとで……」


 男の目が、ゆっくりと、光り始めた。


「……これは、アリ!」


 男は、裂けたズボンのまま、立ち上がった。そして、甲板の下の暗がりを、肥った体のわりに、驚くほど静かな足取りで、出口のほうへ這っていった。


「……どこまで、膨らませようかなぁ」


 暗がりに、ぼそぼそとした独り言だけが残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。