十月三十一日 午後九時 大広間
大広間の襖を、そっと開けた。
熱気が、顔に押し寄せてきた。酒と、焼き魚と、汗と、白粉の匂い。手拍子。笑い声。誰かが調子っぱずれの演歌を歌っている。中締めが済んで、撮影隊の何人かは帰っていったらしいが、地元の人たちの宴会は、むしろ、ここからが本番のようだった。
成瀬は、仮面の位置を、もう一度直した。
黒いマントのすそを踏まないように、そろそろと、座卓のあいだを進む。羽根のついた帽子が、天井の提灯に、当たりそうになる。ひょっとこの面の漁師が、すれ違いざまに、おっ、と声を上げた。誰も、成瀬だとは気づかない。
広間の真ん中に、白いゴーストがいた。
成瀬の心臓が、跳ねた。
富士男さんだった。白い布をかぶっていても、成瀬には分かる。布のすそからのぞく、白い足首。あの足首を、成瀬は、毎朝、車のドアを開けるときに見ている。
ゴーストの隣が、一つ、空いていた。
成瀬は、社長に言われたとおり、その空いた座布団に、黙って腰を下ろした。マントのすそを、膝の下にたくしこむ。
ゴーストが、こちらを向いた。
白い布に描かれた黒い目と口の、すぐ下から、富士男さんの本物の目が、のぞいた。その目が、黒いマントと、仮面と、白い羽根の帽子を、上から下まで、ゆっくりと見た。
それから、ぱっと、輝いた。
富士男さんは、成瀬のほうへ身を寄せた。白い布越しに、肩が触れた。そして、成瀬の耳元に、英語で、何か、ささやいた。
甘い声だった。
成瀬には、一言も分からなかった。分かったのは、富士男さんの息が、仮面の縁をかすめて、耳たぶに当たったことだけだ。
成瀬は、固まった。
口は、きかなくていい。社長は、そう言った。黙って、座っていてくれれば、それでいい。
成瀬は、黙っていた。黙っているしかなかった。
富士男さんは、くすくすと笑った。それから、また、英語で何か言った。今度は、からかうような、拗ねたような声だった。成瀬が何も答えないのを、何かの遊びだと思っているらしかった。富士男さんは、ますます機嫌よく、白い布の下で、成瀬の膝に、自分の膝をくっつけてきた。
成瀬は、仮面の下で、汗をかいた。
そこへ、どやどやと、漁師たちがやってきた。天狗の面と、ひょっとこの面と、おかめの面。どの顔も、焼酎で真っ赤になっている。
「おう、ゴーストの兄ちゃん、ここにいたか」
天狗が、富士男さんの肩を、ばんと叩いた。
「さっきの黒いのは、見事だったなあ」
成瀬は、仮面の下で、目を見開いた。
黒いの。
ひょっとこが、焼酎のグラスを振り回して、げらげら笑った。
「ありゃあ、鯛より活きがよかったら。わしら、六十年、網を引いてるが、あんな見事なもんは、見たことがねえ」
富士男さんは、白い布の下で、得意そうに胸を張った。
おかめが、成瀬のほうに、ぐいと顔を突き出した。
「そっちの黒いマントの兄さんも、ちゃんと見たかね。あの子の、黒いの」
成瀬は、何も言えなかった。
見ていない。成瀬は、その頃、まだ、ハイヤーの運転席にいた。宴会場の手拍子と歓声を、渡り廊下の窓越しに、遠く聞いていただけだ。
黒いの。鯛より、活きがいい。六十年網を引いても、見たことがない。
成瀬の頭の中で、見てもいないものが、勝手に、どんどん膨らんでいった。白い布。その下の。黒い、何か。
なんばしよったとね、富士男さん。
成瀬は、仮面の下で、ごくりと唾を飲んだ。
漁師たちは、言いたいことを言うと、また別の座卓へ、どやどやと移っていった。
◇
大広間の柱の、古い振り子時計が、低く鳴った。
一つ、二つ。九つ。
富士男さんが、ぴくりと顔を上げた。
富士男さんは、座卓の上の、割りばしの袋を一枚、つまみ上げた。誰かの使った箸の、白い紙の袋だ。それを座卓に置いて、仲居さんが置いていったボールペンで、さらさらと何か書いた。
それから、袋を小さく折りたたんで、成瀬の手に、そっと握らせた。
富士男さんの指が、成瀬の手のひらを、くすぐるように撫でていった。
富士男さんは、また、英語で何か、ささやいた。最後の一言だけ、少し弾んだ声だった。
そして、立ち上がった。
「ちょっと、失礼」
今度は、日本語だった。周りの漁師たちに、ぺこりと頭を下げて、白い布のすそをひるがえして、広間の出口のほうへ、ふわふわと歩いていった。
成瀬は、座布団の上に、取り残された。
あっさりと、だった。
さっきまで、あんなに膝をくっつけてきていたのに。耳元で、あんなに甘い声を出していたのに。九時の鐘が鳴ったとたん、白い布は、振り返りもせずに、行ってしまった。
お預けだ、と成瀬は思った。
何のお預けなのかは、自分でも、よく分からなかった。
成瀬は、握らされたままの手を、そっと開いた。
小さく折りたたまれた、割りばしの袋。開くと、内側に、ボールペンの丸っこい字で、こう書いてあった。
「旧館 奥」
それだけだった。
◇
兼田が、その空いた座布団に気づいたのは、九時を、少し回った頃だった。
麻袋の中は、蒸し風呂だった。汗が、額から首筋へ、たらたらと流れていく。目の穴は小さくて、ほとんど正面しか見えない。兼田は、一升瓶を抱えて、広間の端から端まで、もう何周したか分からなかった。漁協の役員に注ぎ、宿の主人に注ぎ、照明部に注ぎ、地元の町内会長に、色紙のお礼を言われて、また注いだ。
一升瓶が、空になった。
兼田は、腰を伸ばして、麻袋の首を、ぐるりと回した。目の穴の端に、広間の真ん中が、ちらりと映った。
白いゴーストが、いなかった。
兼田は、もう一度、首を回した。麻袋の首が、ぎしぎしと鳴った。
いない。
さっきまで、確かに、広間の真ん中にいたのだ。漁師たちに囲まれて、ちやほやされて。その隣には、いつのまにか、黒いマントの男が座っていた。仮面をつけて、羽根のついた帽子をかぶった、ドン・ファンの衣装の男が。
そのドン・ファンも、いなかった。座布団が二つ、並んで空いていた。
兼田は、上座を見た。
セリムの衣装の王子さまも、いなかった。取り巻きの黒い服の四人も、いなかった。中締めのあと、本船へ帰ったのだろう。そう思っていた。けれど。
兼田の頭の中で、ばらばらだったものが、悪いほうへ、つながっていった。
あのドン・ファンは、主役だったのだ。
公の場で着ていたセリムの衣装を脱いで、取り巻きを先に帰して、劇中のドン・ファンの衣装に着替えて、一人で、富士男を迎えに来た。そして、二人で、どこかへ消えた。
本人に聞く。
朝風呂の湯の中で聞いた言葉が、麻袋の中で、わんわんと響いた。捨て台詞では、なかった。あの男は、本当に、富士男本人に聞きに来たのだ。そして、富士男は。
兼田は、空の一升瓶を、座卓に置いた。手が、少し震えていた。
富士男は、どこへ行くのか、言わなかった。
この十年、一度も、なかったことだった。富士男は、誰と会うにも、どこへ行くにも、必ず、兼田に言っていった。兼田が聞かなくても、言っていった。行ってくるね、とか、今夜は遅くなる、とか。それで、兼田は、富士男がどこにいるのかを、いつも知っていた。知っていれば、守れた。
今夜は、何も言わずに、いなくなった。
「……これは、ヤバイ」
兼田は、麻袋の中で、つぶやいた。
それから、麻袋のすそをたくし上げて、大広間を飛び出した。
◇
旧館の奥の襖は、少しだけ、開いていた。
脚本家が言ったとおりだった。鍵は、ボクが開けておくから。富士男は、鍵には触らずに、襖をそろりと引いた。
埃と、日に干した綿の匂いがした。
部屋は、真っ暗に近かった。窓は、布団の山に半分ふさがれていて、渡り廊下の向こうの宴会場の明かりが、布団の隙間から、細い筋になって差しこんでいるだけだった。目が慣れてくると、四方の壁に沿って、天井近くまで積み上げられた布団の山が、ぼんやりと見えた。
「……すご」
富士男は、白い布の下で、思わずつぶやいた。
誰にも邪魔されない場所だ。宴会場からは、渡り廊下を二度曲がって、三段下がって、五段上がった先。手拍子も笑い声も、ここまでは、ほとんど届かない。
富士男は、さっそく、支度に取りかかった。
まず、部屋の真ん中の空いたところに、敷布団を三枚、重ねて敷いた。その上に、もう一枚。ふかふかの、台座のようになった。
部屋の奥の布団の山が、少し崩れかけていた。富士男は、それを、両手で抱えては、奥の壁際へ、どさどさと積み直していった。積み直した布団の向こうに、押入れの襖が一枚、あったような気がした。けれど、どうでもよかった。布団の山で、すっかり隠れてしまった。
台座の前で、富士男は、ゴーストの白い布のすそを、ちょっとたくし上げた。
布の下は、宴会で踊ったときのまま、黒い褌一枚だった。
スターって、すげぇフェチだな。
富士男は、くすりと笑った。それから、懐に入れてきた手ぬぐいを取り出して、自分の目を覆い、頭の後ろで、きゅっと結んだ。
真っ暗になった。
次に、浴衣の腰紐を一本、取り出した。両手を背中に回して、手首に、くるくると二重に巻く。指先で端をつまんで、もう片方の端を引いて、ゆるく、結び目を作った。手首を少しひねれば、すぐに抜けるくらいの、ゆるさで。何度かやったことがあるので、手慣れたものだった。
それから、手探りで、台座の上に這い上がった。
うつぶせになった。白いゴーストの布を、背中の上に、ふわりとかけ直した。頬の下で、干した綿の布団が、かさりと鳴った。
準備は、できた。
あとは、待つだけだ。
目隠しの暗闇の中で、富士男は、ゆっくりと息をついた。耳を澄ますと、渡り廊下の向こうから、宴会場の手拍子が、遠く、かすかに聞こえてくる。
ドン・ファンの衣装の、あの人が来る。
さっきの卓で、隣に座ったときの、黒いマントの肩の感じを思い出した。あの人は、黙っていた。一言も、しゃべらなかった。焦らしているのだ。分かっている。そういう人なのだ。
富士男は、布団に頬を押しつけて、くすくす笑った。
それから、ふと、真顔になった。
「……大きすぎたら、どうしよう」
思わず、声に出ていた。
暗闇の中で、富士男は、一人で赤くなった。それから、また、くすくす笑った。
アメリカ。あの白い船。ハリウッドの、大きな家。スクリーン。世界中の、可愛い、の声。
「ハネムーン……むふふ」
富士男は、白い布の下で、うつぶせのまま、足の指を、ひょいひょいと動かした。
◇
押入れの中は、真っ暗だった。
上の段の、布団と布団のあいだに、ひげぼうぼうの肥った男が、膝を抱えてうずくまっていた。膝の上には、よれよれのトートバッグ。中には、冷えピタシートと、タオルと、畳んだウィンドブレーカー。
男は、九時より、ずっと前から、ここにいた。
襖の向こうで、どさり、どさり、と、重いものが積み上がっていく音がした。そのたびに、押入れの襖に、何かが押しつけられて、きしんだ。
男は、襖に、そっと手をかけてみた。
動かなかった。
襖の前に、布団の山が、ぎっしりと積み上がっていた。
男は、宙を見て、少し考えた。それから、かく、かく、と頷いた。
「……出られない……なら、ここで、見てればいい……修羅場は、すぐそこ……」
襖の向こうで、くすくす笑う声がした。
「……大きすぎたら、どうしよう」
男は、トートバッグを、ぎゅっと抱きしめた。
「ハネムーン……むふふ」
人の耳なら、布団の山越しには、聞き取れないほどの小声だった。男は、それを、一言残らず、聞いていた。
暗闇の中で、男の目が、きらりと光った。
「……これは、アリ!」
男は、声を出さずに、口の形だけで、そう言った。
そして、修羅場キットを抱えたまま、身じろぎ一つせずに、待ち始めた。何時間でも、汗ひとつかかずに、待てる男だった。




