第7話 婚約阻止のため日記を読み上げたら、まさかの内容でしたわ!
突然のエミリアの行動に、何事かと談笑がぴたりとやんだ。
つられるように楽団の音楽も止まり、数百の視線が一斉に彼女に集まった。
やはりこのまま終わるはずがなかったか――
青ざめたフィリップの手が震え、シャンパンの杯が滑り落ちそうになった。会場の後方に控えていたリズも、例の薬のことばかり気にしていて、エミリアの突然の行動に反応できず、その場に固まってしまった。
エミリアは、ドレスの裾から悠々と小さな革表紙の本を取り出し、両手でそれを胸の高さに掲げた。
その顔には、この上なく美しい、天使のような微笑みが浮かんでいた。
「――皆様。せっかくのおめでたい席に、たいへん恐縮ではございますが」
よく通る声だ。
「この場をお借りして」
しん、と静まり返った晩餐会の会場に、彼女の声が響き渡る。
「この度の婚約における、我がブランティーヌ家に対する、バスティアン家とイザベラ様の真の目的を告発させていただきますわ!!」
エミリアは、日記の折り目のついた頁を開いた。
シャンデリアの光を頼りに、すう、と息を吸う。
視界の端で、イザベラが立ち上がりかけたのが見えた。エミリアの手にある自分の日記に気づき、みるみる血の気が引いていく。
(さあ、ご覧なさい。あなたの本性を、この場におられる招待客の皆様に教えて差し上げますわ)
「これは――イザベラ様の日記ですわ」
エミリアはにっこりと微笑んだ。
「ご本人のお部屋から持ってきたものですから、言い逃れはできませんことよ」
どよめきが広間を走った。
「日記だと?」
「なんの話だ、いったい」
「持ってきたって、どうしてそんなこと……」
エミリアは構わず、声を張った。
演説の稽古はしてきた。よく通る声。はっきりとした発音。日記の内容を読み上げ、大食堂の隅の隅まで届けなければならない。
エミリアの意識は、その一点に集中していた。
「――星の雫の月、十三日」
辺りはしん、と静まる。
「今日もエミリア様は、たいへんお美しかった」
……?
宴席の人々が、顔を見合わせる。
「雨の中、学院の入り口で下級生の子がぬかるみの中に転んでしまった。でも、あの方は一番に駆け寄ってやさしく抱き起こしてあげていた。ご自身が泥だらけに汚れるのも構わずに」
(……? 確かに、そんなことありましたわ。でも、なぜ、それがこの日記に?)
「あの方は、どうしてあんなにまっすぐなのだろう。私は傘の下から、ただ見ていることしかできなかったのに」
どこかで、誰かが杯を置く音がした。
みんなあっけにとられ、食事を止め、ナイフやフォークを皿に戻す。
「――星の雫の月、十九日」
エミリアは読み続ける。ひたすら発声に集中して、その内容と意味はまだ頭に入ってこない。
「エミリア様と廊下ですれ違った。ごきげんよう、と言われて、ごきげんよう、と返した。それだけなのに、部屋に戻るまで心臓が早鐘のように打ってしかたなかった――」
ざわざわ、と空気が動いた。
「なぜ私たちは、ああなってしまうのだろう。やはり両家の確執が二人の関係に影響してしまうのだろうか。私自身、周囲の視線が気になってつい、いつの間にかあの方と張り合ってしまう」
エミリアの読む速度が、急に落ちた。
「――本当は、ただ親しくお付き合いしたいだけなのに」
(…………え?)
初めて、声に色がついた。
思わず顔を上げ、イザベラの席の方を見る。
テーブルの向こうで、イザベラが両手で口元を押さえていた。耳まで真っ赤になっている。
エミリアは、自分の手元に視線を戻した。
(な、何? この日記。どういうこと? こんなはずじゃ……)
だが、ここまで読んで後戻りはできない。
きっと、この先に書かれていることが、イザベラの陰謀の内容なのだ。そう考え、日記を先に読み進める。
「……どうしたら、もっと近づき仲良くなれるのだろう」
日記の内容を理解するにつれ、エミリアの声が明らかに震えはじめた。
「一度でいい。競うのではなく、ただ隣に座って、お茶を飲んでみたい。あの方の好きな本の話を聞いてみたい。笑ったところを、正面から見てみたい。手をつないで歩いてみたい」
広間が水を打ったように静まり返っていた。
もはやそこにいる全員が、これを「告発」だとは思っていなかった。
「でも、これは叶わない。禁じられた想いだ。そう、これは恋なのだ。私はあの方を愛してしまっているのだ……」
エミリアの唇が、わなないた。
「けれど、私たちは女同士。しかもお父様たちは長く争ってきて、そして――」
読むのをやめようとした。やめられなかった。指が勝手に頁を押さえていた。
「――そして、あの方の心の中には、別の方がいらっしゃるようだ」
エミリアの口から「ひぃ!」と変な声が出た。
実の兄ジュリアスに対する熱烈な想いに、もしやイザベラは気づいていたのだろうか?
「だから、私はこの恋を誰にも言わない。お墓まで持っていく。書くのも今日で最後にしよう」
最後の一行だった。
「それでも。もし生まれ変わることがあるのなら――」
エミリアの声は、完全に裏返っていた。
「次は、あの方と必ず想い合い恋人になる。結婚して、一生添い遂げる。エミリアと、お名前でお呼びする」
そこでついに、エミリアはぱたん、と日記を閉じた。
全身がプルプルと震えた。
ここに書かれていることはすべて、イザベラの自分に対する愛の告白だと、今、はっきり理解したのだ。
しばし、沈黙。
それから会場は大爆発を起こした。
「い、今の日記はいったいどういうことだ!」
「イザベラ嬢が、ブランティーヌ家のご令嬢に……?」
「待て待て、では両家の婚約はどうなる」
「でも、こういうお話、嫌いではなくてよ」
「奥方、声が大きいですな」
こうなると、もはや晩餐会どころではない。
人々は顔を見合わせ、いったいこれはどういうことなのかと、席から立ちあがって大騒ぎを始めた。
バスティアン伯爵は、みんなを落ち着かせようと真っ赤になって何かを叫び、フィリップは、杯を握ったまま石像のように固まっている。
主役の二人――イザベラは、テーブルに突っ伏して、真っ赤な顔を隠し、ジュリアスもさすがにどうしていいのか分からず、ただ苦笑いを浮かべている。
そして、騒動の張本人のエミリアはといえば――日記を胸に抱えたまま、顔から湯気を出してその場に硬直していた。
(え、え、ええ――え? ええええ――?)
頭の中が真っ白だった。
わたくしのことを、この方がずっと。
あの、廊下ですれ違うたびに火花を散らしていた、あのイザベラが――
(そ、そんな。だって、わたくし、ずっと、この方のことを女狐だと)
頬が熱い。
全身が熱い。日記を持つ手が汗ばんで震えている。
(女と女、そんなことあり得ますの?)
なんということでしょう――わたくし、なんてことを!
皆様の前で、よりによってイザベラが心の奥底にしまい込んでいた、一番大切な想いを暴いてしまうなんて――
(淑女として、いいえ、人として、絶対にやってはいけないことをしてしまいましたわ……)
と、その時だった。
タイミングが良いと言おうか、悪いと言おうか、エミリアのお腹が――
「ぴぃ、ゴロゴロ」
と、小さな音をたてたのだった。
「…………」
エミリアの動きが止まった。
「ぐるるる――」
(……え?)
お腹の底で、何かがゆっくりと、しかし確実に動きはじめていた。
それは、今まで覚えのない感覚だった。
だが、心当たりだけはこの上なくあった。
(ま、まさか。まさか。アルトさん、あなた、まさか――!!)
しかも、それはエミリア一人の体に起きた変化ではなかった。
「うっ」
右隣の伯爵が、みぞおちを押さえた。
「……あら?」
斜め向かいの男爵夫人が、青ざめて扇子を落とした。
「な、なんだこれは?」
「お、おかしい。腹が――」
さざ波が広がるように、会場のあちこちで人が姿勢を崩しはじめた。
腹を押さえる者。額に汗を浮かべる者。そして――お尻に手を当てる者……。
みんな、ソロソロと、それから猛烈な早足で出口へ向かい始めた。
「し、失礼!」
「ちょっとごめんなさい! 通して!」
「わ、私が先だ!」
もう、誰も婚約の話などしていなかった。日記の話もしていなかった。
優雅な晩餐会は、五秒とかからずに敗走に変わった。
トイレは、男女それぞれ、廊下の突き当たりに四つしかない。
数百人の招待客に対して、計八つである。
「早くしろ!」
「順番だ! 順番を守れ!」
「な、なぜ伯爵閣下が先なのですか! 私のほうが先に並んで――」
「黙れ! これは爵位の問題ではない!」
「まさにその通りですわ!!」
生理的欲求を前にして、貴族たちの矜持が、たちまち音を立てて崩れていく。
こうなるともう、身分の差など何の意味もなさない。全員、ただの、一個の人間に戻ってしまう。
勲章をつけた紳士が走り、宝石で飾った夫人が走り、王都で評判の詩人が走った。廊下のあちこちから、上品とは言いがたい音と、悲鳴と、名前を呼び合う声が響いた。
庭に面した扉が開け放たれ、何人かが植え込みのほうへ消えていった。柱の陰に駆け込んだ者もいた。それを目撃したご婦人が卒倒しかけ、支えようとした従者がまた腹を押さえてうずくまった。
由緒正しきバスティアン伯爵邸の婚約記念の晩餐会場は、およそ語るに堪えない惨状となった。
マリアが涙目で走っていった。
レオンが、口説いていた令嬢を置き去りにして走っていった。
フィリップ公爵が、杯を置く暇も惜しんで走っていった。
そして、給仕用の扉の陰から、その光景を一人のメイドが眺めていた。
金髪の、超美少女メイドである。
彼女――いや彼は、口を押さえていた。
肩が、小刻みに震えていた。
「……く」
だめだ、だめだ。笑っちゃいけない。
お腹を壊すつらさは、自分だってもちろん知っているのだから。
でも――
あの、いつも偉そうに顎を上げて歩いていた連中が、馬を世話する人間よりも馬の方を大切にする連中が、床に這いつくばって雑巾がけをするメイドを虫けらのように見下ろしていた連中が、揃いも揃って、尻を押さえて廊下を全力疾走している。
「……ケラケラケラ」
こらえきれなかった。
アルトは扉の陰にしゃがみ込むと、エプロンに顔を埋めて、腹を抱えて笑った。
(ざまあみやがれってんだ、この金持ちども!)
だが、しばらく笑い続け、ようやく落ち着いた時、アルトは一つ、自分が大きなミスを犯したことに気がついた。
お腹を下すという点では、本来のターゲットであるイザベラの様子に、まったく変化がなかったからだ。そして、その隣にいるジュリアスも、ただ何が起きたのかと心配そうな顔をしているだけだ。
(……どうやら狙いを外しちゃったかなあ。それとも、あの二人の料理だけ別にしてあったのかも――まずいな、これ。エミリア様は怒りまくるぞ)
アルトが修羅場と化している会場の中を見回すと、いまだ日記を持ったまま、ガタガタ震えているエミリアが目に入った。
明らかに、普通の状態じゃない。
(や、やばい! よりによってエミリア様に当てちゃったか……)
その通り、エミリアの体の内側では、モアナのゴロゴロ水が確実に仕事を進めていた。
「ぎゅるるる……」
(い、いけません。わたくしは、名誉あるブランティーヌ公爵家の子女。この程度のお腹の痛み、絶対に耐えてみせます)
背筋を伸ばす。顎を上げる。真っ青な顔で微笑んでみる。
それが、公爵令嬢として叩き込まれてきた作法である。どんなときも姿勢を崩さないこと。どんなときも取り乱さないこと。
しかし――そのすべてが、いま、この上なく残酷に彼女を絞めつけていた。
額に汗が浮かぶ。日記を抱えた指が白くなる。
(お、お父様。お母様。エミリアはどうやらここまでのようですわ……)
「――エミリア様!」
心配する声が聞こえた。
顔を上げると、すぐ目の前にイザベラが立っていた。
「イ、イザベラ、様」
「お顔の色が悪いですわ」
イザベラは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、そっと手を差し出した。
「私の部屋の近くに、私専用のものがございます。どうぞこちらへ」
その瞬間、エミリアの目に涙が浮かんだ。
イザベラは天使か女神か。
自分がこの人に何をしたか。ほんの数分前に、この人の一番大切なものを、大勢の前で読み上げたばかりだというのに。
「……ど、どうして」
「お話は後で」
イザベラはエミリアの手を取った。
「いまは、それどころではないでしょう」
「…………はい」
「エミリア!」
人垣をかき分けて、ジュリアスも駆け寄ってきた。
白の礼服の兄は、この大混乱の中でも変わらない。一分の隙もない好青年ぶりを発揮している。
「大丈夫か。ひどい顔色だ」
「お兄様……」
「ご安心を、ジュリアス様。私がお連れいたします」
「イザベラ嬢、頼みます」
ジュリアスはくるりと振り返ると、大きく声を張った。
「――皆様! 道を開けてください!」
その声は、混乱した場に驚くほどよく通ったが、しかし、みんな自分のお腹のことで精いっぱいで、誰も聞く耳をもたない。
「仕方ありません。使用人用のドアから外に出ましょう」
イザベラがエミリアの手を引っ張った。
「さあ、こちらへ」
「行こう、エミリア」
と、妹の肩を支えて進むジュリアス。
息も絶え絶えなエミリアは、よろめきながらも必死に歩いた。
(お、お兄様……!)
エミリアの胸は、この状況にあってもなお熱くなっていた。
ああ、なんてお優しいの。ご自分の晩餐会が台無しになったというのに、妹の一大事に真っ先に駆けつけてくださるなんて。やはり、世界でいちばん素晴らしいお兄様――
もっとも当のジュリアスは、妹が何をしでかしたのかも、この惨状がなぜ起きたのかも、当然理解していないのだが……。
「部屋は二階にあります。エミリア様、もう少しの辛抱ですわ」
イザベラが、階段の前まで来て言った。
(お兄様の前で粗相をするくらいなら、この階段から転げ落ちて首の骨を折って死んだ方が百億倍マシですわ)
必死でけなげなその思いだけが、今のエミリアをなんとか支えていた。
そして、お嬢様としての最後の意地を発揮し、背筋を伸ばし、ドレスの裾を持つ指先は完璧な角度を保って、段差を上がりきった。
だが、その先にはまだ廊下が伸びている。
(走ってはなりません。走ってはなりません。走ってはなりませんわ)
廊下を走ったのは、人生で一度きり。一週間前、兄の婚約を聞いた日だけだ。
あの時は、なりふり構わず走った。
だが今日は違う。今日は走れない。走った瞬間、何かが決定的に終わってしまう。
ほんの数百歩の距離が、数万歩にも感じられる。
「エミリア様、着きましたわ」
二階の廊下の端を曲がった先。
そこは、イザベラ専用のパウダールームだった。その中にバスとトイレがあるらしい。
「エミリア、僕は部屋に入るわけにはいかないから、ここで待っているよ」
ジュリアスが、部屋の前で立ち止まって言った。
エミリアは慌てて答えた。
「いいえ、お兄様。わたくしは大丈夫ですから、どうぞ皆様のところへお戻りになって。他にも体調を崩された方は大勢いらっしゃるのですから」
それは建前。
壁一枚隔てたところにジュリアスがいては、トイレに入っても、音が漏れやしないか気が気でない――それがエミリアの本音だ。
「ああ――そうだね。イザベラさん、どうかエミリアを頼みます。僕はいったん戻って皆さんの様子をみてきます。場合によっては、医者を呼ぶ必要があるかもしれない」
妹のデリケートな気持ちを察したのか、ジュリアスはそう言い残すと、今来た道を引き返し一階に向かった。
「エミリア様、さあ、お入りになって」
イザベラがドアを開け、広くて豪奢なパウダールームにエミリアを招き入れる。
「そちらの奥のドアがレストルームになっています」
「…………」
お礼を言う余裕もなく、無言でそこへ駆け込むエミリア。
レストルーム――要するにトイレ。
中には、あくまで上品な、純白の陶器製の便器が置かれていた。
(ぎりぎりセーフ――ですわ)
扉が閉まった。
外の喧騒が、遠くなる。
「はあ~~」
生まれてから初めて経験するような強い安堵感に包まれ、エミリアは大きく息をついた。
ただ静寂だった。
天井を見上げると、細やかな漆喰の装飾が施され、隅には小さな明かり取りの窓があった。
ほんの少し、月が見える。
外の廊下からは、まだ遠く騒ぎが聞こえてくる。悲鳴。足音。誰かが誰かを罵る声。
エミリアは、ぼんやりとそれを聞いていた。
わたくしは、いったい何をしたのだろう。
お兄様を救うのだと言った。正義を行うのだと言った。すべての責任は自分が取ると、リズやアルトに大見得を切った。
その結果が、これだ。
晩餐会をめちゃくちゃにし、数百人の招待客をトイレに走らせ、父の顔に泥を塗り、そして――
イザベラ様の、あの日記。
あの方が、誰にも言わずにきっと墓まで持っていくつもりだった想いを、わたくしは、大勢の前で踏みにじった。
女狐だと思っていた。
お兄様を骨の髄までしゃぶり尽くす女豹だと信じていた。
それなのに――
エミリアは、両手で顔を覆った。
(……これは)
月明かりの差す、伯爵家のレストルームの中で、公爵令嬢は静かに悟った。
(これは、天罰ですわ)
「ぎゅるるる」とまた腹が鳴った。
まったく容赦がなかった。
(ええ。ええ、そうでしょうとも。存分になさい。わたくしには、それだけのことをした報いがありますもの)
目尻に涙がにじんだ。
悔しさでも、恥ずかしさでもなかった。
――もっと早く。
もっと早く、イザベラとただお話しすればよかった。
競うのではなく、隣に座って。お好きな本の話を聞いて。笑ったところを、正面から見て。
それだけのことが、どうしてできなかったのだろう。
扉の外で、遠慮がちな声がした。
「エミリア様。着替えのお召し物と、お水をご用意しておきますわ。……ごゆっくり」
ドアの閉まる音がした。
イザベラが気をつかって外に出てくれたのだ。
エミリアは、窓の月をもう一度見上げた。
(……わたくし、あの方に、きちんと謝らなければなりませんわね)




