第4話 薬と毒は紙一重ですわ!
同じ日の朝――
ブランティーヌ家の裏口。
その小さな木の扉を開け、こっそり外に出る、町人の服を着たエミリアとリズ。
二人とも、顔が見えないようにフードをかぶっている。
「エミリア様。昨夜はよくお休みになれましたか?」
リズが尋ねる。
「ええ、ぐっすりと」
だが、フードの陰で、エミリアの目の下にはくっきりとしたクマが浮かんでいた。
「……魔術師が住む下町は、本来エミリア様にご案内すること自体憚られるような所ですから、その点どうかご覚悟ください」
「わたくしなら大丈夫よ。すべてはお兄様のためですもの」
下町の貧民街は、お屋敷から半刻ほど歩いたところにある。普段ならお屋敷の馬車を使うが、今日はそういう訳にはない。
エミリアは舗装されていないでこぼこの道を、足が痛むのを我慢しながら、懸命に進んだ。
そして、リズの言葉どおり、貧民街は目に入るものすべてが荒れ果て、薄汚れ、鼻をつまみたくなるような臭気が漂っていた。
柄の悪い酔っ払い、ボロをまとった娼婦、物乞いをする子どもたちがうろつく、自分のまったく知らない世界に、エミリアも思わず立ち止まってしまう。
だが、すべてはジュリアスとイザベラの婚約を破棄させるため。ここで引いてはいけないと自分を奮い立たせ、エミリアはあえて堂々と胸を張り、貧民街へ足を踏み入れた。
二人は怪しい露店と、粗末な住居の間を抜け、水たまりをまたぎながら、曲がりくねった迷路のような裏路地を行く。
リズと一緒だからいいようなものの、エミリア一人なら即、迷子になっていただろう。
やがて、向こうから風体の悪いごろつきが三人並んで歩いてきた。
嫌な予感がするエミリア。
案の定、三人は行く手を塞ぎ、ニヤニヤしながら声をかけてきた。
「よお、お嬢ちゃんたち。道案内でもしてやろうか――」
リズが無言で一歩前に出た。
フードを少しずらす。
とたんに、三人は壁際で直立不動になった。
「あ、あんたは――」
「これは失敬」
「どうぞお通りください」
「どうも」
すました顔で先に進むリズを、エミリアは驚きの目で見上げた。
「リズ、あなた、本当は何者ですの?」
「……ただのメイドでございます」
路地の突き当たりに、傾いた看板を掲げたみすぼらしい一軒家があった。リズが扉を押すと、錆びた鈴が鳴った。
薄暗い店内には怪しげな瓶がずらりと並び、天井からは干からびた何かが吊るされている。
イモリの黒焼き。蛇の抜け殻。光の活力剤。愛の秘薬――
エミリアは目を輝かせて並んでいる瓶を覗き込んだ。恐怖より好奇心が勝っているらしい。
「――おやまあ、リズじゃないか」
奥の暗がりから、しゃがれた声がした。煙管をくわえた老婆が姿を現す。
「何年も顔を見せなかったと思ったら……そちらの方は?」
リズが言いにくそうに一歩下がる。エミリアはフードを取った。
栗色の髪がこぼれ、薄暗い店内で場違いなほど輝いた。
「エミリアと申します」
「ほう……ということはやっぱり、あの公爵家のお嬢さん……。――リズ、あんたとんでもないお人を連れてきたねえ」
無言でうつむくリズ。
老婆は口から煙管の煙を吐き出し、エミリアに言った。
「――お嬢さん、あたしはモアナって言う老いぼれの魔術師だけど、よりによってなんでこんな場所に来たんだい?」
「それは――」
エミリアは身を乗り出すと、モアナに一気に事情をまくし立てた。
「――というわけですの。ですから一週間後の婚約披露パーティーをなんとしてもぶっ潰したいのですわ。そのための呪いか、黒魔術か何かを教えてほしいですの!」
モアナは無言で煙管を吸った。それからまたリズをじろりとにらんだ。
リズが目を逸らしたので、再びエミリアを見る。
エミリアはまっすぐに見返してきた。その瞳にあるのは悪意ではなかった。ただの必死さだけだった。
モアナはゆっくりと煙を吐いた。
(……こいつは根っからの子どもだね。しかもまだまだ純真な)
「お嬢さん。人を呪わば穴二つって言葉を知ってるかい」
「存じております。ですがわたくしは――」
「――だから呪いは売らないよ」
モアナはしゃがれた声で、冷たく言った。
それでもエミリアは、必死に頼み込む。
「では黒魔術を! わたくし物覚えは早いほうですわ!」
「だめだめ、やめときな。魔術なんてあんたにはまだ早い」
「なぜですの!」
「跳ね返るからさ」
モアナは煙管の先で、エミリアの胸をとんとんと指した。
「腹に一物ある人間が使う分にはまあいい。あんたみたいにまっすぐな子が使うと――そのまま己に返ってくる」
「……それは褒めていらっしゃるの?」
「けなしてるよ」
モアナはにエミリアをけむに巻くように、にやりと笑って立ち上がった。
「だがまあ、“いたずら”のつもりなら、一つくらい売ってやってもいいがね」
モアナが棚の奥をごそごそと探る。埃が舞った。
卓に置かれたのは小さな瓶がひとつ。中身は濁った液体だった。汚い手書きの字でラベルにこう記されている。
――ゴロゴロ水。
「まあ! それで、その効能は?」
「腹を下す」
「…………はぁ?」
モアナは瓶を指で軽くはじいた。
「飲んだ者はすぐさま猛烈に腹を下す。それだけさ。毒じゃない。魔術でもない。ただの薬だよ。出すもの出せばそのうち治るさ。そうさね、普段贅沢なものばかり食っている不健康な連中には、むしろ良い薬かもしれないね」
「で、でも、それはその――手段としてはあまりにもげ、下賤ですわ! 公爵令嬢たるわたくしがそのようなその……お、おなかを――」
真っ赤になってうつむくエミリアに、モアナは言った。
「こんなこと来て、なあにお上品ぶってるんだい。考えてもごらん。晩餐会の真っ最中だよ」
婚約発表の、ジュリアスとイザベラを囲む盛大な晩餐会。
その最中に、知らずに薬の入った食事を食べたイザベラがお腹を下したら――
エミリアの目がじわじわと輝きはじめた。
「……すべて台無しですわね」
「台無しだね」
エミリアは、一呼吸して、決意した。
「……いいですわ。こうなったら、背に腹は代えられませんわね」
「お嬢さん、あんたもうまいことを言うね」
モアナがニヤリとする。
「……偶然ですわ」
「ほら、これだよ。お代は金貨一枚だ」
モアナは瓶をエミリアのほうへ押しやった。
無言のエミリア。
金貨を渡したあと、両手で、聖遺物のようにうやうやしくその瓶を受け取った。
「――それとお嬢さん」
モアナが皺だらけの顔をゆがめて笑った。
「自分の食事に間違えて入れないこったね」
「あら。わたくしがそんな間抜けなことをするはずがないでしょう」
リズとモアナは無言で顔を見合わせた。
瓶を大切そうに胸に抱え、エミリアが店を出ていく。その後ろ姿にモアナが声をかけた。
「リズ。結局、本当に薬は売っちまったが――なんだか危なっかしいねえ」
「……はい、私が善処します」
しかし、リズは知っていた。
エミリアの計画は、すでに自分の手に負えない段階にまで進んでいることを。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一方、その頃――
「新入り。名は」
バスティアン伯爵邸のメイドの控室。
整列した列の前を、厳格なメイド長グレタが歩いていた。
「えっと……アルテと申します」
ぎこちない裏声で一礼する。グレタはじろりとその顔を見た。
「ブランティーヌ家からの紹介というのが少し引っ掛かりますが、まあ、いいでしょう。しっかり働きなさい」
「はい、よろしくお願いいたします」
神妙な顔でそう答えたアルトに、グレタはいきなり掃除道具の山を押しつけた。
「まずは、お屋敷の掃除から始めます。アルテ、お前は大広間と応接室の床磨き。続いて洗濯室に行き洗濯物を受け取ってそれを全部干す。終わったら次は旦那様の昼食の準備の手伝い。いいですね」
(入って早々、なんで俺がそんなこと!)
いきなりこき使われる予感――
しかし、エミリア様とお金のために、ここはグッと我慢だ。
「かしこまりました、メイド長様」
面従腹背とはこのこと。アルトはにっこり笑ってお辞儀をした。
それから掃除道具を抱え、さっそく大広間に向かう。しかし馬の世話ならともかく、メイドの仕事には慣れていない。
他のメイドの見よう見まねで、豪華な大理石の床を這いつくばって磨いていくが、どうも要領が悪い。早くも足腰が痛くなってきた。
「アルテ! 動きが悪いよ! そんなことじゃ掃除だけで一日かかっちまう」
「も、申し訳ありません」
(クソッ! やってらんね――)
先輩の強面のおばさんメイドからどやされ、アルトの不満はあっという間に積もっていく。
「それが済んだら次は急いで洗濯室へ行って! 早く!」
「……はい」
大広間と応接室の床を何とかピカピカに磨き上げ、アルトは休む間もなく洗濯室へ向かった。
「どへぇ……!」
そこには、洗濯の終わった服やタオルやシーツが、いくつもの籠に分けられ、文字通り山のように積み上げられていた。
それらは、バスティアン一家のものだけではない。執事や召使、メイドたち使用人の全部の洗濯物だから、実に膨大な量だった。
「ほら、そっち持って」
今度は、年上の意地悪そうなメイドに急かされ、裏庭に洗濯物を運ぶ。
物干しに片っ端からそれらを干していくが、それにも順番があるようだった。
「まずは面積の大きいシーツから、順にタオル、服、下着――いいわね?」
(…………とほほ)
それでもアルトは真面目に働いた。
濡れたシーツを一息で物干しに吊るし、タオルを一枚一枚広げ、服のしわを伸ばし――
傍から見れば、働きぶりはなかなかのもの。
「いい調子ね、アルテ。頑張ってるじゃない」
相方の意地悪そうなメイドが、意外にもねぎらいの言葉をかけてくれた。
この人、見た目によらず、いい人なのかも。
「それにしても、あんたみたいな若くてきれいな子がこんな地味できつい仕事を選ぶなんて、なんかもったいないね。その顔を武器にしたらいろいろできそうだけど」
(褒めてるのか、それ? でも、メイドの仕事は好きでやってんじゃないんだよ)
と、思わず愚痴りたくなったが、黙って堪える。
「私は、他に何にもできないですから」
猫をかぶって言うと――
「ふーん。見かけによらずそっち方面は不器用なんだ。じゃあ、だからこそ男には気をつけなよ。ここには悪い虫が一杯いるから」
「……悪い虫?」
「そう。特にね、この家のご長子のレオン様――」
そのメイドは声を潜めて言った。
「かわいい子がいると、誰かれ構わずすぐにちょっかい出してくるから、うまくかわしな。いいようにされて飽きられたらポイだから」
「あ、それなら大丈夫です。私、おと――」
「おと……?」
「お、大人しくて目立ちませんから」
「男ですから」と言いかけて、アルトは慌てて誤魔化した。
危ない危ない。つい口が滑りそうになってしまった。
「おまえたち!」
そこへ、様子を見に来たメイド長のグレタの声が飛んだ。
「無駄口を叩いてないで、次の仕事! もう旦那様方の昼食の時間だよ!」
「は、はい! 申し訳ありません」
二人のメイドはお辞儀をし、今度は厨房に向かう。
(これじゃあ、この家の秘密を探る暇なんてないよ~)
アルトは、屋敷の廊下を早足で歩きながらため息をついた。それに、この大所帯では、常に人の目があって、無闇やたらに探し回るのは危険だ。
(とりあえず今は、昼食には目的のイザベラ嬢の顔を拝んでやるか)
エミリア様はずいぶん悪く言っていたけど、イザベラは果たしてどんな高慢で鼻持ちならない顔しているのか?
アルトは興味しんしんだった。
お昼時の厨房は、やたら忙しかった。
湯気と怒号と金属音が入り乱れる中を、アルトはメイド長の指示に従い、銀の盆を抱えて何度も往復した。
前菜の盛り合わせ、アスパラガスのスープ、川魚のテリーヌ、仔羊の香草焼き、色とりどりの野菜のマリネ、焼きたてのパン、それに名前も分からない何かのゼリー寄せ――
(昼飯だろ、これ。何皿あるんだよ)
貴族の昼食というものを、アルトは完全に見誤っていた。
運んでも運んでも次の皿が出てくる。しかも盆は重く、廊下は長く、グレタの目は厳しい。
「アルテ! 背筋!」
「は、はいっ」
慌てて背筋を伸ばす。銀の盆の上で、スープ皿がゆらりと揺れた。
やがて食堂の扉が開いた。
高い窓から陽の光が斜めに差し込み、長いテーブルの銀器が一斉に輝く。そこへ、一人の令嬢が現れた。
イザベラ=フォン=バスティアン。
美しい銀色の髪に、青灰色の目。静かに歩き、足音がほとんどしない。椅子を引かれるのを待つ間の、わずかな立ち姿にすら隙がなかった。
(……なるほど)
アルトは壁際で盆を抱えたまま、思わず見入った。
エミリア様とは確かに同じお嬢様だけど、タイプはまるで違うっぽい。
エミリアが陽の光のように明るく華やかならば、イザベラは月の輝きを思わせる神秘的な美しさ。いかにも貴族の令嬢らしい、気高いオーラを身にまとっている。
これでは、お互い相性が合わないのも無理はない。しかも家柄も美しさもほぼ同格、二人はライバルになって当然だ。
そのイザベラが、ふと壁際のアルトに目を留めた。
「あら、新しいメイドの方?」
「……アルテと言います」
慌てて深く一礼する。
「無理はしないでね。我が家のメイド長は、少々人使いが荒いところがありますから」
柔らかく微笑まれて、アルトは面食らった。
(……いい人じゃねーか)
お兄様を奪う女豹だのなんだのと、エミリア様は散々ひどいことを言っていたけれど――
と、そこへ食堂の扉が乱暴に押し開けられた。
「イザベラ! 今日のランチはなんだ!」
入ってきたのは、背の高い青年だった。
赤茶の明るい髪。すっきり整った顔立ち。ジュリアスと張り合えるだろう美男子である。
ただし、上着の前は開けっ放し、襟元は緩みっぱなし。そして何より、目つきが軽い。
「お兄様。お行儀が悪いですわ」
イザベラが、その青年を軽くいなす。
「アルテ。こちらは兄のレオンです。……どうか、お気になさらないで」
(気にするなって言われるほうが、気になるんだけど)
レオンは椅子に足を投げ出して座り、テーブルの上の皿を眺め――それから、ふと顔を上げた。
「失礼いたします」
まずはレオンのグラスにお水を注ぐアルト。
「おい」
レオンがアルトをじろじろ見る。
「見ない顔だな。新入りか?」
「……はい」
「名前は?」
「アルテです」
「アルテ――へえ、かわいらしい名だね」
頬杖をついて、レオンはしげしげとその顔を眺めた。
「なあアルテ。今夜、ちょっくら庭の東屋にでも来ないか。月が綺麗だぞ」
(うわ、やっぱり。こういう奴なんだ)
洗濯場のメイドの忠告が、そっくりそのまま目の前で再現されている。
「お兄様!」
イザベラがキリッとレオンをにらむ。
「使用人に手を出したら、今度こそお父様に申し上げますわよ」
「人聞きの悪い。月の話をしただけだろう。さあ、飯だ飯! 親父たちを待つことないから、ジャンジャン持ってきてくれ」
アルトは無言で会釈だけして、スープ皿を運びにかかった。ここはスルーするのが一番だ。
そう思って、レオンの横を通り過ぎようとした瞬間だった。
スカートの裾が、つんと引かれた。
「あっ!」
体勢が崩れる。盆が傾く。
アルトは反射的に、宙を舞った皿だけを片手で完璧に受け止めた。
だが中身はどうにもならない。ばしゃり、とスープが胸元から腰にかけて一気に降りかかった。
「…………」
食堂が静まり返った。
幸い、冷製のスープで熱くはない。
ただ、真新しい白のエプロンとメイド服が、緑色でドロドロに染まっただけだ。
「アルテ――!!」
壁際でメイド長グレタの顔が鬼のように変化した。
「待て待て」
レオンが片手を上げた。悪びれもせず、むしろ楽しそうに。
「この子は新入りなんだ、この程度の失敗は大目に見てやれ」
(今、スカートの裾を引っ張ったのあんただよね!)
アルトはレオンに抗議の視線を送るが、レオンはどこ吹く風だ。
「アルテ、大丈夫?」
イザベラが椅子を引いて立ち上がった。心底、心配そうな顔だった。
「冷たいものでよかったわ。……ごめんなさいね。新しいメイド服が台無し。よく似合っていたのに。――ねえグレタ、私からもお願い。この子を叱らないであげてね」
「しかしお嬢様。それでは他のメイドへの示しがつきません」
「グレタ、いいからいいから!」
レオンも調子よく言う。
「こんなところで叱られちゃあ、うまい飯も台無しだよ」
メイド長はふんっと鼻から息を出し、
「承知いたしました。お二人がそうおっしゃるのなら。――ほら、アルテ!」
と、不満そうにアルトに向き直った。
「ここはもういいから、早くその見苦しい服を着替えてくること。急いで!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(あのレオンとかいう野郎、マジでムカつく!)
プンプンしながら、使用人用の着替え室に入るアルト。
だが、今は早く汚れた服を替えて持ち場に戻らないと、またメイド長にどやされる。
(くそ、なんでこんな目に……)
アルトは、まずスープで汚れたエプロンを取った。
それから黒いタイトなメイド服を脱いだところで――ふと姿見に自分の全身が映った。
(これが、本当に俺……?)
白いレースのシュミーズとドロワーズ姿の自分を改めて見て、アルトは不意に胸が高鳴った。そこに映っているのは、スープで濡れた超美少女のあられもない姿だったからだ。
一瞬自分に見とれ、自然と顔が上気してしまうアルト。
(バカバカ! 俺はいったい何考えてんだ。エミリア様にこんな下着まで着せられて腹立てたのに)
と、その時――
ガチャリ、と着替え室の扉が開いた。
「え!?」
アルトが驚いて振り向くと、入ってきたのはレオンだった。




