十月三十一日 午後八時 車寄せ
「社長さん、ちょっと、よろしいですか」
八時を少し回った頃、宿の主人が、下座の財津の席へ、腰をかがめてやってきた。宴会の席でも、宿の用件は、全部、現地の責任者のところへ来る。この四日間、ずっとそうだった。
主人は、明日の撤収の段取りを、一つずつ確かめていった。照明の箱をいつ港へ下ろすか。布団の数。朝の弁当。財津は、仮面を少しずらして、一つずつ、言い切る口調で答えた。
「それと、そういえば」
主人は、手帳を閉じかけて、思い出したように言った。
「九時からの、旧館の撮影は、照明は要らねえんですか」
財津は、顔を上げた。
「……旧館の、撮影?」
「はい。きのう、脚本家さんが、旧館の奥の布団部屋の鍵を、借りていかれましてね。今夜九時から、主役さんがドン・ファンの格好で使う場面があるから、誰も近づけねえでくれ、と。わしらも、近寄らねえようにしてますが、照明が要るなら、延長コードくらいは出しますよ」
財津は、手の中のグラスを、ゆっくりと座卓に置いた。
九時から、旧館で撮る場面など、ない。撮影は、夕方の最後のカットで、全部終わっている。ドン・ファンの衣装は、衣装部屋のラックに吊るしたままのはずだ。
「……分かりました。照明は、要りません。ありがとうございます」
財津は、それだけ答えた。主人は、首をかしげながら、帳場へ戻っていった。
財津は、仮面の下で、広間を見回した。
上座では、セリムの衣装の男が、取り巻きに囲まれて、杯を傾けていた。誰かの冗談に、型どおりの笑顔で応えている。
広間の真ん中では、ゴーストの白い布が、漁師たちに囲まれて、ちやほやされていた。白い布の下から、うれしそうな笑い声が漏れてくる。けれど、そのゴーストは、話の合間に、ちらちらと、大広間の柱の古い振り子時計を見上げていた。一度。二度。三度。
財津の頭の中で、ばらばらだったものが、一つずつ、つながっていった。
二十八日の夜、本番前の楽屋に、フードをかぶって忍びこんだ富士男。港での、台本の外のアドリブ。宿に、連れこんだこと。脚本家は、主役の手足のように動いている男だ。その脚本家が、主役の名前で、今夜九時に、旧館の奥の、誰も来ない部屋を押さえた。
主役は、どこかで、セリムの衣装を脱ぎ、ドン・ファンに着替えて、取り巻きを離れ、一人で、その部屋へ行くつもりなのだ。
待っているのは、時計を気にしている、あの子だ。
財津の背中に、冷たいものが走った。
二十年前の、狭い玄関が、目の前に浮かんだ。一番いい、襟の糊の少し黄ばんだシャツを着て、夜の街へ出ていこうとした、栗毛の若い男。これから、あのプロデューサーのところへ、食事に行ってくる。
あの夜は、襟をつかんで、止めた。
今夜は、どうする。
富士男を見つけて、保護するか。けれど、富士男は、猫のようにすり抜けていく子だ。ゴーストの白い布の下で、何を考えているのか、財津には分からない。一晩じゅう見張っていることなど、できない。
なら、止めるのは、スターのほうだ。
財津は、もう一度、上座を見た。
セリムの衣装の男の、目の下の、メイクで塗りつぶした隈を、財津は、もう知っていた。
彼、眠れてないみたいだね。
二日前の、会長の声が、耳の奥で鳴った。
スターが、取り巻きを離れて、一人になる。その一瞬を、横から、さらってしまえばいい。密会そのものを、起こさせなければいい。
そして。
財津は、仮面の下で、ゆっくりと息を吐いた。
それが、最後の話になる。
あいつは、明日の朝、船に乗る。二度と、この国には来ないかもしれない。二十年、顔も見ずに過ごしてきた。このまま、帽子のつばの下に隠れたまま、別れることもできる。
けれど、あいつは、眠れていない。
なら、せめて、一度だけ。お互い、元気そうで何より。それじゃ。それだけ言って、別れたい。あいつのためにも。自分の気持ちにも、区切りをつけるために。
財津は、隣のドラキュラのほうを向いた。
◇
「会長」
「うん?」
会長は、刺身をつまむ手を止めて、牙をのぞかせたまま、にこにこと財津を見た。
財津は、声を落として、短く話した。宿の主人の話。脚本家が、主役の名前で押さえた、旧館の奥の部屋。九時。ドン・ファンの衣装。時計を気にしている富士男。スターが、今夜、一人で富士男に会いに行くつもりだということ。それを、自分が、運転手に化けて、横から連れ出すつもりだということ。そして、最後に、一度だけ、話をしてくるつもりだということ。
言い切る口調で、結論から話した。いつもの財津の話し方だった。
会長は、黙って聞いていた。うん、うん、と、二度だけ頷いた。
それから、ドラキュラのマントの襟を、ちょっと直して、のんびりと言った。
「最後の時間だ」
会長は、にこにこしていた。
「話しておいで」
それだけだった。止めもしなかった。手伝うとも、言わなかった。会長は、また、刺身に箸を伸ばした。
財津は、尖った帽子を、かぶり直した。
◇
財津は、席を立った。
深い紫のローブのすそをさばいて、座卓のあいだを抜ける。大広間は、手拍子と笑い声でいっぱいだった。誰も、魔法使いが一人、上座のほうへ歩いていくのを、気にとめなかった。
組合長は、天狗の面を額に押し上げて、漁師たちと焼酎を酌み交わしていた。
財津は、その横に膝をついて、仮面を少しだけずらした。
「組合長。八時半に、いったん中締めの挨拶をお願いできますか」
「中締め? もうかい」
「撮影隊の中には、本船に戻る者もいますので。区切りを、つけていただけると」
組合長は、赤い顔で、うんうんと頷いた。
「おう、まかしとけ」
財津は、深く頭を下げて、立ち上がった。
次に、廊下へ出た。
大広間の外の廊下で、メイドのカチューシャをつけた仲居さんが、空いた徳利を盆に集めていた。財津は、仲居さんを呼び止めて、廊下の隅へ寄せた。
「一つ、お願いがあります」
仲居さんは、魔法使いの仮面を見上げて、きょとんとした。
「八時半に中締めがあります。そのあとで、主役の方に、そっと伝えてもらえますか。お車の用意ができました、お一人でおいでください、と」
「どなたからと、申し上げれば」
「名前は、言わなくていいです」
財津は、それだけ言った。仲居さんは、少し首をかしげたが、何も聞かずに頷いた。撮影隊が来てから四日、この宿の人たちは、撮影隊の妙な頼みごとには、すっかり慣れていた。
財津は、廊下を、本館の奥へ急いだ。
宴会場の裏の、ふだんは物置きに使われている小部屋が、撮影隊の衣装部屋になっていた。ハンガーラックが何列も並び、劇中の衣装が、場面ごとに、ビニールのカバーをかけて吊るしてある。入口の机で、若い衣装係が一人、明日の撤収のための目録をつけていた。
財津は、仮面を外して、帽子を脇に抱えた。
「仮面舞踏会の、ドン・ファンの一式。出してくれ」
衣装係は、顔を上げて、財津を見た。それから、何も聞かずに、奥のラックへ立っていった。
現地の責任者が、撤収の前に衣装を確かめに来る。この四日間、何度もあったことだった。何がどこにあるのか、どの衣装が、どの場面で、誰の体に合わせて作られたのか、財津は全部、頭に入っている。衣装係にとっては、主役のサインを自分で頼まずに取り巻きに預けるほうが、よほど不思議だったろう。
衣装係が、ビニールのカバーに包まれた一式を抱えて戻ってきた。
黒いマント。顔の上半分を覆う、黒い仮面。黒い鍔広の帽子に、白い羽根が一本、ゆったりと差してある。
「目録には、確認のため貸し出し、と書いておいてくれ」
「はい」
財津は、衣装を抱えて、衣装部屋を出た。
廊下の窓の外は、もう真っ暗だった。玄関棟の車寄せに、灯りが一つ、ぽつんと灯っている。その下に、黒いハイヤーが、一台止まっていた。
運転席に、人影があった。
財津は、衣装を抱え直して、渡り廊下を、玄関棟のほうへ急いだ。
◇
玄関棟の駐車場は、狭かった。
車寄せに、灯りが一つ。その下に、黒いハイヤーが一台、鼻先を海のほうへ向けて止まっている。昼間あれほど吹いていた風は、すっかり落ちていた。凪いだ夜気が、しんと冷たい。宿の前には、温泉の硫黄の匂いと湯気が、ゆっくりと漂っていた。崖の下から、潮が引いていく磯の匂いが、少しずつ上がってくる。
本館の大広間のほうから、手拍子と笑い声が、遠く聞こえていた。渡り廊下の窓に、宴会場の明かりが、黄色くこぼれている。
成瀬は、エンジンを切った運転席で、膝の上で手を組んでいた。
制服に、帽子。いつもの格好だった。宴会がお開きになったら、酔ったスタッフたちを、宿の離れや港の近くの民宿まで、何往復かして送り届ける。それまで、ここで待つ。それが、今夜の成瀬の仕事だった。
本当は、少しだけ、広間に行ってみたかった。
玄関の掲示板の貼り紙を、成瀬は、二度読んだ。仮装の宴会。顔を隠して、無礼講。顔を隠していれば、自分だと気づかれずに、富士男さんの隣に座って、同じ酒を飲めるかもしれない。
けれど、玄関の廊下に吊るされた衣装を見て、成瀬は、足がすくんでしまった。魔女の帽子も、海賊の眼帯も、自分には似合いそうになかった。紐だけの水着など、論外だった。結局、何も選べずに、車に戻ってきた。
成瀬の息で、フロントガラスが、少しずつ白く曇っていった。
こんこん、と、運転席の窓が鳴った。
成瀬は、跳び上がりそうになった。
窓の外に、大きな影が立っていた。深い紫の、魔法使いのローブ。脇に、尖った帽子と、仮面を抱えている。もう片方の腕に、ビニールのカバーに包まれた、何か黒いものを抱えていた。
社長だった。
成瀬は、慌てて窓を下ろした。
「は、はい」
「成瀬くん」
成瀬は、息をのんだ。
名前で、呼ばれた。運転手さん、でも、おい、でもなく。成瀬くん、と。
社長は、運転席の窓のすぐ横で、腰をかがめた。それから、ビニールのカバーに包まれたものを、窓から、成瀬の膝の上に、そっと差し入れた。
「頼みがある」
成瀬は、膝の上のものを見下ろした。カバー越しに、黒いマントと、仮面と、白い羽根のついた鍔広の帽子が、透けて見えた。
「これを着て、スターのふりをしてくれないか」
「……え」
「富士男が、今夜、ドン・ファンの衣装の主役を待っている。この衣装を着て、広間の、あの子の隣に、座っていてくれればいい。口は、きかなくていい。黙って、座っていてくれれば、それでいい」
社長は、結論から、言い切った。それから、ほんの少しだけ、声を落とした。
「時間を、稼いでほしい。今夜、あの子を、一人にしないでやってくれ」
成瀬には、何のことだか、よく分からなかった。スターのふり。時間稼ぎ。富士男さんを、一人にしない。
けれど、一つだけ、分かった。富士男さんの隣に、座っていられる。
「それと」
社長は、成瀬の制服の胸のあたりを、指さした。
「その服を、借りたい」
「……はい?」
「運転手が、もう一人要る」
社長は、そう言うと、運転席の窓の外で、深く、頭を下げた。腰から折れて、背中がまっすぐ地面と平行になるくらいの、深いお辞儀だった。
「頼む」
成瀬は、窓の外の、紫のローブの大きな背中を、ぽかんと見ていた。
誰かに、頭を下げて、頼まれたのは、生まれて初めてだった。
◇
二人は、ハイヤーの中で、服を入れ替えた。
成瀬は、運転席で、制服の上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、帽子を取った。それを、後部座席の社長に、一枚ずつ渡した。社長は、紫のローブを頭から脱いで、成瀬に渡した。成瀬は、ローブを丁寧に畳んで、助手席に置いた。尖った帽子と、仮面も、その上に重ねた。
成瀬は、ドン・ファンの黒いマントを肩に回し、仮面をつけ、羽根のついた帽子をかぶった。ルームミラーに、知らない男が映った。黒ずくめの、謎めいた、劇中の色男。
ミラーの端で、社長が、成瀬の制服に袖を通していた。
成瀬は、思わず、ミラーをのぞきこんだ。
社長の手首が、袖から、にゅっと飛び出していた。上着の前は、ボタンが届かない。肩の縫い目が、みしみしと鳴っている。成瀬は、背が低くて、がっしりしている。社長は、背が高くて、もっとがっしりしている。百六十五センチの服に、百八十センチの体が、むりやり詰めこまれていた。ズボンの裾は、くるぶしの上で止まっていた。
「社長、袖が」
「いいよ。暗いから」
社長は、平然と言った。
最後に、社長は、成瀬の運転手の帽子を手に取って、頭にのせた。けれど、成瀬の頭に合わせた帽子は、社長の頭には小さくて、ちょこんと浮いていた。
成瀬は、運転席から身を乗り出した。考えるより先に、手が出ていた。社長の頭の帽子をつかんで、ぐい、と深く引き下ろしてやった。つばが、社長の目元を、ちょうどよく隠した。
社長は、一瞬、驚いたように、ミラーの中の成瀬を見た。
それから、小さく、頷いた。
「ありがとう」
成瀬は、何と答えていいか分からずに、頭を下げた。下げた拍子に、帽子の白い羽根が、ハンドルに当たって、ぽよん、と揺れた。
社長は、後部座席のドアを開けて、外へ出た。それから、運転席の窓をのぞきこんで、言った。
「スターが出てきたら、携帯を一度だけ鳴らす。鳴ったら、車を降りて、玄関を避けて、渡り廊下の勝手口から広間へ行ってくれ。それまでは、ここで待っていてくれ」
「は、はい」
社長は、制服のつんつるてんの袖をちょっと引っぱって、車寄せの灯りのほうへ歩いていった。大きな背中が、窮屈そうに、灯りの中に立った。
成瀬は、一人、運転席に残された。
黒いマントの中で、心臓が、どきどきしていた。
頼まれた。
社長に、名前で呼ばれて、頭を下げられて、頼まれた。
なんでね、と成瀬は思った。なんで、自分なんかに。
助手席の、畳んだ紫のローブを見た。その上の、尖った帽子と、仮面。社長の服を、自分が預かっている。
成瀬は、制服のポケットから移しておいた携帯を、マントの内側で、ぎゅっと握りしめた。そして、鳴るのを、待った。
◇
八時半。
大広間の上座で、組合長が、天狗の面を額に押し上げて立ち上がった。手拍子が、ぱらぱらと止む。
「えー、宴もたけなわではございますが、ここらで、いったん、中締めとさせていただきます」
組合長は、きょろきょろと広間を見回して、ジンベエザメの頭を見つけると、手招きした。
「さ、ドッチモ、今度も同時通訳お願いします」
広間じゅうの目が、上座に集まった。ジンベエザメの頭が、うれしそうに、ゆらゆらと揺れた。
誰も、上座の端で、メイドのカチューシャの仲居さんが、セリムの王子さまの耳元に、そっと身をかがめたのに、気づかなかった。
仲居さんは、二言三言、ささやいた。お車の用意ができました。お一人で、おいでください。
王子さまの目が、一瞬、見開かれた。
誰からなのか、仲居さんは言わなかった。けれど、王子さまの口元に、ゆっくりと、笑みが浮かんだ。誰かからの誘いを、待ちかねていた人の笑みだった。
王子さまは、隣の取り巻きに、何か短く言った。
取り巻きたちは、顔を見合わせた。それから、慣れた手つきで、手荷物をまとめ始めた。中締めは、お開きの合図だ。旅慣れた彼らは、そう受け取っていた。主役は、あとの船で行くと言っている。いつものことだった。黒い服の四人は、組合長の挨拶が終わらないうちに、さばさばと広間を出ていった。港の小舟で、本船へ戻るのだろう。
ドッチモは、組合長の挨拶を、英語で、長々と訳していた。上座のほうは、見ていなかった。
◇
八時四十分。
玄関棟の車寄せの灯りの中に、人影が一つ、現れた。
刺繍の長衣を、軽く片手でたくし上げて、王子さまが、一人で、玄関から出てきた。夜の冷たい空気に、深紅の衣が、黒ずんで見えた。
車寄せの柱の陰で、つんつるてんの制服の大男が、帽子のつばを、もう一度、深く引き下ろした。
それから、ポケットの携帯の、ボタンを一つだけ押した。
◇
マントの内側で、携帯が、ぶるっと震えた。
一度だけ。
成瀬は、跳ねるように顔を上げた。
握りしめていた携帯を、マントの内側に押しこんだ。助手席の側のドアを、音を立てないように、そっと開けた。車寄せの灯りとは反対の、暗いほうへ、体を滑り出させた。
黒いマントが、夜気をはらんで、ひるがえった。
成瀬は、駆け出した。
玄関を避けて、建物の陰を回りこむ。足元の砂利が、ざくざくと鳴る。帽子の羽根が、風を切って揺れる。渡り廊下の勝手口の、小さな灯りが見えた。
頼まれたのだ。
名前を呼ばれて、頭を下げられて、頼まれたのだ。
成瀬は、生まれて初めて、誰かに頼まれた役目を果たしに、自分の足で、走っていた。
勝手口の戸を、引き開けた。廊下の奥から、大広間の手拍子と笑い声が、どっと押し寄せてきた。
成瀬は、仮面の位置を直して、マントのすそを整えて、大広間へ向かった。




