十月三十一日 日没 大広間
夕日が、港の西の沖に、沈みかけていた。
浮き桟橋の先で、合板の帆船が、最後の光を浴びて、金色に縁取られている。その舳先に、白い麻のスーツの男が一人、立っていた。腰の深紅の帯の端が、夕方の風に、ゆっくりとひるがえっている。
日本ロケの、最後のカットだった。
劇中の異国の男が、この港を去っていく場面。船の上から、一度だけ、港を振り返る。それだけの、短いカットだ。
財津は、カメラの斜め後ろで、無線を握っていた。
「本番。よーい」
カチンコが鳴った。
舳先の男が、ゆっくりと振り返った。港を見る。人垣を見る。岸壁を見る。その目が、ほんの一瞬、カメラの斜め後ろで止まった。
財津は、目を逸らさなかった。逸らしたら、カットが台無しになる。そう自分に言い聞かせた。
男は、また前を向いた。沖を見た。夕日の中に、その横顔が、黒く沈んでいった。
五秒。六秒。七秒。
「……カット」
財津は、無線に向かって、言い切った。
「日本ロケ、これで、全部終了です。お疲れさまでした」
一瞬の静けさのあと、港じゅうから、拍手が湧き起こった。撮影隊の誰かが指笛を吹き、地元の子どもたちが、わけも分からずに歓声を上げた。照明部が、ライトを一つずつ落としていく。四日間、港を照らし続けた白い光が、消えていく。
舳先の男が、こちらを見ているのが分かった。
財津は、背を向けた。
「撤収。照明から。ケーブル、海に落とすなよ」
言い切る声が、いつもより、少しだけ大きかった。
◇
日が落ちると、崖の上の宿の玄関に、カボチャのランタンが灯った。
美術部が、撮影で余った小道具で作ったものだ。くりぬいたカボチャの目と口から、ろうそくの火がちらちらとのぞいている。その横に、大きな立て看板が置かれていた。ハロウィンのお化けのキャラクターが、にっこり笑っている絵の下に、宿の主人の手書きの文字。
「仮装飲み会なので、好きな衣装を着て、顔を隠してお入りください。本日は無礼講とします。どなた様もお気兼ねなく、お楽しみください」
玄関の奥の廊下には、物干し竿が何本も渡してあって、衣装や、帽子や、仮面が、ずらりと吊るされていた。魔女のとんがり帽子。海賊の眼帯。骸骨の模様のつなぎ。どこから集めてきたのか、着ぐるみの頭まで、いくつかぶら下がっている。
「おじゃれ。お着替えは、こちらのお部屋でどうぞ」
案内しているのは、宿の仲居さんだった。いつもの和服の上に、なぜか、メイドの白いカチューシャをつけている。その後ろでは、男の従業員が、鼻から上だけの骸骨の面をかぶって、黙々とおしぼりを運んでいた。
島の人たちが、ぞろぞろとやってきた。
漁師たちは、看板の前で、腕を組んで立ち止まった。吊るされた衣装を、一つずつ、うさんくさそうに眺める。
若い漁師の一人が、竿から、何かを一枚つまみ上げた。
紐だった。ほとんど、紐だけでできた、水着のようなものだった。
「……なんの祭りだら、これは」
「知らねえ。都会の祭りだら」
漁師たちは、顔を見合わせた。それから、ちらちらと、先に着替えを済ませた撮影隊のスタッフたちを見た。骸骨のつなぎ、狼男の手袋、血のりのついた白衣。みんな、楽しそうに、顔を隠して大広間へ入っていく。
漁師たちは、紐の水着をそっと竿に戻して、代わりに、天狗の面と、ひょっとこの面を、一つずつ手に取った。
大広間には、座卓が二列に並び、上座の床の間の前には、ジャック・オー・ランタンが一つ、据えてあった。
壁には、オレンジと紫のハロウィンのバナーが、ぐるりと張りめぐらされている。そのすぐ隣に、漁協が持ちこんだ、色鮮やかな大漁旗が、何枚も、どんと貼られていた。鯛と波と、縁起のいい文字の、極彩色の旗だ。
異国の死者の祭りの飾りと、海の神様に大漁を願う旗が、同じ壁に、肩を並べて、ぶら下がっていた。どちらも本気で、どちらも、少しずつ場違いだった。
◇
財津は、尖った魔法使いの帽子をかぶり、黒い仮面をつけ、深い紫のローブを、作業着の上から頭からかぶっていた。
すぐに抜け出せる格好だった。何かあれば、帽子と仮面を外し、ローブを脱ぎ捨てれば、いつもの作業着に戻れる。現地の責任者は、宴会の最中でも、何が起きるか分からない。
財津は、大広間の下座寄りの席に座った。隣には、ドラキュラがいた。
襟の高い黒いマントに、真っ赤なベスト、白いドレスシャツ。口の端から、作り物の牙が二本、のぞいている。会長だった。仮面はつけていない。顔は丸出しだ。それなのに、どこから見ても、にこにこしたドラキュラにしか見えなかった。
「似合うねえ、マサくん」
会長は、牙のせいで、少しもごもごした声で言った。
「……会長こそ」
組合長が、上座で立ち上がった。天狗の面を、額の上に押し上げている。
「えー、撮影隊の皆さま、四日間、本当にお疲れさまでした。島をあげて、皆さまのご活躍を、心からお祝い申し上げます。乾杯!」
「乾杯!」
大広間じゅうで、グラスが鳴った。
その横で、「地獄耳」のTシャツの上に、なぜか、ジンベエザメの着ぐるみの頭だけをかぶったドッチモが、すっと立ち上がった。
「(英語で)お疲れさまでした、と言っています」
ドッチモは、上座のスターと取り巻きたちのほうへ、にこにこと続けた。
「(英語で)それから、明日からやっと静かになる、と。漁協の倉庫に置きっぱなしの照明の箱は、ちゃんと全部、持って帰ってね、とも」
財津は、グラスを持ったまま、固まった。
スターの取り巻きたちが、口の端を引きつらせて、取り繕った笑顔になった。
組合長は、また、首をかしげていた。一言しか言っていないのに、なぜ、こんなに長いのか。
スターが、上座で、ゆっくりと立ち上がった。返礼の挨拶だった。
「(英語で)温かいおもてなしに、心から感謝します。この美しい島のことは、一生、忘れません」
型どおりの、立派な挨拶だった。
ドッチモは、くるりと、今度は地元の人たちのほうへ向き直った。
「温かいおもてなしを、ありがとう、と言っています」
かく、かく、と頷いて、続けた。
「それから、何にもない島で、正直、窮屈だったけど、魚は、うまかった、温泉は最高だったと」
大広間の地元の人たちが、天狗やひょっとこの面の下で、いっせいに、取り繕った笑顔になった。
誰も、訂正しなかった。叱り飛ばせば、場が凍りつく。それに、ドッチモの訳は、半分くらい、本当のことだった。
財津は、仮面の下で、深いため息をついた。
それから、何気なく、上座のほうへ、目をやった。
息が、止まった。
乾杯の挨拶のあいだは、人の頭に隠れて見えていなかった。上座の座布団に、どっかりと座っていたのは、白い麻のスーツの男ではなかった。
金糸の刺繍がびっしりと入った、深紅の長衣。腰には、宝石を模した飾りのついた幅広の帯。頭には、白い布を幾重にも巻き上げた、異国の王子のかぶりもの。
セリムの衣装だった。
あいつを、世界中に知らしめた、出世作の。財津が、あいつの前から消えたあとに、あいつが手に入れた、成功の、いちばん目に見える形だった。
雑誌の写真で、何度も見た。表紙で、ポスターで、映画館の看板で。けれど、本物を、この目で見るのは、初めてだった。
財津の手の中で、グラスが、かすかに揺れた。
隣で、会長が、のんびりとグラスを傾けていた。
財津は、仮面の下で、低くつぶやいた。
「……ふざけたカッコしやがって」
声が、かすれた。
「……まだ、持ってたのか」
会長は、何も言わなかった。牙ののぞく口元で、にこにこと笑ったまま、財津のグラスに、黙って酒を注ぎ足した。
財津は、注ぎ足された酒から、顔を上げた。
上座から、セリムの王子さまが、こちらを見ていた。
大広間の端から端まで、何十人もの仮装の頭越しに。深い紫のローブの、尖った帽子の、大柄な魔法使いを、まっすぐに。
目が合った。
王子さまの口の端が、ほんの少しだけ、持ち上がった。満足そうに。それから、何事もなかったように、隣の取り巻きのほうへ顔を向けた。
財津は、仮面の下で、奥歯を噛んだ。
わざとだ。
あいつは、わざと、あの衣装を着てきたのだ。この広間のどこかに、自分がいると知っていて。自分が、どんな顔をするか、見るために。
◇
ブギーマンの着ぐるみは、思っていたより、ずっと重かった。
頭のてっぺんから膝の下まで、すっぽりかぶる、大きな麻袋だった。荒く縫い合わされた袋の表に、黒い糸で、目の穴と、にたりと笑う口が縫いつけてある。中には綿がたっぷり詰めてあって、兼田のもともと出ている腹が、さらに倍くらいにふくらんで見えた。廊下の竿に吊るしてあった中で、いちばん顔も体も隠れそうなものを選んだら、これになった。麻袋の内側は、もう汗でじっとりと湿っている。目の穴が小さくて、横がほとんど見えない。
それでも、兼田の足取りは、軽かった。
ゆうべ、色紙のサインを見てから、胃の重さが、すっと消えていた。富士男は、機嫌がいい。思いつめた顔もしていない。あの男は、結局、富士男に何も言わなかったのだ。本人に聞く、というのは、ただの捨て台詞だった。
もう、あの話は、終わったのだ。
兼田は、一升瓶を片手に、座卓のあいだを回った。撮影隊のスタッフに注ぎ、漁協の役員に注ぎ、宿の主人にも注いだ。マネージャーとは、こういう席では、酌をして回るものだ。誰にどれだけ注いだか、兼田は、だいたい全部覚えている。
大広間の端の席で、照明部のベテランに三杯目を注いでいたときだった。
大広間の反対側で、どっと歓声が上がった。
手拍子が鳴り、指笛が飛んだ。地元の漁師たちの、腹の底からの笑い声。兼田は、一升瓶を持ったまま、振り向いた。麻袋の目の穴が小さくて、すぐには何が起きているのか分からなかった。
首をめいっぱい回して、ようやく、見えた。
上座の前に、白いゴーストが一体、立っていた。頭からすっぽりかぶった白い布の、ちょうど腹のあたりに、黒い目と口が描いてある。富士男だった。
ゴーストは、ちょうど、白い布を、すとんと下ろして、かぶり直したところだった。
その下で、何が起きていたのかは、分からなかった。ただ、大広間じゅうが、拍手喝采していた。漁師たちが、膝を打って笑っていた。上座のセリムの王子さまは、刺繍の長衣の膝を組んで、満足そうに、手を叩いていた。
兼田は、麻袋の中で、頭を抱えた。
何をやったんだ、あいつは。
聞くのが、怖かった。
ゴーストは、人気者になっていた。漁師たちに次々と声をかけられ、杯を差し出され、白い布の下から、うれしそうな笑い声をこぼしている。
兼田は、深く息を吸った。
それから、一升瓶を抱え直して、上座へ向かった。マネージャーの仕事だった。
セリムの王子さまの前に、膝をついた。王子さまの杯が、空になっていた。
兼田は、一升瓶を傾けて、なみなみと注いだ。そして、麻袋をかぶったまま、深く頭を下げた。
「先ほどは、つまらないものをお見せして、お騒がせして、申し訳ありません」
言ってから、兼田は、自分が日本語で言ったことに気づいた。言い直そうかと思ったが、王子さまは、言葉は分からないまま、麻袋の怪物に頭を下げられたことにだけ、口の端で笑って、杯を軽く掲げてみせた。
朝風呂のことを、覚えているのかどうか。この面の下が自分だと、分かっているのかどうか。兼田には、分からなかった。
兼田が、一升瓶を抱えて下がろうとしたとき、ドラキュラが、ふらりと上座にやってきた。
会長だった。黒いマントのすそを引きずって、にこにこしながら、王子さまの前に立った。仮面は、つけていない。牙をのぞかせた、丸出しの素顔だった。
会長は、王子さまに、英語で、何か一言、言った。
「(英語で)元気そうで、何より」
王子さまは、刺繍の長衣の袖を少し持ち上げて、愛想のいい、型どおりの笑顔を返した。
「(英語で)ありがとう」
それだけ言うと、王子さまは、もう、隣の取り巻きのほうに顔を向けて、話し始めていた。ドラキュラの扱装の、地元のお偉いさんか何か。そのくらいにしか、思っていない顔だった。
会長は、にこにこしたまま、何も言わずに、上座から下がっていった。
兼田は、一升瓶を抱えたまま、その背中を見送った。
元気そうで、何より。
初めて会った相手に言う言葉では、なかった。けれど、どういう意味なのか、兼田には、まるで分からなかった。
兼田は、首をかしげて、また、次の座卓へ、酌をしに向かった。
もう、あの話は、終わったのだ。今夜は、ただの、楽しい打ち上げなのだ。兼田は、麻袋の中で、そう思っていた。




