十月三十日 夕刻 旧館の奥
夕方の宿の帳場に、ひげぼうぼうの肥った男が、ぬっと顔を出した。
右の腿のあたりで、ベージュのカーゴパンツが大きく裂けて、歩くたびに、布がひらひらと揺れている。男は、そんなことは少しも気にしていない顔で、帳場の奥の宿の主人に、くっつかんばかりに顔を寄せた。
何か、二言三言、ぼそぼそと話した。
宿の主人は、首をかしげて、それから、帳場の壁の釘に掛かった鍵の束から、古びた鍵を一本外した。旧館の奥の部屋の鍵だった。客間としては、もう何年も使っていない。寝具の物置きになっている部屋だ。
男は、鍵を受け取ると、にっこり笑った。
「どうもありがとうねぇ」
宿の主人は、男の背中を見送りながら、また首をかしげた。あんな部屋を、何に使うのだろう。
◇
旧館への渡り廊下は、ほかの棟よりも、ひときわ古かった。
床板が、一歩ごとに、ぎしりと鳴る。窓ガラスは波打っていて、夕方の海の光が、ゆらゆらと歪んで差しこんでいる。廊下を二度曲がり、三段下がって、また五段上がる。その奥の、いちばん突き当たりの襖の前で、男は足を止めた。
襖の引き手に、古い錠前がかかっていた。
男は、鍵を差しこんで、ゆっくりと回した。かちゃり、と、乾いた音がした。
襖を開けると、埃と、日に干した綿の匂いがした。
八畳ほどの部屋だった。敷布団と掛け布団が、四方の壁に沿って、天井近くまで積み上げられている。窓は、布団の山に半分ふさがれて、薄暗い。部屋の真ん中だけが、ぽっかりと空いていた。
奥の壁に、押入れの襖が一枚、布団の山のあいだから、わずかにのぞいていた。
男は、部屋の真ん中に立って、ぐるりと見回した。布団の山。真ん中の空き。押入れ。窓。廊下の襖。
かく、かく、と頷いた。
「……これは、アリ!」
男は、部屋を出て、また錠前をかけた。鍵は、裂けていないほうのポケットの、いちばん奥に、ぎゅっと押しこんだ。
◇
撮影から戻ると、部屋には誰もいなかった。
座卓の上に、兼田の走り書きのメモが一枚。社長と明日の打ち合わせ、七時まで。その横に、色紙が一枚、置いてあった。島の町内会長の孫が、富士男の大ファンなのだという。
富士男は、メモを指先ではじいて、縁側の籐の寝椅子に、ごろりと寝転がった。
アメリカへ、来ないか。
昼間の甲板の、セリムの声が、まだ耳の奥に残っていた。風の音と、帆のはためきと一緒に。明日の夜、宴会のあとで、返事を聞かせてくれ。
返事なんて、決まっている。
富士男は、天井に向かって、にんまりと笑った。
そのとき、襖が、すっと開いた。
ノックも、声もなかった。気がついたときには、もう、ひげぼうぼうの肥った男が、部屋の中に立っていた。「地獄耳」のTシャツに、右の腿が大きく裂けたカーゴパンツ。脚本家の、ドッチモだった。
「……ちょっと、勝手に入らないでよ」
富士男は、寝椅子の上で、上体を起こした。
ドッチモは、気にするふうもなく、すたすたと縁側まで歩いてくると、籐の寝椅子の横に、しゃがみこんだ。近い。くっつかんばかりに、顔を寄せてくる。
「こんにちは、フィッツくん」
富士男は、ぎくりとした。
その名前を、日本で知っている人間は、ほとんどいない。港で、カメラの前で、一度、口にしただけだ。
「……なんで」
ドッチモは、富士男の問いには答えずに、かく、かく、と何度も頷いた。それから、声を、ぐっと落とした。
「スターからの、伝言です」
富士男の心臓が、跳ねた。
「明日の夜、宴会のあとで、返事を聞かせてほしい、って。でもね、それだけじゃないんだ」
ドッチモは、ぼそぼそと続けた。
「スターはね、目隠しで待たせるのが、好きなんだ」
「……は?」
「手を縛って、目隠しして、待っててね。部屋は、旧館の奥。いちばん突き当たりの、布団がいっぱいの部屋。明日の夜、九時から。鍵は、ボクが開けておくから」
富士男は、ドッチモの顔を、まじまじと見た。
ドッチモは、大真面目な顔をしていた。冗談を言っている顔では、なかった。もっとも、この男が、どんな顔で冗談を言うのか、富士男は知らなかった。
「それから、目印」
ドッチモは、人差し指を一本、立てた。
「スターは、密会のときは、劇中の、ドン・ファンの衣装に着替えて来るよ。黒いマントと、仮面と、羽根のついた帽子。それが来たら、スターだからね」
言い終えると、ドッチモは、すっと立ち上がった。
「どうもありがとうねぇ」
何に礼を言ったのか、分からなかった。ドッチモは、来たときと同じように、音もなく襖の向こうへ消えていった。裂けたズボンの布が、廊下の角で、ひらりと揺れて見えなくなった。
富士男は、寝椅子の上で、しばらく、ぽかんとしていた。
目隠し。手を縛る。布団がいっぱいの部屋。ドン・ファンの衣装。
「……スターって、すげぇフェチだな」
思わず、声に出ていた。
少しだけ、引いた。
けれど、すぐに、まあいいか、と思い直した。
富士男は、遊び人だった。自分でも、それは分かっている。誰かと付き合っては、すぐに捨てられるか、すぐに飽きて、こちらから捨てる。その繰り返しのあいだに、いろんな好みの男に会ってきた。目隠しくらいで、驚くほどうぶではない。受け入れるか、断るかは、その時の気分しだいだった。
今回は、受け入れる。
相手は、ハリウッドのスターだ。世界中が見ている人だ。その人が、自分をアメリカへ連れて行きたいと言った。目隠しで気に入ってもらえるなら、いくらでもする。
富士男は、寝椅子から降りて、部屋の隅の、自分の鞄の前にしゃがみこんだ。
着いた日から、一度も、中身を広げていない鞄だった。どこの宿に泊まっても、富士男は、鞄を広げない。いつでも、すぐに出ていけるように。本人は、なぜそうしているのか、考えたこともなかった。
鞄の底に、手を突っこんだ。
着替えの下から、小さな巾着袋が出てきた。中には、色とりどりの布が、きちんと畳んで詰めてある。富士男の、ささやかなコレクションだった。
富士男は、一本ずつ、指でつまみ上げては、また戻した。白。赤。紺。
そして、黒いのを一本、引っぱり出した。
布の少ない、黒い褞だった。前に、小さな三角がひとつ。あとは、ほとんど紐だけだ。どこかの夜に、誰かが、黒猫みたいでいいね、と言ったやつだった。誰だったかは、もう覚えていない。
「……これ、だな」
富士男は、黒い褞を、指先でくるくると回した。
それから、ふと、座卓の上の色紙が目に入った。島の町内会長の孫が、大ファンなのだという。
富士男は、機嫌のいいまま、座卓に戻って、マジックのキャップを外した。色紙の真ん中に、大きく、自分の名前を書いた。おまけに、隅っこに、猫の顔を一つ、描き足してやった。
◇
兼田が部屋に戻ったのは、七時を少し回った頃だった。
社長との打ち合わせは、いつもどおり、手短だった。明日は撮影の最終日で、夕方五時に最後のカットを撮る。夜は、打ち上げを兼ねた仮装の宴会。宴会の段取りは、宿と漁協に任せてある。社長は、段取り表を指でなぞりながら、それだけを、言い切る口調で確かめた。
富士男の話は、一度も出なかった。
おとといの夜、楽屋で富士男を叱りつけたことについても、社長は何も言わなかった。兼田も、聞かなかった。社長が、なぜあんなに本気で叱ったのか、兼田には、今も分からない。
打ち合わせの帰りに、主役の取り巻きの一人から、色紙を一枚、受け取ってきた。主役のサインが、流れるような筆記体で、大きく書いてある。町内会長は、さぞ喜ぶだろう。
兼田は、色紙を小脇に抱えて、部屋の襖を開けた。
富士男は、縁側の籐の寝椅子に、寝そべっていた。鼻歌を歌っている。足の指を、ひょいひょいと動かしている。
機嫌が、いいらしかった。
兼田は、座卓の上に目をやって、少し驚いた。
置いていった色紙に、もう、サインがしてあった。真ん中に、大きく、富士男の名前。隅っこに、下手くそな猫の顔が、一つ描いてある。
「……書いてくれたのか」
「うん。孫が、ファンなんでしょ」
富士男は、振り向きもせずに言った。
兼田は、色紙を手に取って、しばらく眺めた。いつもなら、サインを一枚頼むのにも、三回は文句を言われる。それが、頼む前に、書いてある。猫の顔まで、おまけについている。
珍しいこともあるものだ、と兼田は思った。
ゆうべ、今日あいつに何か言われたか、と聞いたとき、富士男は、さあ、どうだったかな、とはぐらかした。兼田は、一日じゅう、胃の底にそれを抱えていた。
けれど、この機嫌のよさを見ていると、取り越し苦労だったのかもしれない、という気がしてきた。あいつは、富士男に、何も言わなかったのかもしれない。本人に聞く、というのは、ただの捨て台詞だったのかもしれない。
兼田は、二枚の色紙を、そろえて座卓の上に置いた。主役の筆記体と、富士男の名前と猫の顔が、並んだ。
「フジオ」
「なあに」
「……ありがとな」
富士男は、寝椅子の上で、くすりと笑った。
部屋の隅の、富士男の鞄の口から、黒い紐が一本、ちょろりとのぞいていた。兼田は、それには、気づかなかった。




