第6話 ついにこの日が訪れてしまいました。でも、準備は万端ですわ!
そしてついに、婚約発表の日がやって来た。
その舞台となるバスティアン伯爵邸の大広間は、朝から、王国中の富と権勢をまるごと詰め込んだような豪奢で華やかな雰囲気に包まれていた。
天井から吊るされた水晶のシャンデリアには、真昼のようなあかりが灯り、壁際には季節はずれの白薔薇が滝のように飾られている。
テーブルや棚には様々な高価な装飾品が置かれ、メイドたちによって磨き上げられた大理石の床は、いつも以上にピカピカに輝いていた。
そのすべてが、この晴れの日のために用意されたものだ。
そして、そこに詰めかけるきらびやかに正装した貴族と上級市民の人々――
シルクのドレス。宝石。黄金のアクセサリー。勲章や紋章。広間には楽団が奏でる優雅な曲が流れ、みんなおしゃべりに花を咲かせている。
「エミリー! ねえエミリー、見て! 何もかも、なんて素敵なんでしょう」
同級生のマリアが、目を輝かせてエミリアの隣にきた。
「……ええ。本当にそうですわね。わたくしもたいへん嬉しいですわ」
エミリアは、美しい微笑みをたたえて、そう答えた。
深い青のドレス。結い上げた栗色の髪。首元には母から譲り受けた家宝の真珠。誰がどう見ても非の打ち所のない公爵令嬢がそこにいた。
だが、その手もとで、ぱきり、と小さな音がした。
手にした美しい羽根の扇子の骨が一本、折れた音だった。
「……エミリー? いま何か」
「気のせいですわ」
少し離れた場所では、父フィリップが娘の背中を凝視していた。手にした杯の中身は、まだ一口も減っていない。
「リズ」
「はい、旦那様」
「エミリアから絶対に目を離すな。あの娘は何かを企んでるかもしれん」
「……承知いたしました」
エミリアの斜め後ろに控えたリズの額には、会が始まる前からすでに汗が浮かんでいた。
その時、広間の奥の扉が開かれ、ざわめきが一斉に波を引くように静まった。
ジュリアス=ド=ブランティーヌと、イザベラ=フォン=バスティアン――
二人が肩を並べて歩いてくる。
白い礼服を纏ったジュリアスと、淡い金の刺繍が施されたピンクのドレスのイザベラ。
すらりとした長身の公爵子息と、抜群のスタイルの伯爵令嬢。その姿は、まるで最初から一対の存在として形作られていたかのようだった。
「……まあ」
「なんてお似合いなんでしょう」
「本当に絵画のようですわね。まるで神話の物語から抜け出してきたみたい」
「これぞご両家の未来の象徴ですな」
二人のあまりの美しさに出席者たちはため息を漏らし、賛嘆の声があちこちから湧き上がった。
だが、その一つひとつが、エミリアの耳に針のように刺さっていく。
(お似合い? どこがですの。どこがですの!!)
顔は微笑んでいる。完璧に微笑んでいる。
ぱきり。
手に握り締めた扇子の骨が、また一本折れた。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
壇上で、立派なひげをたくわえたバスティアン伯爵が声を張った。
「この素晴らしい良き日に、我がバスティアン家の娘イザベラと、ブランティーヌ公爵家のご子息ジュリアス殿との婚約が、両家の総意をもって、またリディア王陛下のご祝福のもとに、ここに成りましたことを発表させていただきます」
盛大な拍手が広間を埋めた。大勢が歓声を上げた。それと同時に楽団が華やかな一節を奏でた。色とりどりの花びらが、天井から一斉に舞い落ちてきた。
エミリアも拍手をしていた。ちゃんと、きれいな音を立てて。
(ええ、ええ。今のうちに騒いでいらっしゃい)
やがて、小さな箱が運ばれてきた。
蓋が開かれる。二つの指輪がシャンデリアの光を受けてきらりと光った。
ジュリアスがイザベラの手を取る。
イザベラがそっと目を伏せる。
指輪が、指に滑り込んだ。
広間がさらに沸き、二人は大歓声に包まれた。
エミリアの視界は、その時すでに真っ赤に染まっていた。奥歯が、ぎりぎりと音を立てて鳴った。
――お兄様。今しばらくのご辛抱です。必ず、わたくしがこの女狐から救って差し上げますわ。
イザベラ。今に見てらっしゃい。あなたの化けの皮を、あとで残らず剥いで差し上げます。
と、その時、壇上のジュリアスが、人垣の向こうの妹を見つけて、軽く手を振った。
「あ、お兄様! そしてイザベラ様も、本当におめでとうございます、ですわ!」
一瞬で天使の顔に戻ったエミリアが、花が咲くように微笑み返す。
その様子を大広間の後方で見ていたリズは、背筋に悪寒が走った。
(エミリア様、まさか、本気であの薬を……)
いつも無表情なリズの額に、大量の脂汗が滲む。
(何とかして、思い止まっていただかなければ)
だが、薬を調達してしまった時点で、自分はすでにエミリアの共犯なのだ。ジュリアスへの想いを知られてしまったという、決定的な弱みもある。
結局、誰もエミリアの黒い企みを止められないまま婚約発表は終わり、会場は記念の晩餐会へと移ろうとしていた。
出席者がガヤガヤと大食堂に移動する中、エミリアは広間の外へ出て辺りをうかがった。
(アルト、何をしているのです。早く日記を。でないと間に合いませんわ!)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その少し前――
使用人という使用人が晩餐会の支度に駆り出され、人気のまったくない屋敷の二階。
静まり返った廊下を、アルトが忍び足で歩いていた。
(やっと給仕の仕事から抜け出せたぜ)
階下からは、楽団の音や、人々の拍手と歓声がくぐもって聞こえてくる。窓の外を見れば、正面広場に馬車がずらりと並んでいた。どれもこれも、車体に金の装飾が入っていた。
御者たちが、寒い中、主人が出てくるのをじっと待っている。うちのオヤジも、あんなふうにブランティーヌ家に仕え、何十年も待ち続けてきたのだろう。
(――いい気なもんだよなあ、金持ちってのは)
花に囲まれて、指輪を交換して、シャンパンで乾杯して。こっちはメイドの格好をさせられ、朝から床を磨き、皿を運び、ポケットの中に隠した瓶を落とさないように歩き回っていたというのに。
アルトは、イザベラの私室の扉の前で足を止めた。
周囲を確認する。誰もいない。滑り込むように中に入り、後ろ手に扉を閉めた。
部屋は薄暗かった。窓から差し込む月明かりが、机や本棚をぼんやりと照らしている。
アルトは迷いなく寝台に向かった。フレームとマットレスの隙間に、指を差し入れる。
あったあった。革張りの小さな日記。
引き抜いて、胸元に差し込む。
――これで、あとはエミリア様に渡すだけだ。
あの人が、これを大勢の前で読み上げる。イザベラ嬢がブランティーヌ家を潰す計画を書いていたと、本気で信じきった顔で。
そして知るのだ。書かれている本当の内容を。
アルトにも、悪いことをしている――という自覚はあった。でも、これもすべてエミリア様のため(せい)なんだと考えると、そんな罪の意識はどこかへ飛んで行ってしまった。
(――イザベラ様、恨むならどうかエミリア様を恨んでください)
アルトは扉のほうを振り返り、再び階下の喧騒に耳を澄ませた。全員がこれから何が起きるのか、まったく知らない。その光景を想像した瞬間、腹の底から込み上げてくるものがあった。
「…………ぶふっ」
思わず笑いそうになって、慌てて口を押さえる。だが肩が震え、目尻に涙がにじんだ。
「……イヒヒ」
月明かりの差す令嬢の私室で、超美少女メイドは、たっぷり十秒かけて笑いをかみ殺した。
それから、何事もなかったかのようにエプロンの皺を伸ばし、すまし顔で廊下へ出た。
階段を下り、大広間の前に来ると、ちょうど会場から人がぞろぞろ出てきたところだった。みんな、大食堂で開かれる晩餐会の席へ移動するのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(遅い、遅い、遅いですわ! アルト、あなたいったい何を――)
廊下の柱の陰で、エミリアは扇子の残骸を握りしめ、床を踏み鳴らした。大食堂へ向かう人の流れが、目の前をぞろぞろと過ぎていく。
ご機嫌な笑い声。どこかのご夫人の香水。誰も彼も、これから始まる晩餐を楽しみにしている顔だ。
「――エミリア様。お手洗いは、あちらの突き当たりでございます」
ふいに、すぐ横で声がした。
いつの間にか、一人のメイドがすぐそばに立っていた。ブロンドのウェーブ。青い瞳。恭しく頭を下げている。
「アルト!」
思わず声を上げるエミリア。
「しっ」と口に指をあてるアルト。
「こっちに来てください、エミリア様」
アルトはエミリアの手を引いて、誰にも見られないように狭い物置部屋に入った。ここで働き始めて一週間。すでに屋敷内の構造は熟知している。
「遅かったですわよ、アルト! なにをモタモタしているのです」
すでにかなり興奮状態のエミリアは、いつもとは別人のように、アルトを厳しく責め立てる。アルトはやれやれと肩をすくめ、イザベラの部屋から持ってきた革表紙の日記を手渡した。
「落ち着いてください、エミリア様。これですよ、お話したイザベラ様の日記は」
「まあ!」
エミリアは目の色を変え、早速日記を開こうとした。だが、アルトはエミリアの手をつかんでそれを止めた。今ここで日記を読まれたら、自分のささやかな悪戯がすべておじゃんだ。
「おっと! エミリア様、今それを読んでいる時間はないですよ。早く晩餐会に出ないと、みんなに不自然に思われます」
「ですが――」
「ご安心を。問題のページには折り目を付けてありますから、エミリア様は晩餐会の途中でタイミングを見てそこを読み上げればいい。それで万事うまくいきます」
エミリアはもどかしく思いながら、日記を閉じた。
「分かりましたわ。確かにもう皆さんのところへ行かないと怪しまれますわね。お父様も目を光らせているし――アルト、あなたは本当にここまでよくやってくれましたわ」
「まあ、いろいろとたいへんはたいへんでした……」
アルトの脳裏に、メイドとして散々こき使われたことや、レオンに危うく貞操を奪われかけたことが一瞬蘇った。しかし、エミリアは、そんな苦労を知る由もない。
「でも、まだ大きな仕事が一つ残っていますわよ」
イザベラにとどめを刺すためには、容赦はしない。まさに悪魔の令嬢。
「え……」
「例の小瓶、分かっていますわよね?」
「あの……本当にやるんですか? その日記だけで十分な気が……」
これから先の計画を実行に移すのは、いくらアルトでも、さすがにためらってしまう。
バレたらただじゃ済まないだろうし……。
「何を今さら! もう引き返すことはできませんわ。安心なさい。すべての責任はわたくしが取りますから。正義を行うためには手段を選んでいられません!」
「……はーい、分かりました」
エミリアにそこまで言われたら仕方ない。すでに大金を受け取ってしまったわけだし、やらなきゃ残りのお金はくれないかもしれないし――
アルトは晩餐会に戻るエミリアを見送ったあと、例の小瓶がポケットにあるのを確かめ、厨房に向かった。
予想通り、そこは戦場のような忙しさだった。
炎が燃える竈が五つ、大きなオーブンが四つ、鍋という鍋が湯気を上げ、料理長が怒鳴り、料理人たちが野菜を切りスープを掻きまわし肉を焼く。
大勢の給仕やメイドが、大量の飲み物や、次々完成する料理の皿を、ひっきりなしに貴族たちの席へ運ぶ。
「おい、食前酒のグラスが足りてないぞ!」
「そっちの前菜、早く出して!」
「肉が上がった! 誰か運んでくれ!」
そんな目が回るような慌ただしさの中、メイド長のグレタが、アルトを見つけて怒鳴った。
「アルテ! どこ行っていたんだい。ぼーっと突っ立ってるんじゃないよ!」
「は、はいっ!」
配膳台の上には、いつにも増して豪華な料理が、文字通り並びきらないほど並んでいた。
仔牛のロースト。鴨のコンフィ。リンゴとイチジクのパイ。フォアグラのソテー。クリームの海に浮かぶ白身魚とキャビア。新鮮な野菜と果物。そして酒。葡萄酒、蜂蜜酒、名前も知らない琥珀色の酒が、瓶ごと何十本と待機している。
アルトは、ポケットの中の瓶を握りしめたまま、その光景を呆然と眺めた。
(おいおい、イザベラ様のお皿ってどれだよ)
どの皿が、どの人の前へ置かれるのか、さっぱり分からない。
そもそもアルトは新入りメイドだ。
正式なディナーの席で、何をどういう順番で配膳すればいいのか、そういう知識がまったくないのだ。
(ええと、イザベラ様の席は一番上座だから……いや、上座ってどっちだよ)
「アルテ! それ運んで!」
「はいっ!」
考える余裕などなかった。
次から次へと皿が押しつけられ、廊下を往復させられ、戻ってくるとまた新しい皿が積まれている。
(どうしよう。無理だ。こんなの分かるわけがないよ)
背中を汗が伝った。
これじゃあ、ピンポイントでイザベラ様の料理に薬をいれるなど、絶対に不可能だ。
と、そこでアルトは、ふと配膳台の向こうを見た。
銀の皿に盛られた料理が、光を受けてきらきらしている。どれもこれも、生まれてこのかた口にしたことのないような物ばかりだ。
あれを、貴族たちは当たり前の顔で食う。
嫌な仕事は全部人にやらせて、自分たちは飲んで騒いで、暖かいベッドで寝るだけ。
毎日へとへとになるまで働いて、粗末なパンを食べ、藁にくるまって寒さに凍える自分たちとは、えらい違い。
あいつら、本当にいい気なもんだ――
(……まあ、いっか)
アルトの中で、何かがはじけた。
(こうなったら、ええい、ままよ!)
誰も見ていない一瞬を狙って、彼はポケットの中から瓶を取り出し、栓を抜いた。
そして、ぺろりと舌を出した。
仔牛のローストに、ぱっぱ。
鴨のコンフィに、パイに、フォアグラに、ぱっぱ。
ついでに飲み物――葡萄酒の瓶に、ジュースのコップにぱっぱ。
ダメ押しで、普通の飲み水にも――
(どれかに当たりゃいいんだよ、どれかに!)
空になりかけた瓶を握って、アルトは満足げに頷いた。
とりあえず仕事はした。これでエミリアに文句は言わせない。後はなるようになれだ。
「アルテ! 何やってんだい!」
「はぁい! ただいま!」
晩餐会は、婚約発表の宴席にふさわしく、それはそれは華やかに始まった。
長大なテーブルの中央上座には、ジュリアスとイザベラが並んで座っている。その周囲を両家の親族が固め、その外側に招待客が広がっていく。
そこへ、次から次へと料理が運ばれてきた。
給仕が皿を置くたびに、あちこちから感嘆の声が上がる。
「これはこれは、素晴らしい」
「見たこともない、山海の珍味ですな」
「バスティアン家の料理長の腕は、王都でも評判ですからな」
それらの料理の皿は、ジュリアスとイザベラの前にも次々置かれていく。
「ジュリアス様、どうぞこちらも」
「ありがとうございます。……イザベラさん、こちらのお魚は召し上がりました?」
「いただきましたわ。とてもおいしい」
二人の会話は、まだどこかぎこちない。それがかえって初々しいと、周囲は勝手に盛り上がっている。
乾杯が繰り返され、楽団がより陽気な曲を奏で始めた。
マリアは料理に夢中になっている。フィリップは杯を傾けながら、それでも娘から視線を外さない。レオンは早くも隣のご令嬢に何か囁いて、イザベラに遠くから睨まれていた。
もちろん、料理に食材以外の何かが入っていることなど、誰も気づきもしない。
宴もたけなわ。その時だった。
がたん、と椅子の鳴る音がした。
一人の令嬢が、席から立ち上がっていた。
深い青のドレス。結い上げた栗色の髪。首元の真珠。
それはもちろん、エミリア=ド=ブランティーヌ公爵令嬢――




