第4章 第1節 南国の楽園に漂う不穏な気配と、甘美なる「無」への誘い
第4章 過去の亡霊
第1節 南国の楽園に漂う不穏な気配と、甘美なる「無」への誘い
帝都を離れ、オズワルド一行は南へと旅を続けた。目指すは大陸南端の港町、マリス。そこはかつて激戦地だった場所だが、今ではリゾート地として栄えているらしい。
「うわぁ……! 海だー!」
峠を越えた瞬間、目の前に広がったのは、宝石を溶かしたようなエメラルドグリーンの海だった。リナが歓声を上げて駆け出し、カイルも「おおっ」と目を丸くしている。
「悪くない景色だ」
オズワルドも満足げに頷いた。潮風が心地よい。若返った肉体は五感が鋭敏で、かつて感じたことのない鮮烈さで世界を捉えていた。
「さあ、まずは宿を取って、それから名物のシーフードだ。ロブスターが待っているぞ」
マリスの街は活気に満ちていた。白い石造りの家々、色とりどりのパラソルが並ぶビーチ、そして陽気な人々。戦争の傷跡など微塵も感じさせない平和な風景だ。
だが、オズワルドが予約していた高級宿の一室に入り、荷物を置いたその時だった。
『……おい、ジジイ』
杖の先で、おつまみが低い声を出した。いつもの軽口ではない、深刻なトーンだ。
『不味いなんてもんじゃないぞ、これ。吐き気がする』
「どうした?」
『空気が死んでる。この街全体に、とんでもなく巨大な『虚無』が張り付いてやがる』
オズワルドは眉をひそめた。窓から外を見る。相変わらず平和な光景だ。だが、注意深く魔力感知を行うと、確かに違和感があった。
人々の笑顔が、どこか作り物めいている。波の音が、不自然に規則的だ。まるで、精巧に作られた舞台セットの中にいるような感覚。
「……なるほど。これは幻術か、あるいは精神干渉か」
オズワルドが呟いた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
空間が歪み、世界の色が反転する。鮮やかな海と空は灰色に変わり、陽気な喧騒はピタリと止んだ。
「久しぶりだな、賢者オズワルド」
背後から声がした。
忘れるはずもない、あの忌まわしい声。かつてオズワルドたちが命懸けで討ち果たした、人類の敵。
振り返ると、そこには黒い霧のような人影が立っていた。
「魔王……ゼノス、か?」
「いかにも。我が名はゼノス。かつて貴様らに敗れ、肉体を失った者だ」
黒い霧が凝縮し、端正だが生気のない青年の姿を取る。
「だが、死んではいない。我は概念として残り、人々の心の闇に巣食い、再びこの世に顕現した」
リナとカイルが武器を構える。
「師匠、こいつは……!」
「下がっていろ。お前たちの手には負けん」
オズワルドは二人を制し、魔王と対峙した。
「何の用だ、亡霊。今さら世界征服でも企んでいるのか?」
「世界征服? ふふ、そんな低俗な望みは捨てたよ」
魔王は優雅に微笑んだ。
「我が見たのは、『生』という苦痛の繰り返しだ。人は生まれ、老い、病み、死ぬ。その輪廻こそが呪いなのだ。だから我は救済を与えることにした」
「救済だと?」
「そう。『永遠の安息』だ。意識を消し、苦痛を消し、存在そのものを『無』へと還す。それこそが究極の平和ではないか?」
魔王が手を広げると、灰色の風景が揺らいだ。
そこに見えたのは、人々が眠るように倒れ、そのまま砂のように崩れ去っていく光景だった。彼らの顔には苦痛はなく、ただ穏やかな虚無が張り付いている。
「この街の人間は、すでに我が『安息』を受け入れ始めている。彼らはもう苦しまない。悲しみも憎しみもない、完全なる静寂の世界へ行くのだ」
『おいおい、冗談じゃねえぞ!』
おつまみが激昂した。
『そりゃあ一番嫌いな味だ! 味がない! 苦味も酸味も旨味もない、ただの虚無! そんなもん食えるか!』
「同感だ」
オズワルドは杖を構えた。
「死ぬのは怖くないが、生きるのを放棄するのは許さん。お前の言う『安息』なんぞ、ただのゴミ捨て場だ」




