第十七章
アイリス姫は張り切っていた。
母のイルムヒルデ夫人との食事が、珍しく楽しいものになったらしいのだ。
食事の席で、最近の勉強への態度について、アイリス姫が褒められたそうだ。
イルムヒルデ夫人が褒める、余程彼女の機嫌が良かったのだろう。
だからアイリス姫は、さらに家庭教師に従順になり、勉強に集中した。
だがそれでもやはり、アイリス姫が最も熱中するのは、音楽の時間だ。
アイリス姫に与えられた、勉強の為の部屋の扉が開き、長い白髪の音楽教師、サイモンが姿を現す。
「ありがとうございました」
廊下で待っていたルナとマリアが丁寧に挨拶すると、サイモンはじろりと瞳だけでルナを一瞬見て、歩いていく。
ぽとり、彼は何かを落とした。
白い手袋だ。
「あら、サイモン様」マリアが気がついたが、ルナがその前に進み出て手袋を拾う。
「マリア、私これをサイモン様に届けてくるわ」
「分かった、行ってらっしゃい」
ルナはもう廊下に姿のないサイモンを足早に追った。
彼はすぐ近くの人気のない場所の壁に、背を預けていた。
「何の用だ?」ルナは『話がある』時のサインである手袋を渡しながら、サイモンに問う。
「ふん」と音楽教師は暗殺者へと変貌する。
「お前、街で余計な真似をしたらしいな」
「何のことだ?」
「まあいい、だがつまらん騒ぎは起こして欲しくないな。我々には大きな『目的』がある」
「騒ぎ?」
ふ、とサイモンは憫笑した。
「お前は若い、だから間違うのだろうが。いいか、自分に力がある、と思っている奴をむやみに刺激しないほうが良い。力とは容易に傲慢さに繋がるものだ。そんな連中の面子を潰してみろ……どうなると思う?」
「まさか……」ルナの脳裏にシームの顔が過ぎる。
「正当な手で報復されるんだ……どうも今、巷で噂になっている。パン屋の近辺で窃盗事件が多発しているらしい……パン屋の犯行を見た、との証言も出所不明で、ある」
ばっと弾かれたようにルナは駆け出した。
「おい、もう関わるな!」
サイモンが背中へと忠告するが、構わない。
どんどん、と彼女の心臓が激しく打ち鳴っていた。酷く背中が重く冷たい……あの時と同じだ。
全力で走るルナたが、宮殿でやや迷い、足を止める。
中庭の厩舎で馬を調達した方が早い、と考えたのだ。
すぐに否定する。
侍女でしかないルナが、勝手に馬に乗るわけにはいかない。
そもそも馬小屋の馬丁に、何と説明するのだ?
たたらを踏んで、ルナは宮殿の玄関へと向かった。
と、デイミアンが折良く馬に乗り、彼女の前まで駆けつけて来る。
「乗れ! サイモンに頼まれた」
ルナは跳ぶようにデイミアンの後ろに飛び乗った。
彼は見事な手綱裁きで馬を走らせる。
疾走する黒い馬、ルナはその背の後ろ部分に鞍もないのに座っている。
だが恐怖もないし、体勢を崩すこともなかった。
そんな訓練はとっくに済ませてあるのだ。
デイミアンの馬はあっと言う間にエンディミオン市の街へと入り、ルナの誘導を受け、二人はシームのパン屋付近に到着した。
何か騒ぎになっている。
ルナは騒然とする人々に構わず、パン屋の小屋へと向かった、向かおうとした。




