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なんとなくが、終わる日

気がついた時、悠は草の上に寝かされていた。

頬に風が当たる。どこかで鳥が鳴いている。聞いたことのない、高くて澄んだ鳴き声だった。

ゆっくりと目を開けると、見知らぬ空が広がっていた。青いが、少し色が濃い。日本の空じゃない。

(……ああ、そうか。魔法で飛ばされたんだった)

我ながら、ずいぶんあっさり受け入れたものだ。といっても、今度は死んだわけじゃない。魔法で吹っ飛ばされて、気を失っただけ。……まあ、一度は本当に死んでいる身だ。それに比べれば、可愛いものだった。

体を起こすと、全身がきしんだ。あんな勢いで草むらに突っ込んだのだから、当然だ。頬には、まだ草の感触が残っている気がした。

「——」

低い声がした。

振り返ると、少女が木にもたれて立っていた。

透き通るような、金色の髪。日の光を集めたみたいに、淡く輝いている。腰まで届くその髪が、風もないのに、ゆらりと揺れた気がした。肌は、雪のように白い。瞳は深い森を思わせるエメラルドグリーンで、こちらを見据える眼差しには、人間にはない、どこか超然とした光があった。

そして、長く、細く尖った耳。

整いすぎた造形は、生身の人間というより、精巧に作られた人形のようでもあった。美しい。けれど、触れたら壊れそうな、あるいは、こちらが消されそうな——そんな、近寄りがたい美しさだった。

湖で見た、あのエルフだった。

服は着ていた。よかった。さっきの魔法のことを思えば、刺激しないに越したことはない。

少女が何か言った。言葉が、全くわからない。

(……日本語じゃない。当たり前か)

悠は胸に手を当てた。

「田中悠」

それから少女を指さして、首を傾けた。

少女は眉をひそめた。渋々といった様子で胸に手を当て、何か言った。聞き取れなかった。もう一度首を傾けると、少女は小さくため息をついて、もう一度ゆっくり言った。やはり、わからない。

知らない言語だった。音の並びも、口の動きも、何もかも。

途方に暮れていると、少女は腕を組み、悠の服を見て、周囲の森を見回し、最後にもう一度悠を見た。そして、面倒なものを拾ってしまった、とでも言いたげなため息をついて、歩き出した。振り返って、手招きをする。

(……ついてこい、ってことか)

悠は立ち上がって、その後を追った。

しばらく森を歩いた。少女は何も言わなかった。悠も言えなかった。言っても伝わらない。代わりに、その背中を眺めた。歩き方に隙がない。時々立ち止まって気配を探る。森に慣れた人間の動きだった。

一度だけ、少女が立ち止まって悠を見た。自分の耳を指さして、首を横に振る。

(……耳のことは言うな、ってことか)

悠は頷いた。理由はわからないが、言わないでほしいなら言わない。それくらいの恩は感じていた。

やがて木々の間から、大きな村が見えてきた。石造りの家が立ち並び、畑があり、井戸があり、人が行き交っている。思っていたより、ずっと栄えていた。生活の匂いがした。

少女は村の入口で立ち止まり、村の方を指さした。

(……ここまでだ、ってことか)

悠は深々と頭を下げた。礼を言いたかったが、言葉が出ない。せめて、気持ちだけでも。

少女はしばらく悠を見ていた。それから、ほんの少しだけ口の端を上げた。最初の警戒した顔とは別人みたいだった。そして短く何か呟いて、森へ消えた。

(……名前、結局わからなかったな)

そう思いながら、悠は歩き出した。

その時、ふと足が止まった。

(……あの言葉、どこかで聞いた気がする)

デパートで、黒いローブの男たちが話していた言葉。あの響きと、同じだった。間違いない。

(……あいつらは、この世界と繋がってるのか)

心臓が、少し速くなった。意味はわからない。でも、言葉を覚えれば、いつかわかるかもしれない。あの男が最後に言った、呪文みたいな言葉も。

(……覚えるしかないか)

村の入口で、金属音が聞こえた。規則正しい、リズムのある音。

覗くと、一人の少女が剣を振っていた。

白銀の髪を、後ろで一つに束ねている。雪のような、月の光のような、淡く冴えた銀。汗で頬に張りついた後れ毛が、振り下ろすたびに揺れる。歳は、十五くらいだろうか。

切れ長の、青い瞳。澄んだ湖のような色なのに、その奥は、抜き身の刃みたいに張り詰めていた。線は細く、まだ少女の幼さを残している。なのに、剣を構えた立ち姿には、一分の隙もない。

美しい、と思った。ただ、それは、温かみのある美しさではなかった。冬の朝の、凍った湖のような。触れれば指が切れそうな、研ぎ澄まされた、生きた人間の美しさだった。

一振りごとに、空気が鳴る。素人目にも、相当な腕だとわかった。

ただ、強いだけじゃなかった。何かに追い立てられるような、鬼気迫る素振りだった。それでも止めない。止まったら何かに飲み込まれる、とでもいうように。

悠が一歩踏み出した瞬間、少女の動きが止まった。

次の瞬間、剣の切っ先が喉元にあった。瞬きする間もなかった。

少女が、低く鋭い声で何か言った。「何者だ」とでも言うような響き。

悠は両手を上げた。

(また両手を上げてる。デパートでも、ここでも。俺の人生、降参ポーズの練度だけが上がっていく)

少女は剣を向けたまま、悠を見た。氷みたいに冷たい瞳。でも、奥に何か必死なものが見える気がした。

悠は胸に手を当てた。

「田中悠」

少女の眉が、わずかに動いた。

沈黙が続いた。少女は剣を下ろさない。悠も手を下ろさない。どこかで鳥が鳴いた。

やがて少女は、剣の切っ先を悠に向けたまま、村の方へ向かって何か叫んだ。視線も、刃先も、悠から一切外さない。よく通る声だった。

しばらくして、男たちが集まってきた。農具を持つ者、剣を持つ者。五、六人が悠を遠巻きに囲む。誰も笑っていない。当然だ。どこの誰ともわからない男が、突然現れたのだから。

人垣を割って、一人の男が前に出た。四十がらみ。がっしりした体格だが、顔は穏やかだった。値踏みではなく、人となりを見極めようとする、静かな目。

男が村人に何か言った。村人がざわめき、反論する声もある。男はもう一度、静かに、しかし力強く言った。村人は渋々、道を開けた。男の言葉には、この村での重みがあるようだった。

男は悠に向き直り、手を差し伸べた。握手だ、とわかった。

悠はその手を握った。分厚くて、温かい手。長年、土と道具を握ってきた手だった。

男は胸に手を当てた。

「——マルク」

悠も胸に手を当てた。

「田中悠。ユウでいいです」

マルクは「ユウ」と繰り返した。発音は少しおかしかったが、悠は頷いた。

(……なんか、いい人そうだ)

理屈じゃない。ただ、この人は信用できる気がした。

連れて行かれたのは、村の中心の石造りの家だった。少し大きい。村長の家だろう、となんとなくわかった。

暖炉の前の椅子を指さされ、悠は腰を下ろした。マルクは向かいに座り、両手を広げて何かを問う仕草をした。お前は何者だ、と。

悠は遠くを指さし、歩く真似をして、自分を指さした。遠くから来た、という意味のつもりだった。マルクは顎に手を当てて考え込む。

その時、後ろで舌打ちのような音がした。さっきの剣の少女が、腕を組んで立っていた。呆れた顔をしている。

少女は隅から紙と炭を持ってきて、テーブルに広げ、すらすらと描き始めた。手際がいい。丸い形と、いくつかの点。地図だ。

一つの点を指さされ、悠は首を振った。別の点。また振る。全部の点を示されて、全部に首を振った。

少女とマルクが顔を見合わせた。

悠は空を指さし、目を閉じて倒れる真似をして、目を開けて湖の形を描いた。気がついたら湖にいた、と。

少女が、自分のこめかみを指でつついた。

(……記憶がない、と思われたか)

悠は少し考えて、頷いた。記憶喪失ということにした方がいい。異世界から来たなんて、信じてもらえるわけがない。気味悪がられて追い出されるかもしれない。

(……嘘じゃない。この世界のことは何もわからないんだから、記憶がないのとほぼ同じだしな)

少しだけ、心の中で言い訳をした。

マルクは少し考え、悠に頷いた。そして暖炉の方へ何か叫んだ。

しばらくして、温かいスープが運ばれてきた。野菜と、何かの肉。素朴だが、確かに食べ物の匂いだった。

悠の腹が、盛大に鳴った。

部屋が、しんとした。

少女の肩が、ぴくりと動いた。一瞬、何か言いたげに口を開きかけて、やめる。じっと悠を見る目から、さっきまでの剣呑な光が、わずかに引いていた。剣に置かれていた手も、いつの間にか離れている。

警戒を解いたわけじゃない。ただ、こいつは腹を空かせて間抜けに腹を鳴らす程度の男だ——そのくらいには、毒気を抜かれたらしかった。

マルクだけが、声を上げて笑った。

悠は顔を赤くして、スープに口をつけた。

温かかった。塩気が、体に染みた。

(……うまい)

異世界に飛ばされて、言葉も金も身分もない。なのに、温かいスープ一杯で機嫌が直る。我ながら、安い男だと思う。

それでも、なんだか泣きそうになった。死んで、異世界に飛ばされて、言葉も通じなくて。それでも、誰かの作った温かいものが、ここにあった。

マルクが立ち上がり、悠の肩にそっと手を置いた。ゆっくりと、何か言った。意味はわからない。でも声と、目の温かさで、なんとなく伝わった。

(……ここにいていい、ってことか)

悠は頭を下げた。スープの器に鼻先がつきそうになった。

マルクは笑った。皺の刻まれた、穏やかな笑顔だった。

(……なんか、父親みたいだな)

そう思ったら、鼻の奥がつんとした。実の父とは、もう何年もまともに話していない。それを、こんな異世界で思い出すとは思わなかった。

それから、悠の日々が始まった。

午前は村の手伝い。午後は剣の少女に叩かれる。夜はマルクに言葉を教わる。

剣の少女は、クレアといった。マルクの娘らしい、と知るのは、もう少し後のことだ。

言葉の勉強に、マルクは根気強く付き合ってくれた。物を指さして名前を言う。悠が繰り返す。マルクが頷く。それだけのことを、毎晩。マルクは決して急かさず、間違えても笑って、もう一度ゆっくり言ってくれた。

最初は「水」「火」「食べる」。指さして、繰り返すだけ。

やがて、いくつかの単語が耳に馴染んできた。

剣の稽古は、容赦がなかった。クレアは毎日悠を広場に呼び、木剣で叩いた。手加減なし。倒れても、立つまで待つ。立てば、また叩く。

(……鬼か)

本気でそう思った。でも文句は言えない。言葉がないからだ。

それでも、クレアが本物なのはわかった。無駄のない動き。的確な指摘。十五歳とは思えなかった。

季節が、少しずつ移っていった。

言葉が、単語から、短い文へと変わっていった。マルクの言うことが、半分ほど聞き取れるようになった頃。

ある日の昼下がりだった。

悠が広場で薪を積んでいると、向こうでクレアが、村の子供にまとわりつかれていた。

六つか七つの男の子。木の棒を振り回して、剣の真似をしている。クレアの稽古に憧れたのだろう。

「ねえ、剣、教えて! ねえってば!」

子供がクレアの裾を引く。

クレアは素振りの手を止め、子供を見下ろして、短く言った。

「触るな。危ない」

声が、冷たかった。剣の切っ先のように、まっすぐで、容赦がなかった。

子供の動きが、止まった。

「……なんで」

「子供が持つものじゃない。怪我をする。あっちへ行け」

それだけ言って、クレアは背を向けた。また素振りを始める。取りつく島もなかった。

子供の顔が、みるみる歪んだ。

「……っ、クレアなんて、きらいだ!」

棒を投げ捨てて、泣きながら走り去っていった。

クレアは、振り返らなかった。素振りを続けた。一振り、一振り、いつもと同じリズムで。表情も変えない。

でも悠は見ていた。クレアの剣が、ほんの一瞬、乱れたのを。

広場には、何人か村人がいた。井戸端の女たち。店先の老人。みんな、ちらりとその様子を見て——それから、何事もなかったように目を逸らした。

誰も、間に入らなかった。誰も、声をかけなかった。「またか」という空気だった。腫れ物に触るような。

(……避けられてるのか、この子)

悠は薪を抱えたまま、それを見ていた。

クレアの言うことは、間違っていない。剣は危ない。子供が振り回していいものじゃない。完全に、正しい。

でも、正しいだけだった。「心配なんだ」のひと言が、ない。頭を撫でる手が、ない。だから、ただ突き放したように聞こえる。本人に、そのつもりがなくても。

悠には、まだ気の利いたことなど言えない。間に入る言葉も持っていない。だから、ただ見ているしかなかった。

誰もいない広場の真ん中で、たった一人、剣を振り続ける背中を。

(……強くて、正しくて、誰より真面目で)

なのに、どうしようもなく、一人ぼっちに見えた。

悠は薪を抱え直し、その場を離れた。なぜか、胸の奥に小さな棘が刺さった気がした。

その答えを知ったのは、しばらく後の、夕暮れの丘でのことだった。

マルクが悠を、村外れの丘に連れて行った。

広大な森が夕日に染まり、オレンジ色に輝いている。遠くの山の稜線が、赤く滲んでいた。

丘の片側は、深い谷へと切れ落ちる崖になっていた。何の気なしに覗き込むと、底が霞むほどの高さで、思わず足がすくんだ。

「危ないぞ」マルクが、悠の肩を引いた。「端には、近づくな」

二人は、崖から少し離れた草の上に、並んで座った。しばらく、何も言わなかった。言葉がなくても、不思議と居心地は悪くなかった。

やがてマルクが、ゆっくりと、言葉を選びながら話し始めた。悠は単語を拾い、繋ぎ合わせた。

「クレア」「友人」「娘」「商人」「王都」「帰り道」「魔物」「馬車」。

クレアは、マルクの親友の娘だった。その親友は商人で、王都からの帰り道、馬車を魔物に襲われて死んだ。クレアだけが、生き残った。

(……そうか)

悠は夕日を見つめた。

クレアの、鬼気迫る素振り。追い立てられるような剣。そして昼間、子供を突き放した、あの冷たい声。

それが、なんとなく腑に落ちた。

クレアは、強くなりたいんじゃない。強くならなければ、と思っているのだ。守れなかった過去を、二度と繰り返さないために。

マルクは、続けた。

「あいつは」「優しくされ方を」「知らない」「だから」「不器用だ」。

そして、最後にこう言った。

「いい子なんだ」「だから」「お前」「あいつの」「友達に」「なってやってくれ」。

悠はマルクを見た。皺の刻まれた横顔が、夕日に照らされていた。笑っていた。でも目が、少し悲しそうだった。

(……自分が歳だってこと、わかってるんだな)

いつか自分がいなくなった後、クレアを一人にしたくない。そういう顔だった。

(……なんで俺なんだろうな)

だらしなくて、剣も冴えなくて、いつ元の世界に帰るかもわからない。そんな自分に、この村長は、大事な娘を託そうとしている。

でも、答えはなんとなくわかった。きっと理由なんてない。マルクはただ、悠を信じてくれているのだ。会ったばかりの、どこの誰ともわからない自分を。

「……わかった」

片言だった。でも、精一杯だった。

マルクは悠を見て、目を細めた。

二人は、夕日が沈むまで、並んで座っていた。

ある時から、マルクは魔法も教えてくれるようになった。

両手を前に出し、何か唱えると、手のひらに小さな炎が灯った。

(……魔法、本物だ)

当たり前だが、改めて思った。あのエルフに吹っ飛ばされた時以来だった。

やってみろ、と手振りで示される。悠は念じた。何も起きない。もう一度。何も起きない。三度目。何も。

(……才能、ないなあ)

まあ、知ってた。剣もだめ、魔法もだめ。元の世界でも、これといった取り柄はなかった。異世界に来てまで平常運転とは、たいしたものだ。

壁にもたれて見ていたクレアが、ふっと鼻を鳴らした。それから、おもむろに立ち上がる。

軽く、跳んだ。ただそれだけの動作だった。なのに、自分の背丈の倍はある高さまで、ふわりと体が浮く。着地の音は、ほとんどしなかった。

その足元が、淡く光っていた。

「身体強化だ」とマルクが言った。「クレアは、これが得意でな。剣の腕に、魔法が乗る。あの歳で、あれだけ動けるのは、そのおかげだ」

(……なるほど)

あの尋常じゃない速さは、地力だけじゃなかったのか。悠は妙に納得した。剣も魔法も、どちらも一流。我ながら、つくづく差を感じる。

マルクは笑って、悠の手を取り、手のひらの中心を指でつついた。ここに集中しろ、と。

もう一度。手のひらが、ほんのわずかに温かくなった気がした。それだけ。炎は出ない。

それでも、マルクは「それでいい」という顔で頷いた。

クレアが何か言った。「才能」「ない」「でも」「続けろ」。

(……わかってるよ)

悠は苦笑して頷いた。でも、その言い方が、いつもより少しだけ柔らかい気がした。

才能はなかった。でも、毎日続けた。

(……やることがあると、余計なことを考えずに済む)

死んだこと。咲耶のこと。帰れるかどうか。考え出すときりがない。だから、体を動かした。

ある夜、マルクが切り出した。森にゴブリンが増え、村人が畑や薪拾いに行けなくなっているという。

「お前」「一緒に」「来るか」。

悠は少し考えた。ゴブリンが何かもわからない。でも、マルクが困っているのはわかる。

(……まあ、行くか)

世話になっている。だらしない自分でも、それくらいの恩は返したかった。

翌朝、悠とクレアとマルク、それに村から三、四人が森に入った。

いつも荷物運びを一緒にやる兄ちゃんもいた。悠が村に来たばかりで誰も話しかけてくれなかった頃、最初に肩を叩いてくれた男だ。目が合うと、にっと笑って手を振ってきた。悠も振り返した。

(……頼もしいような、心配なような)

クレアが先頭。マルクが後方。悠は中央で、もらった剣をぎこちなく握っていた。

しばらく進むと、クレアが手で制止した。茂みの向こうから、低い唸り声。

緑の肌。鋭い爪。濁った目。一メートルほどの背丈。思ったより小さい。二体いた。

(……あれくらいなら、クレアなら一瞬だろう)

その通りだった。一体が突進してくると、クレアが一閃、倒した。目で追えなかった。もう一体はマルクの炎で退散した。あっという間。悠は剣を構えたまま、突っ立っていただけだった。

兄ちゃんが肩を叩いて、「次は頑張れ」とでも言いたげに笑った。クレアは「役立たずだな」という目で悠を見たが、それ以上は何も言わず、また歩き出した。

(……否定できない)

さらに進むと、今度は複数のゴブリンが現れた。

五体はいる。いや、奥にもまだいるかもしれない。さっきより、明らかに多い。

クレアが剣を抜く。マルクが構える。兄ちゃんが農具を握り直す。

「ユウ」

クレアが短く呼び、右側を指さした。

(……右を守れってことか)

任されたのが、少し意外だった。あれだけ役立たず扱いされていたのに。悠は頷いて、右へ回った。

戦闘が始まった。

クレアの体が、淡く光った。身体強化だ。次の瞬間、その姿が掻き消えた——と思った時には、もう一体のゴブリンが両断されていた。速い。あの稽古での素振りとは、比べ物にならない。地を蹴る脚も、剣を振る腕も、魔法で限界を超えている。

マルクの炎が一体を退ける。兄ちゃんが「うおおお」と情けない声で別の一体を押さえ込む。

残る一体が、その兄ちゃんの背後へ突進した。兄ちゃんは気づいていない。

クレアが気づいた。だが、強化した体でも、二体を同時に抑えながら、離れた兄ちゃんまでは届かない。それでも、地を蹴って体を投げ出すように、兄ちゃんをかばった——その一瞬の隙に、相手にしていたゴブリンの爪が、クレアの腕を掠めた。

血が出た。

(……まずい)

悠の体は、頭より先に動いていた。

気がつくと、悠はクレアの前に飛び出していた。剣を構え、手が震えている。傷を負ったクレアと、突進してくるゴブリンの間。そこに、自分が立っていた。

ゴブリンが悠を見た。濁った目。鋭い爪。臭い息。垂れるよだれ。殺意が、はっきりと伝わってきた。

(……怖い)

正直に思った。膝が震える。逃げ出したかった。

でも、足は動かなかった。後ろにクレアがいる。いつも自分を鍛えてくれた、不器用な少女が。

(……マルクと、約束したからな)

友達になってやってくれ、と。だらしない自分が誰かに頼られたのは、たぶん人生で初めてだった。その約束を、こんなところで破りたくなかった。

ゴブリンが唸り、突進してきた。

悠は、目を閉じなかった。

剣を、前に出した。

ゴブリンの動きが、止まった。しばらく、時間が止まったような気がした。

そして、ゆっくりと、倒れた。

残っていた最後の一体が、仲間がやられたのを見て、怯んだ。

兄ちゃんが、農具を振り回して吠えた。「うおおお、あっち行け!」へっぴり腰のまま、それでも必死に追い立てる。ゴブリンは甲高い悲鳴を上げて、傷ついた足を引きずりながら、茂みの奥へ逃げていった。

「……に、逃がしちまった」兄ちゃんが、ばつの悪い顔で頭を掻いた。

マルクが「深追いするな」と止めた。手負いのゴブリンだ。放っておけば、じきに森のどこかで野垂れ死ぬ。誰もが、そう思った。

——その判断が、何を呼び込むことになるか。この時はまだ、誰も知らなかった。

悠は剣を握ったまま、動けなかった。手が、さっきより強く震えていた。

(……殺した)

頭ではわかっていた。ここは異世界で、ゴブリンは魔物で、やらなければやられた。後ろのクレアを、守れたのだ。

でも、体が正直だった。吐き気がした。膝が笑った。手のひらに、命を断った感触が残っていた。

大きな手が、肩を掴んだ。マルクだった。何か言った。言葉はわからない。でも目が、真剣で、温かかった。「よくやった」と言っているような目だった。兄ちゃんも背中を叩いた。いつもの明るい顔で。

それだけで、少し息ができた。

クレアが、悠の前に来た。腕から血を流したまま、じっと悠を見て——目を見開いた。

「……ありがとう」

自分でも思ってもみなかった言葉がこぼれた、という顔だった。すぐに口を引き結んで、気まずそうに目を逸らす。

でも、悠の震えが、少しだけ止まった。

その夜、悠は天井を見つめて思った。

(……ここは、日本じゃない)

当たり前のことだった。でも今日初めて、本当の意味で理解した気がした。誰かを守るために、誰かを殺さなければいけない世界。

それでも。

(……守れて、よかった)

そう思えた自分に、少し驚いた。

ゴブリンを倒したあの日から、クレアの様子が、少しおかしかった。

きっかけは、たぶん、あの「ありがとう」だ。あれ以来、クレアは悠と、どう接していいかわからなくなっているように見えた。

まず、夕食の皿が、やけに重くなった。

「……多くないか、これ」

悠が聞くと、クレアは前を向いたまま、ぶっきらぼうに言った。

「気のせいだ」

気のせいではなかった。肉が、明らかに一切れ多い。次の日も、その次の日も、悠の皿だけが、こんもりと盛られていた。

それでも、悠は黙って食べることにした。うまかったし、腹も減っていた。それに、何か言ったところで、また「気のせいだ」と返ってくるだけだ。きっとクレアは、感謝の伝え方を、それくらいしか知らないのだ。

剣の稽古も、少し変わった。

相変わらず容赦はない。悠が倒れるまで叩いてくる。けれど、悠が腕を強く打ちつけて顔をしかめた時、クレアは素振りの手を止めて、無言で近づいてきた。

そして、悠の腕を取った。骨が折れていないか、丁寧に確かめる。少し腫れているのを見て、どこからか布を出して、巻いてくれた。

その手が、思いのほか優しかった。ついさっきまで、容赦なく木剣を振るっていた手と、同じ手とは思えなかった。

「……すまん」クレアが、ぼそりと言った。「少し、強かった」

「いや、平気」悠は笑った。「いつものことだし」

クレアは何も言わず、布を巻き終えると、さっと立ち上がって、また素振りに戻った。耳が、少し赤かった。

(……不思議な奴だな)

悠は、布の巻かれた腕を見た。

口では「役立たず」と言う。剣では容赦なく叩いてくる。なのに、飯はこっそり多く盛るし、手当ての手は、こんなにも優しい。

優しくしたいのに、優しくし方を知らない。だから、ぶっきらぼうな形でしか、それを出せない。

丘でマルクが言っていた言葉が、ふと蘇った。不器用なだけなんだ、と。

(……本当に、そうだな)

悠は、巻かれた布を、そっと撫でた。なぜか、悪い気は、しなかった。

ただ、クレアの「変化」には、もう一つ、よくわからない方向のものもあった。

ある日の昼過ぎ、稽古の合間に広場の端で休んでいると、声がした。

「あの……」

村の女の子だった。十六、七歳くらい。頬を赤くして、両手でパンと水を差し出していた。

悠は頭を下げた。

「ありがとう」

片言だったが、感謝は伝わったらしい。女の子がにっこり笑って、何か話しかけてくる。悠が村で頑張っているのを見ていた、というようなことを言っているらしかった。

(……いい子だな)

そう思った、その時だった。

気がつくと、クレアが悠と女の子の間に立っていた。いつの間に来たのか、わからなかった。

クレアは女の子を見た。笑顔だった。でも、目が、笑っていなかった。

さっき手当てをしてくれた時の、あの優しい気配は、どこにもない。何か短い言葉を交わすうち、女の子はみるみる青ざめて、パンと水を悠に押し付けると、足早に去っていった。

クレアは悠を振り返った。もう、いつもの凛々しい表情に戻っていた。

「……稽古の時間だ」

そう言って、さっさと広場の中央へ戻っていく。

悠はパンをかじりながら、首を傾げた。

(飯は多く盛る。手当てはする。なのに、笑顔で人を追い払う。……取扱説明書がほしい)

優しいのか、怖いのか。よくわからない奴だった。

ただ、一つだけ、なんとなく思った。

(……俺、もしかして、避けられてはいない、んだよな)

むしろ、その逆な気さえする。でも、それが何なのか、悠にはまだ、わからなかった。

クレアの「変化」は、それだけではなかった。

ある夜のことだった。マルクが寝室へ引き上げた後、悠は暖炉の前で一人、火を見ていた。

ふと、入口に気配を感じた。振り返ると、クレアが立っていた。いつからそこにいたのか、わからない。

「……どうした?」

クレアは何も言わなかった。ただ、じっと悠を見ていた。火明かりで、その表情はよく見えない。何か言いたげに、口を開きかけて——やめる。そんな仕草を、二度、三度。

しばらくして、結局、短く言った。

「別に」

そして、自分の部屋に消えた。

(……なんだったんだ)

悠は、入口をしばらく見つめていた。

飯を多く盛る。手当てをする。他の女を追い払う。かと思えば、夜中にふらりと現れて、「別に」とだけ言って帰っていく。

(……やっぱり、取扱説明書がほしい)

でも、と悠は思った。

あれはたぶん、用があって来たわけじゃない。ただ、なんとなく。誰かのそばに、少しだけいたかった。それだけなんじゃないか。

そう思うと、なんだか、放っておけない気がした。

(……不器用な奴だな、本当に)

火が、ぱちりと爆ぜた。

村での暮らしの中で、悠は少しずつ、この世界のことを知っていった。

畑を耕しながら、井戸端で水を汲みながら、夜の言葉の練習のついでに。断片を拾い集めるように、世界の輪郭が、おぼろげに見えてきた。

この地が、グランテラと呼ばれていること。森の向こうには、馬車で数日かけて行く「王都」という大きな都があること。村の若い連中は、いつか王都へ出て一旗あげるのを夢見ていること。

そして——この世界には、人間だけが住んでいるわけではないこと。

「エルフ?」

ある夜、悠が湖のエルフを思い出して尋ねると、マルクの顔が、少し曇った。

「会ったことがあるのか」

「いや……」悠は慌てて首を振った。「話に、聞いただけ」

マルクは、ゆっくりと頷いた。エルフは森の奥に里を持つ、長い耳をした種族だ。昔は人間と争った。今は戦こそしないが、互いに近づかない。森で出くわせば、目を逸らしてすれ違う。それが、両種族の暗黙の了解なのだという。

(……だから、あいつは村の前で別れたのか)

腑に落ちた。同時に、少し申し訳なくなった。人間とエルフが距離を置く中で、あの子は言葉も通じない自分を、わざわざ村まで送ってくれた。本当なら、関わらない方がいいに決まっていたのに。

(……いい奴だったな、あいつ)

最初は警戒した顔をしていた。でも別れ際、ほんの少しだけ笑ってくれた。あの笑顔の意味が、今なら少しわかる気がした。いつか、ちゃんと礼を言いたい。なんとなく、そう思った。

それから悠は、ずっと気になっていたことを口にした。

「マルク。……オルフェウス、って言葉、知ってるか?」

マルクの手が、止まった。少し考えて、首を横に振る。

「いや。聞いたことがない。……どこで、その言葉を?」

「……なんとなく。夢で、聞いた気がして」

嘘だった。本当は、デパートであの黒いローブの男たちが口にしていた言葉だ。でも、それを説明するすべは、まだなかった。

マルクは少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

(……この村では知られてないのか。それとも、まだ広まってないのか)

どちらにしても、手がかりは王都にありそうだった。

悠は暖炉の炎を見つめた。

(……元の場所にも、いつか帰れたらいいな)

まだ、ただの願望だった。確証も、決意もない。いつか、なんとなく帰れたらいい。その程度の、淡い思い。

クレアが、ちらりと悠を見た。でも悠は炎を見つめていて、その視線には気づかなかった。

季節が一つ巡る頃、村で祭りがあった。

屋台が並び、楽器が鳴り、子供たちがはしゃいでいた。普段は静かな村が、別の場所みたいに賑わっている。

悠も、その中を歩いていた。

考えてみれば、ずいぶん経った。言葉も少し話せるようになった。畑仕事も、剣も、毎日続けてきた。最初は珍獣扱いだった村人も、今では気軽に声をかけてくれる。

マルクには世話になった。クレアには、叩かれながらも鍛えてもらった。

(……何か、お礼がしたいな)

もっとも、マルクへの恩は、祭りの屋台で買えるようなものじゃない。命を拾われ、家に置いてもらい、言葉まで教わった。あの人に何を返せばいいのか、悠には見当もつかなかった。

(……マルクには、いつか、ちゃんと。クレアには……何か、ないかな)

そんなことを考えながら屋台を冷やかしていると、花屋の前で足が止まった。

小瓶に入った、白い花。光を帯びているような、不思議な輝き。こんな花、見たことがなかった。

「それは奇跡の花だよ」

店主が言った。顔見知りの女だった。悠が荷物運びを手伝ったこともある、気のいいおばさんだ。

店主が、ぽつぽつと話してくれた。離れていても、この花を見れば相手の無事がわかる。咲いていれば、生きている。枯れていれば——。

そこで言葉を濁し、少し寂しそうに笑った。

「本当はうんと高いんだけどね」店主はにっと笑い直した。「あんたには世話になったから、まけとくよ」

悠は少し迷って、ゴブリン退治の報酬を取り出した。安くしてもらっても、それなりの値段だった。でも、なぜか買いたいと思った。

小瓶を手に広場へ戻ると、見覚えのある女の子が近づいてきた。いつだったか、稽古帰りにパンと水をくれた子だ。あの時はクレアに追い払われていたが、今日もまた話しかけてくる。

(……ああ、あの時の子か)

悠が会釈を返そうとした、その時。

すっと、クレアが現れた。悠の隣に立ち、無言で女の子を見る。笑顔だった。でも、目が笑っていなかった。

女の子は一瞬で青ざめ、足早に去っていった。

(……またこのパターンか。前もこの子だった)

クレアは、なぜかこの子が近づくと現れる。

クレアは不機嫌そうに腕を組んだ。

悠は小瓶を取り出し、差し出した。

「クレア。いつも、ありがとう」

片言だが、精一杯だった。

クレアは小瓶を見た。白い花を見た。それから、悠を見た。

次の瞬間、顔が真っ赤になった。耳まで赤い。今まで見たことがないくらいに。

「……っ、こ、これ……」

声が、震えていた。さっきまでの不機嫌が、どこかへ吹き飛んでいた。

(……そんなに驚くことか? 花一輪なのに)

クレアはしばらく花を見つめ、それから、何かを決心したように、両手でそっと小瓶を受け取った。胸に、宝物みたいに抱きしめる。

「……大事に、する」

蚊の鳴くような声だった。クレアらしくない、小さな声。

遠くで、マルクがなぜか苦笑いしていた。

(……なんでこんなに照れてるんだ)

悠には、全くわからなかった。ただ、お礼が喜んでもらえたなら、それでよかった。

その夜、悠はベッドで天井を見つめていた。

なかなか寝付けなかった。昼間に聞いた王都の話が、頭をぐるぐる回っていた。グランテラ。種族。王都。そして——帰り方。

(……俺、これからどうするんだろうな)

考えてみれば、ずっとそうだった。会社も、なんとなく入った。デパートに行ったのも、なんとなく。咲耶を助けようとしたのも、気がついたら体が動いていただけだ。死んで、この世界に来て、村に拾われて、剣を習って。

流されて、はぐらかして、なんとなくで済ませてきた。気づけば死んで、異世界にいる。なんとなくで生きてきた人間の、なんとなくな末路だ。

田中悠の人生なんて、いつもそんなものだった。

でも。

(……このまま、なんとなくで、いいのか)

窓の外で、虫が鳴いていた。

帰りたい場所がある。守れなかった約束がある。唐揚げを一緒に食べる約束をした、あの女の子。無事だろうか。きっと、もう自分のことなんて忘れているだろう。それでも——一度くらい、ちゃんと約束を果たしたかった。

そのためには、帰る方法を探さないといけない。誰かが教えてくれるのを待っていても、何も始まらない。

(……決めた)

悠は、暗い天井に向かって、小さく頷いた。

元の世界に戻る方法を、探す。そのために、王都へ行く。

生まれて初めて、自分で決めた目的だった。大した決意でもない。確証もない。帰れる保証なんて、どこにもない。

でも、なんとなくじゃなかった。それだけで、少し、自分が変わった気がした。

悠は目を閉じた。その夜は、不思議とよく眠れた。

――その、同じ夜。

森の奥。あの日、兄ちゃんが取り逃がした手負いの一体が、傷を引きずって茂みをさまよっていた。

月明かりの下に、人影があった。黒いローブの集団。その中心に、一人だけ赤いローブを纏った男が立っていた。背が高く、フードを深く被り、顔は見えない。

ゴブリンは怯えて逃げようとした。だが傷ついた足がもつれ、動けない。

赤いローブの男は、ゴブリンの前にしゃがみ込んだ。

フードの奥で、低く、ねっとりと笑う。

「ふぇぇはあは……」

何を言うでもない。ただ、その笑い声が、おぞましかった。

男は古びた聖杯を、そっとゴブリンの口元へ傾けた。

「……さあ、お飲み」

ごく、と喉が鳴った。

次の瞬間、ゴブリンの体が痙攣した。目から、黒い血が流れた。骨が軋み、肉が膨れ、緑の肌が裂けていく。喉から漏れたのは、もはやゴブリンの声ではなかった。

赤いローブの男は満足げに頷き、闇へ消えた。

後に残ったのは、月を見上げて咆哮する化け物だった。

ゴブリンだったものが、人間の倍以上の背丈に膨れ上がっている。緑だった肌は、闇に溶けるような黒に。濁った目だけが、ぎらぎらと赤く光っていた。

――悠は、まだ何も知らない。

穏やかな寝息を立てて眠るその男は、すぐ近くで何が生まれたのか、知る由もなかった。

翌朝の食卓に、マルクとクレアと悠が座っていた。湯気の立つスープと、固いパン。いつもの朝だった。

悠は、スプーンを置いた。

「マルク、クレア。聞いてほしい」

二人が顔を上げた。マルクは穏やかに、クレアは少し怪訝そうに。

悠は、ゆっくり、言葉を選びながら言った。一語一語、心を込めて。

「俺、王都に、行く」

クレアの手が、止まった。

「元の場所に、帰る方法、探したい。ずっと、なんとなく、生きてきた。でも、決めた。自分で、決めた。初めて」

しばらく、沈黙が流れた。

マルクがスープをひと口すすり、ゆっくり頷いた。

「そうか」

ただ、それだけだった。でもその一言に、たくさんのものが込められている気がした。引き止めもしない。茶化しもしない。ただ、悠が自分で決めたことを、尊重してくれている。

「いつ発つ?」

「準備、できたら。すぐじゃない。でも、近いうち」

マルクは頷き、少し寂しそうに、でも誇らしそうに笑った。

「お前は、いい目をするようになった。来た時とは、別人だ」

悠は、少しの間、黙っていた。それから、スプーンを置いて、マルクに向き直った。

そして、深く、頭を下げた。

「マルク。……拾ってくれて、ありがとう」

片言だった。でも、ずっと、言いたかった言葉だった。

「言葉も、剣も、魔法も、全部、あなたが教えてくれた。行く場所もない俺を、家に、置いてくれた。あなたは……父親、みたいだった」

言い終えて、悠は顔を上げられなかった。なんだか、目の奥が熱かった。

マルクは、しばらく何も言わなかった。

やがて、椅子が軋む音がした。大きな手が、悠の頭に、ぽん、と乗った。子供にするみたいに、ぐしゃぐしゃと髪を撫でる。

「……気にするな」

声が、少しだけ、掠れていた。

「困った時は、いつでも帰ってこい。ここは、お前の家だ」

悠は、頷くことしか、できなかった。

その隣で、クレアは、何も言わなかった。ずっと、スープの器を見つめていた。その手が、胸元を押さえている。服の下に、昨日もらった花の小瓶を忍ばせているのが、わずかにわかった。

「……クレア?」

声をかけると、クレアははっと顔を上げた。そして、いつもの硬い表情で、ぶっきらぼうに言った。

「……勝手にすればいい」

立ち上がり、足早に部屋を出ていった。

悠は、その背中を見送った。

(……怒らせたかな)

マルクが、苦笑して言った。

「あいつなりに、寂しいんだよ」

悠は、何も言えなかった。

ただ、出ていったクレアの、スープの器を見た。ほとんど、手をつけていなかった。

——自分の部屋に戻ると、クレアは扉に背を預けて、ずるずると座り込んだ。

胸が、苦しい。

服の下から、そっと小瓶を取り出す。白い花が、変わらず淡く光っていた。昨日、あの男から渡された、奇跡の花。

——クレア。いつも、ありがとう。

不器用な、片言の言葉。それと一緒に差し出された、この花。

知らないはずがなかった。この村で育った者なら、誰でも知っている。奇跡の花を誰かに贈るということが、何を意味するのか。

(……好きだ、と。そういう意味だ)

離れていても、あなたの無事を知っていたい。あなたに、生きていてほしい。だから——この花を。それは、求婚にも等しい、一番大切な相手にだけ贈る花だった。

だから、昨日のクレアは、頭が真っ白になった。受け取っていいのか。これは、そういう意味なのか。震える手で、それでも、抱きしめずにはいられなかった。

なのに。

(……たった一晩で、これだ)

王都に行く。元の場所に、帰る方法を探す。

あの男は、平然とそう言った。花を渡したことなんて、まるで忘れたみたいに。

膝を抱えて、クレアは唇を噛んだ。

きっと、あいつは知らないのだ。この花の意味を。記憶がないというし、よその土地から来た人間だ。ただの、綺麗な花だと思って——世話になった礼のつもりで、渡しただけ。

そう考えれば、辻褄は合う。合ってしまう。

(……勘違いしたのは、私の方か)

笑えてくる。一人で舞い上がって、一人で抱きしめて、一人で大事にすると誓って。馬鹿みたいだった。

——でも。

クレアは、小瓶をぎゅっと握った。

幼い頃、両親が魔物に殺された。目の前で。自分だけが、何もできずに生き残った。

それからずっと、強くなることだけを考えてきた。優しさなんて、忘れた。誰かに甘えることも、甘えられることも。マルクは優しかったけれど、その優しさにどう応えればいいのか、クレアにはわからなかった。

愛し方を、知らなかった。愛され方も。

だから、あの男が現れた時も、警戒しかなかった。叩いて、突き放して、それでいいと思っていた。

なのに、あいつは、ゴブリンの前に飛び出してきた。傷を負った自分を、庇って。

あの時——胸の奥で、ずっと凍りついていた何かが、溶けた音がした。

(……ありがとう、なんて。何年ぶりに言ったんだろう)

飯を多く盛った。手当てをした。他の女が近づくたび、胸がざわついて、気づけば間に割り込んでいた。自分でも、わけがわからなかった。こんな感情、知らなかったから。

これが何なのか、今ならわかる。

そして、わかった途端に——あいつは、行ってしまう。

クレアは、小瓶を胸に押し当てた。白い花は、まだ咲いている。

(……勝手にすればいい)

そう、突き放した。いつものように。優しい言葉なんて、結局、最後まで言えなかった。

(……でも)

出発は、近いうちだと言っていた。あと何日、一緒にいられるのかもわからない。それでも、刻一刻と、その日は近づいてくる。

クレアは、ゆっくりと立ち上がった。

涙を、手の甲で拭う。そして、いつもの凛々しい顔を作った。

見送りになんて、行かない。あんな男。

クレアは、小瓶を、そっと胸の奥にしまった。

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