ー第3節 橋の上の青年と、老賢者の奢り飯
第3節 橋の上の青年と、老賢者の奢り飯
橋の上の青年は、この世の終わりみたいな顔をしていた。年は二十代半ばか。かつてのオズワルドなら「若造が、人生を語るにはあと五十年早い」と一蹴しただろうが、今の外見年齢は彼と変わらない。
青年は水面を見つめたまま、欄干に足をかけようとしていた。
「おい、そこの若いの」
オズワルドが声をかけると、青年はビクリと肩を震わせて振り返った。虚ろな瞳がオズワルドを捉える。
「……なんですか。止めないでくださいよ。僕はもう決めたんです」
「止める? いや、そんなつもりはない。ただ、腹が減ったんでな。この辺りで一番美味い店を知らないかと思って聞いたんだ」
青年は呆気にとられた顔をした。自殺しようとしている人間に、飯屋の場所を聞く奴がいるだろうか。
「……ふざけてるんですか。僕は今から死ぬんですよ」
「そうか。それは大事業だな。だが、死ぬ前に一つ聞きたい。お前、最後に何を食べた?」
「は? えっと……昨日の夜、固くなったパンを……」
「それは良くない」
オズワルドは真顔で首を振った。
「冥土の土産話に『固いパンが不味かった』なんて言ったら、ご先祖様に笑われるぞ。それに、腹が減ってちゃ三途の川も渡りきれんかもしれん」
オズワルドは強引に青年の腕を掴んだ。老人の経験値に裏打ちされた絶妙な力加減と、若者の筋力が合わさり、青年は抵抗すらできずに欄干から引き剥がされる。
「ちょ、離してください! 僕にはもう希望がないんだ! 仕事も失敗して、婚約者にも逃げられて、借金まであって……!」
「ああ、そうかそうか。大変だったな。詳しくは飯を食いながら聞こう。私の奢りだ」
有無を言わせぬ迫力。それは単なる若者の強引さではなく、長い時を生きた者だけが持つ、一種の「諦観を含んだ優しさ」だった。青年は毒気を抜かれたように、ずるずるとオズワルドに引きずられていった。
連れて行かれたのは、橋の近くにある大衆食堂だった。オズワルドは席に着くなり、店一番の高いメニューを二人分注文した。分厚いステーキと、山盛りのポテト、そしてエール。
「食え。悩み事なんてのは、胃袋に血が回っていない時に考えるもんじゃない」
青年は戸惑っていたが、目の前に置かれた焼きたての肉の香りに、喉を鳴らした。生き物の本能は正直だ。彼は恐る恐るナイフとフォークを手に取り、一口食べた。
「……うまい」
「だろうな。さあ、もっと食え」
青年が夢中で肉を頬張り始めると、オズワルドは杖をテーブルの下に隠し、小声で囁いた。
「おい、おつまみ。出番だ」
『待ってました! いやあ、こいつの負の感情、熟成されてて美味そうだなぁ!』
杖の先の毛玉が、目に見えない触手のようなものを伸ばした。それは青年の背中にまとわりつく、どす黒いモヤ――「死にたい気持ち」「自己嫌悪」「絶望」――を、掃除機のように吸い込み始めた。
『いただきまーす!』
ちゅるる、という音が聞こえた気がした。
青年が食事を進めるにつれて、その表情が変わっていく。最初は涙を流しながら食べていたのが、次第に眉間の皺が消え、瞳に光が戻ってくる。
「……あれ?」
完食し、エールを飲み干した頃、青年は不思議そうな顔で自分の手を見つめた。
「なんか……どうでもよくなってきたな」
「何がだ?」
オズワルドがニヤリと笑う。
「借金? まあ働けば返せるか。婚約破棄? あんな金遣いの荒い女、こっちから願い下げだ。仕事の失敗? ……まあ、死ぬことに比べれば、上司に怒鳴られるくらい蚊に刺されたようなもんだな」
青年は憑き物が落ちたような顔で、腹をさすった。
「不思議だ。さっきまで、もう死ぬしかないって思い詰めてたのに。今はただ……」
「ただ?」
「腹一杯で、眠いです。明日の朝、またこの肉が食いたいなって思います」
「それが生きるってことだ」
オズワルドは勘定を済ませ(懐の金貨は古銭扱いされそうになったが、骨董的価値でむしろ高く売れた)、立ち上がった。
「死にたくなったら、また美味いものを食え。それでも死にたかったら、もっと高いものを食え。金がなければ稼げ。単純なことだ」
「……あなたは、一体?」
「ただの通りすがりの美食家だよ」
オズワルドはひらひらと手を振り、店を出た。
外に出ると、夕闇が街を包み始めていた。だが、先ほどまでの澱んだ空気は、少なくともオズワルドの周りでは霧散していた。
『ぷはーっ! 食った食った! 極上の味だったぜ!』
おつまみが杖の上で満足げに跳ねる。
『あいつの「死にたい」エネルギー、全部俺様の腹の中だ。おかげで魔力タンクは満タンだぞ』
「それは重畳。だが、根本的な解決にはなっておらんぞ。借金が消えたわけではない」
『いいんだよ。あいつはもう、自分の力でなんとかする気力を取り戻した。「死にたい」ってブレーキが壊れて、「生きたい」ってアクセル踏んだんだからな』
オズワルドは夜空を見上げた。星が瞬いている。
「……まあ、悪くない気分だ」
若返った肉体、超魔法を行使できる謎の毛玉、そして少しだけ明るくなった世界。
隠居するつもりだった老賢者の、二度目の青春――いや、余生を楽しむための「極楽作り」は、こうしてひっそりと幕を開けたのだった。
(第2章へ続く)




